島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

自転車レーンはなぜ必要か (23)

2010-11-29 22:42:35 | クルマ社会の問題
 今月の上旬に県内村山地方最北部の尾花沢と大石田を訪れた。
 尾花沢は尾花沢でもかなり奥地の山あいの戦国時代の山城があった延沢地区が主たる目的地であり、そこからトンネルを越えて六沢の寺院を訪れ、山形城主の娘で延沢城主の妻となった松尾姫の墓がある寺を訪ねた。
 さらに寺を出て、広々とした尾花沢の田園地帯をひた走りに走り、徳良湖に着いたら一休み。そこから尾花沢の中心市街地に入り、JR奥羽本線を跨いで大石田の街と最上川にかかる橋の上から最上川を眺め、JR大石田駅に戻って山形に帰った。
 ブログ主である私は大石田駅から同じ大石田駅までの以上の全行程をすべてレンタサイクルで踏破したが、延沢の公民館の職員にとっても寺のおばはん達にとっても信じられないことのようであったようだ。
ともかく晩秋の季節ゆえ天候の激変だけが気がかりであったが、楽しい自転車ツーリングの一日であった。
 決して若くはない私が大石田駅からはかなり遠い山あいの集落まで自転車ででかけられたのは私にとって自転車が日常の交通手段だからである。
 多くの青壮年層が日常の交通手段を「クルマから自転車」に転換するならば、やはり自転車道(レーン?)の必要性を痛感するようになるであろう。
 ◆写真説明A:棚田状の延沢盆地 B:延沢城跡の城山と延沢集落 C:延沢と六沢の間のトンネル D:松尾姫の墓所の寺 E:これらのレンタサイクルの中の一台を借りた F:尾花沢盆地の田園風景 G:徳良湖 H:大石田の街並み I:最上川


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6 コメント

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大石田 (石田)
2010-11-30 17:25:43
写真「H」は、大石田中心街の「ウロコヤ総本店」の戸田宅ですね(現在は尾花沢に本社工場が移転してます)。この場所は、金山平三油彩「三月の大石田」に描かれています。大石田は江戸時代に最上川舟運の港町として栄えた。ここに近江から移って来た人達の子孫なのです。大石田・乗船(正式には舟ヘンに公)寺の県指定文化財の千手観音立像は鎌倉末期・正慶2年(1333)作のもので戸田家初代の寄進の由。
 朝日新聞「百年企業@山形」(2010.8.26)に掲載。
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五月雨の句 (最上)
2010-12-01 18:14:41
①「さみだれをあつめて涼し最上川」
②「さみだれをあつめて早し最上川」
 奥の細道紀行中の芭蕉翁は、最上川に関する五月雨の句を二つ吟じている。①は滞在した大石田の舟遊び中に吟じたと言われ、②は本合海から清川までの下り舟の中で吟じたと言われる。
 ともあれ、大石田で吟じた前の句を、後の句に訂正したと決め付けているむきもある。
 大石田集落前の流れは淀であり、翁が舟遊びに出た当日は、平水、或いは平水を下回る水位であって、舟は涼を求めて上り下りを楽しめたことと思う。
 本合海の水路は、元禄二年に翁は「水みなぎりて船あやうし」「五月雨をあつめて早し最上川」と吟じ、豊水の時期に下った水路であることに気付いたのです。
 この二句は、各々所を得た郷土最上川の句であって、大石田で吟じた句を打ち消すことが出来ない。最上川は正岡子規が下り船に乗った折には、真夏の渇水の貌だけを見せ、芭蕉翁が乗船の時は、平水・豊水と二つの貌を見せたことになる。
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歴史景観を守ろう (ブログ主)
2010-12-02 08:02:03
石田さま
戸田家が既に14世紀に栄えていたわけで、しかも近江商人も既にその時代から山形まで進出していたことになるわけですか?驚きです。

最上さま
「凉し」と「早し」の吟じた地点の違いが今まで無頓着でいました。教えていただいて有難うございます。

私が自転車と徒歩、公共交通にこだわるのは、過度のクルマ、特にマイカー依存により地方都市で駐車場の乱造を招き、地方の歴史的街並みがひどく破壊されていることに対する「一人だけのプロテスト(抗議)」の意志表示だからです。
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記載の寸足らずのお詫び (石田)
2010-12-02 15:02:38
大石田の戸田家について、説明に不足がありましたので、補足します。近江国から守り本尊の木造千手観音像(鎌倉末期作)を笈に入れて大石田にきたと伝えられているのですが、初代・戸田安右衛門は過去帳では正徳2年(1712)と記載されているそうです。従って、鎌倉仏を江戸時代に持ち運び、寺に寄進したのです。この箇所を正式に書かないといけなかったので失礼しました。然しながら、それより古い過去帳が仏壇で見つけ、延宝二年(1674)の仏様なので、寺で確認すると、その人物も、戸田安右衛門とあったとのことです。

 以上、記載が寸足らずであったことをお詫び申し上げます。
 
 参考:「戸田家のあゆみ」編集者戸田栄一、発行所有限会社ウロコヤ総本店、印刷:大場印刷
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最上川と茂吉 (I)
2010-12-02 18:19:21
 茂吉が晩年大石田に住んだが、その身辺を世話したのが、茂吉翁門下の板垣家子夫(かね お)である。
 ある冬の夕に、板垣氏は「今夜は川下から吹きつけて逆波が立っている」と思わず言った。茂吉はすかさず「何、今なんと言った」と問い返した。板垣氏は素直に「今夜は逆波が立ってる」と言ったと答えると、「君、そう言う言葉は歌にしてからでなければ滅多に言うものではない」と言い、その後間も無く不朽の名作「最上川逆白波の立つまでに吹雪く夕べとなりにけるかも」が世に出る結果となった、とのことです。
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コメントに感謝ですが (ブログ主)
2010-12-03 22:24:20
コメントをお寄せくださる方へお願い!

このブログにアクセスしてくださり、またコメントをお寄せくださって感謝申し上げます。
ただし、このブログは一応硬派の内容で、地球温暖化や歴史的街並みをズタズタにしつつあるクルマ社会などの問題を主題にしていることをご理解のうえでコメントくださるようお願いいたします。
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