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大空を見上げて

日頃感じていること

安全運転(左、右、前方よし!)

2025-08-30 | Weblog
 
自衛官時代の若き22歳の頃「車両教育を命じる!」と命令を受けた。
国家公務員は道路交通法の特例よって、普通免許がなくても直接大型免許取得できるのでいきなり大型車両教育が隊内の車両教習所で始まった。
教習隊員は関東、40名、5人一組で教官がつき、ものすごく厳しい教育が始まった。
噂で車両教育は旧軍隊式でビンタ、蹴っ飛ばしなど当たり前、涙を流しながらの免許取得を覚悟しなければならないと聞いていた。
毎日教習車両の点検があり、車のボディは顔が写りヒゲが剃れる位磨き上げ、エンジン内部ピカピカに、車の底又タイヤの裏まで磨き少しでもゴミや汚れがあったら、その組は怒鳴られその日の教習は中止で周りを駆け足及び腕立て伏せを何時間もやらさせられる。
毎日大きな声で「右よし、左よし、前方よし、発進よし」声が枯れるほど声をだし指差し確認。
私も一回ハンドブレーキを解かないで発信しようとして「何をやってんだー、気合が入っていない!」と怒鳴られ、蹴っ飛ばされ、その日は教習中止で教習所の外周を何時間も駆け足、腕立てをやらされた事を思い出す。
学科は一問の間違いは許されず満点があたりまえで全員消灯を延長して夜中まで勉強して頑張った。
一ヶ月後、無事全員免許取得卒業。あの鬼の教官は優しく肩を叩きながら握手して「おめでとう!」と。
その日皆で教官を交えて街に楽しく飲みに行き教官と歌い語りこれからの安全運転を誓った。
その後公務員(自衛隊、警察)は一般の免許他公務員専門免許「青免」を取得しなければ運転は出来ない。
「青免」始め特車戦車(第六特郡山にて)、牽引、大型特殊、大型二輪、大型二種、車両教官の各免許、資格を取った。

若い22歳のあの始めてハンドルを握った時あの凄く厳しい車両教育を受けたお蔭で現在があると感謝している。
免許取得後35年間年間安全運転に努め「警視庁交通部長賞数回、A級ドライバー、優秀運転技能指導員、「退官後自動車学校勤務」頂いた。
現在も指差し確認しながら左よし、右よし。前方よしは必ず呼称している。   

(写真:若い頃、ある時期寝起きを共に行動した世界一の性能を誇る三菱の国産特車「戦車」)
  

 

 

 




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高齢者免許更新

2025-08-15 | Weblog
この度、教習所免許更新講習に行って来た。
この夏84歳となる。ここで講習修了証を頂かないと
免許更新試験場には行けない。一番気になるのは認知症検査で前回ギリギリで注意を受けたので
6月初旬が講習試験なので3週間前からA、B、C、Dの図柄を64を全部
暗記、家のあっちこっちに貼って覚えた。
4つのランク16個ずつ出るので間違いなく区切って覚えなくてはいけない。
朝夕頭の中で何度も間違いないように復習した
いよいよ本番ではCの図柄で、ABDの図柄は48除いてCに集中し五分間の規定だが一分間で全部書け満点だった。
他の試験、目、適性検査、運転実地は全てOKだった。
「前回の3年前はパソコンでAだけを見てこんな感覚かと思いAの16だけ見て甘く考えていた。
それが認知試験ではBだった、Aの図柄が頭にありまごつきしっかり考えても5個位しか出来なかった。」
妻には、食卓、トイレ、階段、寝床とABCDの紙を張ったので、まるで受験生だと笑われた。
無事に免許更新できたのでこれからまた3年間安全運転で頑張って運転します。


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猛暑の昼下がり

2025-07-12 | Weblog

今日は7月10日週始め関東地方37度今年一番、梅雨の合間の猛暑!
朝8時、私は起床予定もなく、妻は所用で出掛けた。
一人静かに読書や♪、又TVニュースを観て時を過ごす。
歳を重ねると生きる意味を考え心の寂しさを感じながら時々自分自身を見つめながら思う。
政治、芸術、音楽、スポーツ等、一部活躍して名を残す人もいるでしょう。
それはそれなりに意味があると思うが、それも一世紀又二世紀過ぎれば、ほんの一部を残して
ほとんどがその時代の一般庶民として歴史には残らないでしょう。
亡き父が私によく言った「人間として強く、正しく、朗らかに生きよ」と !
私もその事を心がけて、残りの日々楽しさを見つけ人生悔いなく過ごしたいと思います。
 
もうすぐ又誕生日かと思うと!とても寂しい気持ちになる。
後期高齢者となり、健康には自信はあったが、昨年と今年突然のめまいで医療機関のお世話になりました。
脳波、心臓、血液、など全て検査異常なしだった。
年齢の影響だと思う。耳鼻咽喉科でジセキの薬をもらった。
80歳を超える後期高齢者は殆どそれぞれ持病があるのは当たり前
で仕方がないようだ。
あまり神経質に考えない事にした。

日々の行動で何年も携帯電話をバンドに通して腰に着けている。
そのカバー傷んで近くで売っていないので取り寄せた。
マナーにしていてもバイブで身体に感じとても便利である。
この前電車の中で気がついたのだが、腰につけているのはだいたい年配者で若い人にはいないなぁーと思った。
自分が年寄り臭く、格好悪くダサイと感じた。
妻に笑われた。あなた、自分を幾つと思っているの?
時々自分が若いつもりでいて年を感じてないことがある。
いや、内心自分の年を認めたくない、という気持ちがあるのかもしれない。
妻は言う。常に自分の年齢を自覚して(良い意味で)無理をしないで年相応の行動及び社会的態度に注意しなさいと。
うるさいなぁ、そんな事分かっている!とやり返しながらまだ年齢に気持ちがついていかない自分がいる事は確かである。
ダンスの知人との会話、「奥様はお元気ですか?」と聞くと「二年前亡くなりました。」と。
私は何とも言えず「大変失礼しました。」 「今孫の男の子(大学生)と住んでいます。」 との事。  
仕事一筋で妻には迷惑ばかりでしたと寂しそう。 
私はこのダンス初心者の男性に一生懸命ステップを指導。   
健康保持の為に週二回プールでエアロと社交ダンスに通っている。
妻もプール&体操等頑張っている。
*長年連れ添った妻に迷惑をかけずに何とか元気で日々過ごしたいといつも思っている。
夕ンゴの御堂筋 小林旭

 Shall We Dansu Final Dance    
 
  
 産経新聞(2025,7,11)
総務省統計社会生活基本調査によると全国で約129万人が趣味として 社交ダンスを行っている。
60代から80代まで健康保持や認知症予防&ストレス解消の為に
頑張っている。 



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懐かしき青春の絆

2025-05-24 | Weblog

 
令和7年4月5日、千葉のホテルにて(後期高齢者)
    
   想い出の大空の仲間
元気に会えた数少ない同期の仲間達と楽しい時を越えて!
私は今現在生かされてる事を大事にして、残り少ない人生を悔いのないよう決められた日々を頑張って生きていきたいと思う。     
  「死とは、人生という地平線の上でヨットが徐々に小さくなり、最終的に見えなくなる事です。
しかし反対側ではヨットが少しずつ大きく見え出し、新しい港に着きます。
その岸壁には神様が立っていて、心から喜び、新しい家を準備して迎え入れようと待っています。
先に旅立った会いたい人達に又会えるか楽しみです。
ほほえみがほころびでることでしょう。」
高齢者となり今迄歩んだ我が人生を振り返ると、幼い時、学生、青春、公務員時代、会社員での人との出会い、別れも想い出としていろいろ経験しました。   


箱根湯本より
 


自分自身の人生を振り返りながら少年時代は瀬戸の海に憧れ、青春時代紺碧の大空の花、としてその後仕事も定年迄勤め趣味のスポーツ等続けられ、個人的には山あり谷ありの人生で、辛い試練もありましたが、おもしろく生きて来たように思います。
  旅に出かけ雄大な美しい自然を楽しむ時、夜空に輝く月や星を見たり、山や野に咲く愛らしい草花を見るとき、旅先でいつも感動で神の恵みと思っています。
惜別の歌 小林旭


  





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 「美しき自然 静かに人生 かえりみる 」

2025-05-03 | Weblog

  
アラスカの旅(昨年5月)長期渡米
    
 アラスカ鉄道14時間
 

雄大で素晴らしい景色に圧倒!

 

JET STREAM ! あなたのジェットストリーム/城達也  
帰国アラスカのフエアバンクス~シアトル(乗り継ぎ五時間待ち合わせ)~羽田へ、22時間空の旅疲れました。

今年のゴールデンウイークは我家でのんびり!
  ~~~~~~~~~~~~~~
 素晴らしき再会(再掲載)  

大雪の影響で新潟県の関越自動車道で車およそ2400台の立ち往生が続いていたが、新潟県知事より自衛隊災害派遣徐々に解決に向かっている
〈関越道〉車中に40時間 物資届かず「雪をとかして飲んだ」 ドライバーの支え合い援助を待っていたとの事。
のニュース聞きながら私は遠い昔の猛、豪雪災害派遣を思い出していました。 
「若き日の懐かしい青春でした。 私は空挺隊員となって2年、大空の花として夢誇らしく胸に抱いて頑張っていました。
昭和38年2月、前年12月より降り続いた雪が過去の記録にないほどの大雪となり、北陸地方は交通がすべてマヒし非常事態になった。総理大臣より要請、防衛庁より千葉の第一空挺団に豪雪災害派遣の派遣命令が下りました。、空挺団総力上げて準備、私達は新潟の栃尾市に向かった。

 先遣隊30名の私達は新潟県栃尾市のスキー場にへりコプターで落下傘降下し、物資も投下本隊600名は
輸送機で栃尾のスキー場では狭い為、長岡の大きいスキー場に降下したように記憶しています。
又長岡の見附より40㎏の荷物を背負って20kmの道のりを雪を掻き分け目的地に着いた。日頃鍛えている約5oo名空挺隊員(他地区も分散)にとってもかなり厳しく辛かったように聞き記憶している。
約1ヶ月半、空挺隊員総勢1500名は道路や電車通す為猛烈に作業に従事した。10日後には昨年より途絶えていたすべての交通が可能になり食料、物資が栃尾市にドンドン送りこまれた。
私達は市をあげて喜ばれ涙を流しながら握手された。
私は滞在中栃尾小学校を宿舎として使わせていただき、夜子供達が自衛隊のお兄さんと言って遊びに来た。
私は昼間の重労働でかなり疲れていたが、子供達小学1,2年達の無邪気な人懐っこい顔を見ると癒され毎日抱っこしたり、おぶったり又ゲームをして遊んであげた。 その後、市内の道路、民家の屋根、公共の施設等雪排除作業に従事した。
全ての任務が約二ヶ月間初春の候、終わり撤収の時期がきて帰る時、栃尾市の住民が何百名も栃尾駅に見送りにきた。
駅前で栃尾高校の吹奏楽部と関東から駆け付けた自衛隊中央音楽隊の演奏で別れの式典が盛大に行われた。
「ほたるの光り♪」の演奏いよいよ別れの時、大勢の中から一人の女の子が目に涙して私の側に駆け寄って来た。
私が毎晩のように小学校の体育館で鬼ごっこや抱っこしたりおんぶしたK子ちゃんだった。
私は涙を拭いてあげながら親に挨拶して栃尾市を去った。
3月下旬桜咲く習志野にやりとげた清々しい気持ちで、全隊員無事帰隊した。」

奇跡的「再会」
それから20年後(28歳で第一空挺団を退官)東京の自動車学校の教官をしていた時の事。
28歳位の女性を指導中原簿を見たら、本籍が栃尾になっていた二時間連続の教習担当だったので、休憩時間に昔私は栃尾に豪雪災害派遣に行った事や、いろいろな出来事など思い出を話しているとその女性は目に涙をためて、「その女の子は私です」と言われて私は本当にビックリしました。
改めて原簿を確認すると。 間違いなくK子ちゃんです。
彼女も私も懐かしさでしばらく涙が止まりませんでした。なんとも言えない再会に感動し、涙をながしながら指導したように覚えています。                      
「その時の自衛隊のお兄ちゃんの事は今でもしっかり覚えています!忘れていません」と言ってました。
彼女は結婚してお子さんが二人いて当校の託児所にあずけての練習でした。
その後、私が担当し免許取得までお世話しました。
後日ご主人共々ご挨拶に来られました。
ご主人も栃尾の方で、何度もお礼を言われて、私との事は家族皆の思い出として一生大事にしますと言っていました。
人の世の常なりと言えど出会い、嬉しい再会、別れ等心温まるの人との想い出に感謝。

本当に不思議な再会で私も懐かしい想い出として大事に記憶しています。 
 (当時の写真を見つけました。K子ちゃんを教習中)
  





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義母の介護

2025-04-23 | Weblog
 
(一昨年4月、桜満開我が家近く義母と散歩)

    
(無事に退院~施設へ)

義父が東京の実家で3年前の3月召されその後
妻の母を我が家に引き取り楽しく3人で生活していました。
昨年より徐々に身体が弱り9月より我が家から自家用車で30分の施設に入所、夫婦で月に何度か面会に行きアパホテル50階のレストラン等へ食事したり、車で東京の親族に会いに行かせました。
今年の二月で満97歳となりましたが、最初は補助車を押しながら歩いていました。とても元気でしたが、3月17日施設から連絡で熱があり肺炎を起こし救急車で病院に運ばれ私達も病院に駆けつけました。
数日後、担当医から老衰で後一週間位だと言われました。
親族関係が次々と日々面会、私達夫婦は毎日、お世話などしながら連絡などしてました。
私は残り少ない義母の人生健やかにと!神様にお祈りしてました。
4月10日頃から食事も出来るようになり熱も上下は少しありますが、車椅子に座って院内をリハビリするようになりました。
先週、金曜日担当相談員から来週退院と言われ驚きました。
そして今週月曜日11時施設から迎えの車が来ました。
病院の玄関で40日振りに外の空気を吸って、気持ち良さそうなお母さんに良かったねぇ!と握手、私も嬉しく見送りました
又施設に行けば会えるので一安心夫婦で喜んでいます。
 
 


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温かいコメントに感謝です。

2025-04-10 | Weblog
読者様からのコメントです。
fight-mさんのブログを少しだけ拝見させて頂きました。
まずタイトルの「我が人生に悔いなし 時には反省」~「大空を見上げて」は大局観がとてもいいですね。 fight-mさんは元自衛官で、武道家で、運転の元教官でもあり、プロ級の意識と腕前を感じました。 そのような方だから仕事でも最高級のお車が与えられたのだと思っています。 生涯現役として、最近までバスの運転でアルバイトされていたの事、本当にご苦労様です。
fight-mさんは男としても、人間としても、とても素敵な人生を過ごされていると感心しました。 盲人の女性との社交ダンス、新潟栃尾市の想い出など感動のお話が多いですね。又奥様のブログ記事にて海外旅行中(フランス、パリシャンゼリゼ通り)スリ集団数人を主人一人で撃退、私が掏られた財布を取り返したとの事、凄い!。 これからもブログ投稿に頑張ってください。
私も勉強のために読者登録させていただきました。 コメント欄にてお返事させていただきますこと、失礼いたします。
追伸です。 掲載されるお写真、特に風景の写真は構図や色彩がとても綺麗です。 それから、奥様もとてもしっかり者でよかったですね(僭越ですが、私と同じです)。


  この度、コメントを頂き恐縮しながら有り難く感謝しています。  私の半生を断片的に思い出しながら拙い文章でブログを初めて約15年となります。 現代社会で活躍した成功者でもない私ですが、与えられた人生道を一生懸命生きて来ました。 恥ずかしながらも正直に素直に日記として又日々の生活で感じた事、過去の出来事で強く記憶している事等を書きブログ公開して来ました。
 余談ですが、先日「フーテンの寅さん」で、ドラマで甥っ子の光男が人間は何の為に生きているのか!と寅さんに聞いているセリフの場面で「日々の小さな楽しみを探して生きていくのが人間よ!」と応えていた。私は単純だが、的を得ているなぁ~と思いました。 励ましのコメントありがとうございました。奥様といつまでもお元気でお幸せを心よりお祈りしています。
黄昏の後期高齢者となり、そろそろブログも閉じたいと思っていますがもう少し頑張ります。 
======================
「A  Iより感想」
ブログ「大空を見上げて」では、作者が過去15年間の人生を振り返り、その間に感じたことや経験したことについて綴っています。このブログでは、戦争や紛争の歴史、家族の思い出、そして日本民族としての誇りについての深い考察が述べられています1。また、作者は自動車学校の教官としての長いキャリアや、高齢者としての日常生活についても触れており、読者に対する感謝の気持ちを表しています。
   

 

 

10年間(国家公務員、空挺隊員)
[陸上自衛隊の精鋭部隊として、侵略、天災地変などの国家の危機に際しもっとも困難かつ重要な場面に、全国を股にかけて空中機動し落下傘によって空から舞い降り身を挺してあらゆる任務を果たすことが求められている部隊です。
入隊条件は倍率30倍、東大入学よりも狭き門と言われている超エリート集団です。(防衛省記事) 

 


   

人間幅を考え趣味にて(現在も!)
 

京成ドライビングスクール入社



 

定年後京成電鉄本社社長(SP&ドライバー)へ
 
    

契約社員(70歳~80歳)バス運転アルバイト
 

   






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心,青空の如く(我が願望)

2025-03-12 | Weblog
昨夜は、俳優高倉健さんの生涯記録の物語をTVで観ました。

2014,11,10(83歳)肺がんで逝かれたとの事、「黄色いハンカチ」「八甲田山」
や「鉄道員」等素晴らしい映画作品が印象深いです。
亡くなる四日前に「往く道精進にして忍びて終わり!」と辞世の句を残した
そうです。今、私83歳何か考えさせられ、お疲れ様でした!と呟きました。
対馬酒唄
今日は午前中静かにコ-ヒーを飲みながら高倉建さんを忍び癒しのメロディーを聴いている。
何も変わらぬ普通の日常生活に至福の時を感じている。
生きているものは必ず死ぬ、死ぬときはどんな人も孤独、そこ
には貧富の差もなければ社会的地位もない、ひとりで生きてひ
とりで苦しみそしてひとりで死んでいく、それが人間の一生だ
と思っている。ありがとう!と感謝して逝きたいと願っている。

対馬酒唄
昨日の妻のブログ
人にはいろんな性格の人がいて、穏やかな人もいれば気難しい人もいる。
以前、知人のご主人様が亡くなって、
さぞかし寂しいだろうなあと思っていたら、
案外そうでもなく不思議に思っていたら、知人曰く、
ご主人は自分の思うままにならないとすぐに
機嫌が悪くなって、ずいぶんご苦労されたそうだ。
この方のようにある人たちは、毎日、頑固で気難しい夫の
機嫌を伺いながら生活していると聞く。
そんな気を使う生活は想像するだけで楽しくないしゾッとする。
でもそんな人がとても器用に何でもこなし、
料理まで作ってくれると聞くこともあるので、
人は外側だけではわからないものだと思う。
夫は不器用だし、かまちょ(かまってちょうだい!の寂しがり屋)
だし、いい加減だし‥、困ったところはたくさんあるが、
「機嫌が悪い」ということがないことが本当に良い資質で助かっている。
体調不良などで機嫌が悪くなるのは私の方だ。
気難しさが返って力強く男らしい魅力となっている場合も
あるかも知れない。
でも私はいつもご機嫌でいてくれる方が有難い。
我が父親は導火線が短くて機嫌が悪くなる時、母はいつも苦労していた。
将来こんな人とは結婚したくないと子ども心にも思ったものだ。
父はそんな自分を反省しバツが悪そうにしていたことを思い出す。
父もまだまだ成長の過程だったと今は思う。
でも情が深くて、機嫌が良いと母をお姫様抱っこして
「おまえが一番かわいいよ。」なんて、
子どもの前でも平気でやる人だった。
子ども達も良く可愛がってくれた。
機嫌を良くすることは大人のたしなみだと聞いたことがある。
難しいが、感情をうまく制御できることが真の成人なのかも知れない。
毎日なるべくご機嫌に暮らしたいものだ。


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主人の最後の試合(全日本短剣道道)

2025-02-28 | Weblog
全国の武道家にとって日本武道館で選手として試合ができる事は最高の名誉な事です。
高校野球の選手が甲子園、ラクビー選手が花園又秩父宮などでの試合をする事が夢で憧れなのと同じです。
私は最後の試合を日本武道館で精一杯頑張れた事に本当に嬉しく感謝しています。
 



妻のブログより10年前の想い出(70歳)
第8回全日本短剣道大会が日本武道館で行われました。
全国警察官、総合警備、自衛官から選抜勝ち抜いた強者揃い。
朝7時、すでに気合の入っている同じく千葉代表の教士七段の鉄人M氏から「さぁ行くぞー!」と電話が入りました。
主人は選手69歳来年は70歳、大会に出場するのは最後だと言うので私も応援に行く事にしました。
8時半に日本武道館に着くと、気合の入った掛け声と若い熱気が立ち上り、多くの選手達が練習に励んでいました。
9時に開会式が始まり、以後プログラムにのっとって試合は進められていきました。
主人が出場する50歳以上の選手30名はベテランの指導者ばかりです。

1回戦の主人の相手は九州長崎代表の段位も称号も上の方、もちろんずっと若いようでした。
主人とM氏は最高齢者で勝負はともかく(勝つに越した事はないですけど)、ケガをせず堂々と戦ってくれたらそれで良し!と思っていました。
選手は試合直前に背中に赤と白のしるしを付けます。
主人も友達の鉄人も白でした。
私は正面の一番良く見える所に場所を変え、目の前の特等席です。

お互いに礼をして審判の「始めッ」の声で主人の試合が始まりました。
お互いに激しく打ち合っています。
あらッ、審判の白い旗があがってる! えっほんと?でも3本勝負だから後1本 今度は赤、そして何とまた白が…。
そうです! 勝ったのです!すごいです。

いよいよ次に鉄人M氏の試合が始まりました。
相手は愛知県代表の50代選手です。
鉄人M氏は…あっ、審判の赤い旗が上がった、次は白、そしてまた白、やったぁ!
そうです、二人とも1回戦を突破したのです。

若い人たちに混じって快挙でした。
鉄人M氏は第1回目の全日本短剣道大会の団体戦で何と準優勝だったそうです。

2回戦は二人とも敗退しましたが、満足と充実感のみなぎったほんとに良い顔をしていました。
お疲れ様でした。

私たちは帰りに東京ドームで開催されている「世界らん展」を見て来ました。

(日本武道館の前で)   
                                                     
  

 
千葉県大会優勝
 
 
第24回全日本短剣道大会 団体戦 決勝戦
【日本武道館で行われる全日本短剣道大会。
短剣道は昔武士が腰に大小の刀を差していたがその小さい方の脇差である。
短剣道の起源は中条流小太刀の流れを汲み、後に武道の歴史で名が知れている富田流小太刀として明治まで名が残りその後短剣術となり現在の短剣道となった。】
    
  




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終活を考える

2025-02-19 | Weblog
【高校三年生】替え歌【GoGo高齢者】 #替え歌 #シニア世代の応援歌 #舟木一夫  #高校三年生
年齢を重ねると徐々に終活の事が常に夫婦の話題になり、我が家にも捨てる勇気がなく、要らない
物がかなりあるなぁーと思います。
 片付けたり捨てたりしても生活している以上どんどん増えてしまいます。
最近 物を持つ幸せより、物を持たないでの生活に改善しようと、 例えば昔将来の思い出になると
旅行等でビデオもたくさん撮りました。
 しかし あまり観る気にもならず、 おそらくこれからも観ないので処分したいと思います。
その他に衣類、本等ガラクタがあり考えると不必要ものばかりです。
これからは「買わない、ためない、もらわない、捨てる、代用する、なしで済ます」と生活改善をして
我が家も快適な環境作りに励もうと思っています。
 
 読者様の素晴しい詩集作品(グラマンのお絵描き)許可済み
 
A  I  より
終活を考えることは、ただの準備ではなく、自分自身の人生を振り返り、より充実させるためのプロセスでもあります。自分の人生の最終段階をより意識的に迎えるための大切な取り組みです。


             

  
  
 

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