島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(6)

2010-12-31 10:53:31 | クルマ社会の問題
 欧米や中東などのキリスト教やイスラム教などの一神教は非寛容で、しかも人間を自然の上位にあるものとしているから、自然破壊の宗教であるのに対し、日本の宗教、とりわけ神道は八百万の神々と言われるほどの多神教であり、自然存在をすべて神格化するゆえに、寛容にして自然尊重の宗教であり、環境重視の21世紀をリードできる信仰形態だとまで持ち上げられる風潮が強まっている。
 だが、この写真でもわかるように、神社の境内のかなりの部分が駐車場と化し、鳥居の直近までクルマが駐車していることから、人間の目先の利便に迎合(良い言葉では“寛容”)している様子が伺える。
 この神社は都心部ながら樹木が多い「緑のオアシス」のような役割をはたしていたが、かなりの樹木の伐採により無機質な平面施設でしかない駐車場を造成した。
 同様な傾向は他の神社仏閣にも多く見られる。
 神々が宿るはずの樹木を多く伐採しても参拝者向けの無料駐車場や一般向けの有料駐車場の造成に力を入れている神社仏閣が多いことは確かである。
 初詣の参拝者でこれらの神社仏閣も賑わうことになろうが、地球温暖化を促進するクルマを利用しての参拝では「地球環境の破壊」にしかならない信仰形態なのである。
これでは自然尊重のはずの「日本精神」の衰亡であるだけでなく、地球をも滅ぼしかねない。

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(5)

2010-12-27 23:35:37 | クルマ社会の問題
 何でこんなに淋しいのかよ~
 大泉悦郎さんの演歌「孫」の歌詞に似たような出だしだが、これが中世から明治にかけて日本海に面する港町として大いに栄えた酒田市の駅に近い中心街の様子であるが、何とも物淋しい光景である。
 はるか向こうの方にクルマが信号待ちしているのが見られるが、通行人の姿はこの撮影時点では皆無であり、その前後の2分間ほども通行人の姿を目にすることはできなかった。
 これは12月上旬の日曜日の11時過ぎのことであったが、日曜日のショッピングで市民の行き交う姿はほとんどない。
 さ~て、店舗等の家並みの連続は一つの美観を呈しているが、駐車場はさほど目に入らない。
 この記事の「駐車場・・・」のタイトルにはそぐわないようにも思えるが、多数の駐車スペースを必要とするほどこの街に用向きのあるクルマ利用者は少ないのであり、やたら広い駐車場がある箇所とは郊外の新興商業ゾーンのことである。
 つまり、やたら広い駐車場を備えた郊外の新興商業ゾーンの勃興が酒田市の中心市街地を侘しさ溢れる地帯にしてしまったのである。

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(4)

2010-12-21 07:41:14 | クルマ社会の問題
どこに日本らしさが?
 上の写真を見れば、ここが日本であることなど感じられるわけがなかろう。
 極彩色ながらお色気ゼロという奇妙な景観の建物が視界に立ちはだかっている。
 このような無国籍のけばけばしい建物が建っている辺りは古墳時代から古代にかけてはまさしく文字通りの豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)らしき稔り豊かな水田地帯であり、しかもつい10年ほど前までも一面の田園風景が広がっていた。
 また、このすぐそばには国指定の史跡である古代集落遺構としての「嶋遺跡」がある。
 だが、現在はこのあたり一帯が新興の郊外型商業ゾーンとしての開発が進められ、このような無国籍的外観の商業施設と建物の建坪の複数倍の駐車スペースで占められてしまい、ますます無機質の景観の地帯と成り下がってしまった次第である。
 これからは国際観光の時代と言われているが、このような景観ばかりが広がるようでは、はたして日本に訪れる外国人観光客から敬意を払われるであろうかと心配になってくる。

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(3)

2010-12-16 22:02:40 | クルマ社会の問題
 「買物難民」とか「買物弱者」という言葉が最近は普通に耳にできるようになったが、この言葉を山形で一番早く知った人間の一人が他でもないこのブログ主である私なのかも知れない。
 というのも、上の写真にある同名の書物の著述にあたり私もほんの少しだけ参画してといるからでもある。著者の杉田聡氏は高齢者等の買物のための交通手段の現況を調べるために全国各地を周り、ここ山形市を訪れた際に私が氏をスーパーやコンビニなどに自転車(氏は折畳み自転車)で案内している。

 下記の文面はほぼ2年前の当ブログの12月18日の記事の転載で、「買物難民」と「駐車場の乱造は日本を滅ぼす」とは無関係にも思われるかもしれないが、広大で無料の駐車場の造成が容易な郊外型商業ゾーンの野放図な拡大が高齢者等の多数の「買物難民」を発生させたことは疑いのないことなのである。このような傾向もまた亡国の兆しの一つとも言えそうである。

 老夫婦のみや老人単身の世帯が増える一方だが、街からも村からも次々と商店は消えて行き、遠い郊外にばかり大型店が進出するようになった。
 どんな老人もなんとか足腰が丈夫なうちは自分で買物にでかけようとする。むろん、青年や壮年のようにはいかないが、商店が近くにあるうちは毎日の生活の用は足せる。
 しかし最近では近所に商店はない。これではいかに経済的に裕福な老人でも日常生活に非常な困難を及ぼすことになる。
 高齢者の多くはクルマの運転免許は所持していないし、免許はあっても高齢のために年々運転は怪しくなり、離れて住む子どもからも運転はやめろと言われる。
 こんな深刻な情況の中、写真で示したような本が出版されている。
 著者の杉田聡氏は全国各地の高齢者をめぐる生活環境を調査し、山形にも訪れて持参の折畳み自転車を組み立てて、山形市内の各地の情況を見て廻られている。
 こうしてまとめられたのがこの『買物難民』という本であるが、ぜひご一読をお勧めしたい。

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(2)

2010-12-13 17:04:55 | クルマ社会の問題
ゲゲゲの「ぬりかべ」駐車タワー
 市街地での道路拡幅に伴なうセットバックのために沿道の店舗や業務ビルの改築も盛んであるが、某改築ビルの手前に突如として超高層ビルのような建物が建てられた。
 だが、決して超高層というほどの高さでないことは手前のビルのタテ方向の窓の数を見ればわかる。
 それにしても窓一つないただの長方形の建物が公道(しかも市街地内幹線道路)のすぐ脇に建つのは都市景観の上で決して褒められるべきこととは思えない。
 墓石だって多くの文字が刻まれ、わずかながらも装飾的要素はある。
 つまりはこの建物は墓石以上にクールな外観ということになる。
 この殺風景極まりない建物は駐車タワーである。
 いわば巨大な縦長の下駄箱である。
 ここを通りかかった若い娘さんが「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪の「ぬりかべ」のようだと口ばしっていたのが印象的である。それとも「一反もめん」に近いと申すべきか? いずれにしても、この業務ビルの裏側にも裏通りがあるのに、どうしてビルの裏側に駐車タワーを建てずに、大通りに面した所に建設したのだろうか。
 街並み景観の向上に少しでも寄与しようなどという殊勝な気持ちよりも車用族に対する利便提供こそが最優先という時代遅れの思想が幹線街路の景観を著しく低下させるような位置に駐車タワーを建てさせたと考えられる。
 この「ぬりかべ」タワーの前後の街路景観は近年の道路拡幅により乱雑に駐車すペースばかりが歩道の内側に造られて一層無粋にして茫洋たるものに変容している。
 幹線道路沿線の両側はいわば公共的空間であるが、この公共的空間に「妖怪」が出現したのであり、まさに日本人の美的感性の低下を象徴している。
 これが近年の道路拡幅という「都市計画」に基づく膨大な公費が投じられた「公共事業」に伴って為された「成果」なのである。
「都市計画」とは無粋さの中に妖怪が立ちすくむ景観を形成するもののようである。

  ※ 文面は2008年12月29日の記事を再掲

駐車場の乱造は日本を滅ぼす(1)

2010-12-09 19:38:20 | クルマ社会の問題
 なんとも物騒なタイトルのシリーズが始まるが、ぜひ読んでいただいて、日本の良好な街路景観造りに役立ててほしいものである。
 昨今は中国や朝鮮半島など東アジア情勢が緊迫化し、日本にも影響が及ぶ恐れがあるが、日本の街並み景観を見る限り、既に日本は某勢力から深く侵略を受け、津々浦々まで見苦しく蝕まれ、日本らしさ地方らしさが感じられる街並み景観が保たれている街はすごく少なくなっていることがわかり、無国籍的景観ばかりが日本を覆うようになってしまった。
 その某勢力とは決して特定の外国のことではない。 
 顔つきがエイリアン(宇宙人?)によく似た移動性マシーンであり、ヒトの姿はほとんど見かけない小さな村落でも、唸り声をあげて我が物顔に疾走する姿はいくらでも見かけるほどである。 
 彼らの名はクルマであるが、な~んだクルマか、どうしてそんなに問題視するのかと言うなかれ。たかがクルマであり、されどクルマなのだ。
 彼らを制御しない限り、彼らは確かに日本を滅ぼす力がある。

 上の写真と以下の文面は姉妹ブログ『山形の過去、現在、未来』の2009年7月の記事からの転用である。[タイトルは「山形の街角もマイケル・ジャクソン化

  山形のなんの変哲もない街路風景。
 否、変哲もないというよりはむしろ若干病巣に蝕まれた景観というべきか。 そして先月急死して世界中を驚かせたポップ界のスーパースター、マイケル・ジャクソンの顔もこの街路写真とともに登場している。
 これまた全世界はとてもとても無理としても、当ブログの閲覧者を若干驚かせているのかもしれない。
 マイケルは死して一層世界中から賛辞を贈られているようだが、彼の歌唱や舞踏はともかく、あの風貌にはどうしても賛辞を贈る気にはなれない。
 黒人なのに白人以上の白塗りになり、人種を超越しているばかりでなく性別や年齢をも超越している外見づくりによって彼の“個性”としているのかも知れないが、そんな外見でなければ彼の人気は持続できなかったというのだろうか。 
 どうしても私には“健康的”とは感じられなかった。
 遺された自宅に彼の亡霊が現れたという噂が全世界をかけ巡っているようだが、彼は生存中に既に“妖怪”になっていたと申すのは言い過ぎであろうか。
 ついに彼の芸能活動が持続する以前に彼の生命が断たれてしまった。
 さて、山形ばかりでなく日本の全国の都市で都市計画の名により地方の個性を絶滅するような無理な整形外科手術が施されていると言える。
 まさに全国の都市はマイケル・ジャクソンのような風貌に変えられようとしているわけである。 マイケルの“美容”整形にはむろん巨額の費用が投じられたであろうが、都市計画という名の美容整形にも巨額な公費が投入されているものの、“できあがり”が歩道内側に駐車スペースが乱雑に設置されるために却って街路景観が低下して街の魅力も更に低下する場合が余りにも多過ぎる。
 これではマイケルが早死にしたように、都市の風貌は妖怪のようになり、街の崩壊が加速するのではないか。




自転車レーンはなぜ必要か(25-最終回)

2010-12-08 21:07:55 | クルマ社会の問題
 山形市中心街自転車道に対して「廃止」や「撤廃」を要望する運動は未だに根強いものがあるようだ。今朝の山形新聞にも「撤廃」を求める陳情がなされたという記事が掲載されていたが、9月の廃止を求める署名活動や陳情がなされた際も、自転車道はクルマでの来街者をますます郊外の店舗に追いやるものだから廃止が必要だという主張だったが、今回もほとんど同じ主張のもとになされている。
 このシリーズでは何度も沿道の商店への客足が減少したという主張(これに対して客足が増加している店も少なくないという情報もある)に対しては、自転車道の撤廃によりたとえ渋滞が解消したとしても沿道に出入りに便利な駐車場が少ない限り客足の減少に歯止めがかかる保証はない旨述べてきた。
 ともかく、この度の自転車道問題によって明確になったことはクルマ社会是認のもとに進められてきた郊外型商業ゾーンの開発により恐るべき格差の増大が顕著になったことである。
 その格差とは駐車場造成環境の格差に他ならない。
 上の写真でもわかるように、左が中心市街の駐車ビルであり、右が郊外の商業施設の広大な駐車場である。
 中心市街では土地が狭いので高層の駐車ビルが建設されることが多いが、建設費と補修費はむろん高額だし、それに料金徴収の人件費や設備設置にかかる費用も嵩む。さらに固定資産税も高くつくから、有料、または「◎千円以上お買い上げの方には無料」のいずれかにならざるをえなくなる。
 でも、多くのドライバーは有料のうえに出入りがめんどうだし、上階に上るのは目が回るようで、空きスペースを探しにくく、できれば避けたいと思うようだ。
 これに対して郊外の商業施設の駐車場はほとんどが平面で、しかも無料、さらに広くて見通しがきくし、出入りもしやすい。
 これだけで中心市街と郊外では天と地ほどの格差がついてしまっている。だから、クルマ利用者の利便を考えるならば、自転車道を撤廃させたところでとうてい郊外型店舗に対し巻き返しを図ることなどできないのだ。
 そもそもどうしてこんな格差の発生が許されているのかにメスを入れて格差解消のための施策を行政に対して強く要望すべきなのである。
 例えば、中心市街は空洞化していながら地価と固定資産税は高いままなのに対して、郊外の土地は地価も固定資産税もかなり低いから広大な用地を購入または借地できる。だから広大な駐車場も造成が可能で、客足も多くなるから無料で駐車させられるようになる。となれば、現状に合わせて郊外、中心市街にかかわらず地価と固定資産税を平準化させるべきことになろう。

 これで、このシリーズは終わりとさせていただきたいが、中心市街地の賑わい回復を真剣に求めるためにも駐車場の問題をさらに掘り下げて考察していきたいので、次回以降は「駐車場の乱造は日本を滅ぼす」というタイトルの新シリーズとしたい。

自転車レーンはなぜ必要か(24)

2010-12-03 22:25:57 | クルマ社会の問題
 このシリーズにおいて、先に自転車道の問題にからめ、付近の駐車場の問題についても言及したが、果たしてこの自転車道のある商店街の付近の駐車場は多いのか少ないのか、ここでもう少し論じてみたい。
 上の四つの写真はいずれも付近の駐車場であるが、黄色い設備があることから月極めではなく買い物客向けが主体のようである。
 つまり、黄色い設備があるということは有料だということであり、クルマ利用の買い物客にとっては時間を気にしながらの駐車場利用ということになる。
 これだけで無料で駐車区画の多い郊外型店舗の駐車場に負けている。しかも郊外型店舗の駐車場には高層の立体駐車場は稀である。中心市街地の有料でかつ高層の立体駐車場は一層敬遠される。
 駐車場は大きく2種類に分類できる。一つは商店等に直属する無料のものであり、もう一つが商店等に直属しない営業用の駐車場である。前者は郊外型店舗に多く、後者は中心商店街に多い。
 ところが、中心街の駐車場はほとんどが買い物客向けかと言えば、むしろそうでないものがかなり多い。それは通勤者や近隣居住者向けの月極め駐車場である。買い物客向けは安定しないし、「◇千円以上買い上げの方には無料ないし大幅割引」などにせざるをえなくなり、そのうえ金徴収のための人件費や設備費が嵩む。それよりは月極めならば人件費や設備費もかからないし、はるかに安定収入が得られる。
 こうして、中心商店街の多くの駐車スペースが「月極め」に食われ、その分買い物客用が不足することになる。
 だから、たとえ自転車道が撤廃され(当分は存続しそうだが)、撤廃派が期待するように渋滞が解消されたとしても駐車場不足はそのままなのである。
 わずかでも「客足」の回復を目指すなら、自転車道の撤廃を主張するよりも、付近の営業用駐車場の月極め区画を極力買い物客向けに転換したり無料化・低額化・長時間化の努力が必要ではないか。
 しかし、それ以上に大切なのはクルマを利用しない客に対する優遇や特典付与、つまりはエコ商店街の構築ではないか。また、郊外型商店と比べ商品やサービスにおいて高品質にして低価格でなければ郊外型商店に打ち勝つことは不可能であろう。