大空を見上げて

日頃感じていること

桜咲く

2014-03-29 | Weblog
 昨日、夕方突然長男からの携帯がなった。
子供達はそれぞれ厳しい社会の一線で荒波に立ち向かって仕事をしている。
特別変わった事がない限りお互いに連絡はしない。
1年に1~2回携帯で連絡しても「おう!元気か?仕事大変だろうが頑張れよ!」と言うと「うん!分かった」男同士の親子の会話数秒で終わる。
息子側からの連絡はほとんどないので何かあったのかと心配しながら話を聞いた。
長男はある大手の会社の執行役員をしている。
電話の内容は4月2日東京都品川区五反田でイタリアンレストランを開店するのでその前に試食会があるので来てほしいとの連絡だった。
3年前にも秋葉原で小さな飲食店を開店順調らしい。
息子自身は仕事を持っているのでお嫁さんに経営させる様だ。
長男は幼い時より私に似てあまり器用なくで口下手でいつも夢のような話をしていた。
何の根拠もないのに「北海道で牧場をやりたい」とか野球もピッチャーやっていた時期があったが、それほど上手ではないのに「プロ野球選手になる。」などとんでもない話が多く、将来どうなるか親として不安を感じた思い出がある。
千葉の中学を出たら、合格した県立高校には行かないで同時に受験した遠く南の全寮制の5年制の国立商船高専にいった。
卒業して海に生きるのだと思ったが、某大手建設会社に就職した。

親の私はサラリーマン生活、結局人から給料をもらう仕事で自分から商売したり又経営など知識もなければ能力も自信や度胸も皆無の人生だった。
息子は社会に揉まれながら経験を重ね私の知らない所で成長していったのかなと思っている。

桜咲く4月1日店が繁盛するよう祈りながら試食会に妻と行って来ようと予定している。



(東京都品川五反田(イタリアンレストラン開店)の側の桜)





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の教訓(君子危うきに近寄らず)

2014-03-08 | Weblog

  今は亡き父は長年公務員だったが趣味は浪花節だった。
終戦時、外地から帰国した数か月間私達家族はあっちこっちテント暮らしをしながらその趣味の浪曲を生かし、演劇ドサ回りの一員として飢えを忍んだ事もあり、いろいろな歴史的な昔話も良く知っていた。
父は話がとても上手で幼い時より「忠犬ハチ公」「軍馬と兵隊」「バカ息子物語」又歴史上の人物「源の義経、毛利の三本の矢、秀吉や家康、その他あらゆる剣豪物(忠臣蔵の堀部安兵衛、佐々木小次郎、宮本武蔵、後藤又衛、千葉周作)等、時には近所の子供達20人位父の話を聞きに家に集まって来た。
娯楽の少ない時代で皆とても楽しみにしていた。面白可笑しく子供達に話す人気者の父だった。

私がしっかり記憶にあるのは「君子危うきに近寄らず」で剣豪塚原卜伝の話。
道場の後継ぎを選ぶのに先生は免許皆伝の弟子三人の中で誰にするか迷っていた。
ある日、先生は襖の上に扇子を仕掛け、開けると落ちるようにして順番に弟子を呼んだ。一番に呼ばれた弟子は見事に襖を開けると同時に扇子を居合で真直ぐ切り落とした
二番目に呼ばれた弟子も同じように逆さ切りで見事に切り落とした。
三番目に呼ばれた塚原卜伝は、その襖を避けて反対の襖を静かにあけて先生の前に正座した。
先生は迷わず塚原卜伝を後継者と決めた。
道場主の先生は「君子危うきに近寄らず」これぞ無手勝流の極意。
本当に強い者は自分の行動を慎むものと教授したとの事。
又卜伝は全国武者修行中、渡し船の中で威張って大騒ぎする豪傑侍を最初は知らないふりして黙って寝ていたが、あまりしつこく乗船した皆に迷惑をかけるので、少し静かにとたしなめたら「勝負しろ!岸につけろ!」船頭は仕方なく岸につけると豪傑侍は先に飛び降り勝負だと怒鳴っていたが、卜伝は降りると見せかけ船頭から竿を借りて舟を沖へ出し、一人岸辺に降ろされ豪傑侍は卑怯者と言いながら怒鳴りまくっていたが、卜伝と乗船客に大笑いされたとの事。

私は若い頃、自衛隊最強の特殊空挺部隊に7年間籍を置き、「あらゆる武道」、「体力、精神力の限界のレンジャー教育」、「多種武器の射撃」、「徒手格闘(敵を数秒で倒す)格闘技を身につけた。その後一般社会に出て何度か避けられないトラブルにあったが、父の昔話の教訓「君子危うきに近寄らず」が加害者、被害者にもならず、今迄この年まで大きな事件、事故にも合わず平穏に無事で過ごせたと本当に感謝している。
    
                    
 (老いた卜伝修行の若武者を鍋の蓋での場面)(3月の美しき見事な紅梅) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする