島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

自動車産業は何故生き残ったか

2009-01-30 20:57:07 | クルマ社会の問題
        昭和45年(1970) 16,765人
        昭和54年(1979) 8,466人
        平成4年(1992) 11,451人
        平成20年(2008) 5,155人

 以上は交通事故(交通犯罪というべきかもしれない)による死者数の推移である。
 これでわかるように、死者が一番多かったのが昭和45年であり、昭和54年まで下がり続けたが、再び死者数は上昇を続け、平成4年に第2のピークとなった。
 その後下降の傾向が顕著となって、昨年はなんと38年も以前の昭和45年のわずかに3分の1以下となっている。
 昭和45年における自動車の全保有台数は昨年の約4分の1以下でしかなかったから、1台あたりのクルマの死亡事故に係わる率は4×3としても現在の12倍も高かったことになる。だから、単純に事故死者の数はクルマの数に比例するとすれば、昨年の死者は2万人を超えていたことになるが、実際はクルマの数の増加(更に1台当たりの速度性能と走行距離の大幅上昇も加えるべき)に反比例して事故死者数は減少している。
 普通は死傷者が1人でも出る事故が発生すると回転ドア、遊園地の遊具、エレベーター、学校プールのスタート台などのように撤収されるものだが、いかに犠牲者数が減少したとはいえ、年間数千人の死者を出すクルマが社会から排除されないのは考えれば大変不思議なことである。
 それでも、もし、事故死者が上昇し続けるだけであったら、この「人命最優先」の社会において自動車産業に対する風当たりは強くなって、さしもの自動車産業も存続は困難であったと思われる。
 なぜ、自動車産業は生き延びたかと言えば、それは引き換えとして警察など公的機関とともに「事故死者の減少」の施策(※注)に取り組んできたためであろう。
 「事故死者の減少」は自動車産業全体が存続するため不可欠の条件なのである。
 こうして確かに犠牲者は減少の一途を辿っている。
 しかし、クルマの増加により地球温暖化は加速度的に進み、中心市街地の衰退や街路景観の破壊など都市の崩壊も進む一方である。
 ・・・・以下、次回に続く・・・・

※一連の交通安全運動、歩道増設、信号等の安全設備設置の推進、シートベルトの着用、チャイルドシート装着義務化、飲酒運転の厳罰化と撲滅キャンペーン・・・など

エコカーとてエゴカー

2009-01-30 07:08:48 | クルマ社会の問題
 日本の自動車メーカーはハイブリッドカーなどを始めとする“エコカー”の開発にしのぎを削っているようだ。
 ハイブリッドカーの場合もまだまだ価格に問題があるものの、それでも徐々に市場に出ているようであるが、“究極のエコカー”と言われている水素エネルギー利用の燃料電池車が市場に出られるようになるにはまだまだ課題山積といった状況である。
 だが、いかに環境に優しい“エコカー”とは申せ、そのエコカーが日本全体を席捲するようになったとしても、それにより交通事故が激減し、中心市街地の繁栄が甦るということには少しもつながる保証はない。
 軌道を走るわけではないので、やはり依然として好き勝手な時間に好き勝手な方向に走り、好き勝手な場所に駐停車しようとすることには変わりがない。
 だから、必ずどこかで渋滞を生じさせ、また駐車場の乱造のために街並みは虫食い状態となって都市の美観はますます無粋で殺風景なものになるばかりでなく、中心市街地の衰退はますます進行していくに違いがなかろう。
 この自動車、とりわけマイカーなるものが有する“好き勝手”な性格は“エコカー”となっても“エゴカー”であり続けるであろう。

オバマ、シュワ、ゴア

2009-01-27 21:21:39 | 地球温暖化
 オバマ新米国大統領は環境政策でも前政権との大きな違いを見せ始めている。
 かつてのアクション・スターのシュワルツネッガー氏が知事であるカリフォルニア州は独自に自動車の排気ガス規制策を実施してきたのに対し、ブッシュ前政権は拒否していたが、オバマ政権は認可の姿勢を示している。
 シュワルツネッガー知事の行き過ぎたクルマ社会に対する見直し政策についてはこのブログの昨年9月24日の記事でも紹介したので是非ご覧いただきたい。
 また、ブッシュの二期目の大統領選挙で敗北したカーター元大統領時代の副大統領のアル・ゴア氏が著した『不都合な真実』が地球温暖化問題に対する関心を全世界的に高めたことがまだ記憶に新しいが、いよいよアメリカも本格的に二酸化炭素排出の削減に向けて始動したと言えるのか見守りたい。

※交通渋滞の写真はタイ・バンコクのもの(カリフォルニアでなくて蒙御免)

漫画キャラクターは頑張っているのだが

2009-01-23 23:28:32 | クルマ社会の問題
 山形から列車を乗り継いで約2時間30分ほどの都市を訪れた。
 中心商店街にはこの街出身の有名漫画家の作品に登場する人気キャラクターが立像となって街往く人たちに愛嬌を振りまいているのだが、その街を歩く市民の姿がまことに少ない(写真の右下)からキャラクターたちも淋しそうである。
 彼らも「街おこし」に頑張っているわけだが、シャッターを降ろしたままの店舗が多いのが非常に多く目に付く。
 中心市街地の空洞化が問題になっている地方都市は数多いが、やはり郊外に広大な駐車場を備えた大型店舗が進出したせいであろうか、この都市も中心商店街が衰微した街の典型といえそうである。
さて、ここは何という名の都市であろうか。

雇用不安は受験戦争を激化させるか

2009-01-19 23:03:01 | 時評
 若者たちの間でフリーターとか非正規労働者とかいう身分が“気楽”な身分と思われ、また当の本人たちもそう自覚していた時代がつい最近まであったことは確かである。
“正社員”は給料等が高額で安定した身分であるものの、決して気楽なものではなく、神経が休まる暇すらないものだから、そんなら収入は低額でもまあまあの暮らしができる限り気分的に楽な方が良いと考える若者が多かったのは決して不思議なことではない。
 しかし、昨年後半からの世界的な金融不安や景気の大幅後退が日本にも押し寄せ、非正規労働者や派遣社員に対する仮借ないリストラの嵐が吹き荒れるようになって住む家すらなくなり、最貧状態にまで堕ちるようにっては、やはり身分が保障されたエリート・コースを目指すべきという意識が若者の間でも再浮上してくることになろう。
 すなわち、その前段階として有名大学や有名高校、はては有名幼稚園までおのれの子女に目指させる“お受験”熱が親たちの間で輪をかけて激化することになりそうである。

高齢ドライバーでも進むクルマ離れ

2009-01-16 23:26:50 | クルマ社会の問題
 つい先ほど、某開発業者の役員の方から聴いた話である。
 その会社では街の開発について色んな市民の考え方を聴取して参考にしているらしいが、むろん街なかに居住する高齢者の話も聴いている。
 七十代の高齢者でも買物はクルマのハンドルを握って郊外の大型店まででかけることが多いが、駐車場が広すぎて、3回に1回くらいは自分の車をどこに置いたかわからなくなって途方にくれることがあると語る高齢ドライバーが少なくないことに驚いたという。そこでその開発業者氏は街なかでの商店の充実の大切さを痛感したようだ。(写真は山形の郊外新興商業ゾーン)

将棋に喩えればコンセントは「歩」か?

2009-01-12 22:13:15 | 地球温暖化
 行政やマスコミによる国民向けの「地球温暖化防止」の呼びかけは洞爺湖サミット以降も結構盛んである。
 むろん、それはそれで良しとしておくべきなのだろう。
 でも、やはり些か物足りない、迫力不足の感は否めない。
 例えば、電気器具の使用を終えたらこまめにプラグをコンセントから抜いておくとか、不要な照明も消灯しておくとか、クルマだったら、アイドリングはしない、エコドライブを心がけるなどのような類である。
 将棋に喩えるならば、始めから「王将」を狙うのを諦めて、「歩」を攻めることだけに熱心であるようなものである。
 だが、たとえエコドライブであってもわずか10分の走行を30分の自転車走行に切り替えただけで、家庭内の「無駄な照明」をかなりの日数続けた分の二酸化炭素排出量を削減できることになるのではないか。
 本気で「地球温暖化防止」を呼びかけるならば、二酸化炭素排出の横綱・王将とも言うべきクルマの使用の大幅抑制を最初に呼びかけるべきであろう。
 えっ、クルマからの排出は全体の約20%程度だから大した割合ではない?
 確かに「走行」にのみ限ればその程度であるが、クルマの走行を支える「クルマ社会全体」、つまりクルマ本体及び部品・関連物品の生産、販売、修理、点検、廃棄、石油産業、道路建設、損害保険業務、警察業務・・・等々による二酸化炭素排出の総量は40%を超えても不思議ではない。
 現在、自動車産業の不振が経済界全体を揺るがしている。
 それだけ「クルマ社会」の裾野は広く、「クルマの走行」は夏の富士山の冠雪の部分、或いは城に喩えれば広大な城郭の中の天守閣部分のようなものであろう。

「衣食住」プラス「移動」

2009-01-09 22:09:20 | クルマ社会の問題
以下は上岡直見氏の論文である。「日本インターネット新聞」より
「衣食住」プラス「交」のセーフティネット
上岡直見2009/01/06
 JanJanでも連日報告されているとおり、公的セーフティネットで保護されない人々に対して、市民の支援活動が行われている。生活に必要な要素として「衣食住」が伝統的に挙げられる。しかし、国民の大多数が徒歩で移動できる範囲で職業と日常生活を営んでいた時代には、これで必要条件を満たしたかもしれないが、現代の社会・経済システムのもとでは、これに「交」を加えて考える必要がある。「交」とは交通の意味であるが、狭義には移動を、また広義には通信を含む。

 日本の交通体系の変化を振り返ってみると、モータリゼーションの初期には、社会的な強者からクルマを所有していった。いまでは「田舎ほどクルマが必要」と思われているものの、初期には、実際にはクルマは都市から先に普及していったのである。次に、モータリゼーションが日本の隅々まで浸透する時期になると、経済・社会がクルマ社会を前提とした構造に変化していった。いわゆる「クルマがないと生活できない」社会になった。(以下、省略)
 
全文は http://www.news.janjan.jp/living/0901/0901020587/1.php

謎は地下歩道にあった

2009-01-06 20:17:04 | クルマ社会の問題
 私もかなり頻繁に利用する山形市の内外で好評の中心市街地循環の百円バスだが、時々不可解なことを感じることがある。“時々”というよりはしょっちゅうと申した方が適切なのかもしれない。
 それは山形駅前で乗車したばかりの人で、すぐ次の停留所で降車する人がかなり多いからである。むろん、徒歩でも5分とかからない距離である。
 なるほど、そのような人の多くは高齢者である。
 しかし、5分以内でも歩くのが辛いからというのなら、その次の停留所からもそのような人が少なくないはずだが、めったにそのような高齢者を見かけることはない。
 でも、駅前大通りを歩いて「なるほど!」と気が付いた。
 駅前大通りを歩くことなど山形市に生を受けてからそれこそ凄い回数を経験していながら、やっと気付いたことなので気恥ずかしいことなのだが、駅を出てわずか2~3分の所にある十字路に地下歩道があり、歩行者は地上を横断してはならないことになっているからである。
 確かにここの階段を昇り降りするのは足腰が不自由になった高齢者にはかなり辛いはずである。
 ただの平たい道路なら、たとえ30分でも歩くのがそう不自由には思わなくても、急傾斜の階段を昇り降りするのは苦痛に感じることは大いにありうる。 幸い、路上でのバリアフリー化を訴える市民グループの努力が行政にも通じ、この交差点でも地上に横断歩道が設置される見通しが立ったようである。
◎写真説明 ①駅前に停車の中心市街地循環の百円バス
②駅ビルからの駅前大通り 十字屋(JUJIYAと表記)の所に地下歩道 その先にバス停
③地下歩道の入口 これが歩道自体を更に狭くしている
④地下歩道から地上に上がろうとしている人 かなりきつい階段

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