島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

自然エネルギー発電所の最適用地を見つけた

2012-06-29 11:05:16 | 原子力発電所
 上は二つの写真の組み合わせで、上半分は再稼働が決定した大飯原発の写真だが、下半分は何の写真だかわかりにくいのではないか。
 これはどこか首都圏に近い高速道路の料金所前での渋滞の様子である。
 それにしても車線の多さと渋滞車両の数の多さには驚愕せずにはいられない。
 そこの料金所の前後の車線が多い部分の総面積はどれだけになるであろうか。
 ともかくもべらぼうに広大な面積であり、それだけ広大な森林と原野と農地が潰されたことを物語る。
 そこで連想されるのは脱原発ないし減原発に伴う自然エネルギー発電施設の大増設だが、巨大な風車群にしてもメガソーラーにしても景観のことが大いに心配されるものの、もしこれらの多車線の高速道路を1~2車線削減しただけでもかなりの巨大風車やメガソーラーの設置が可能になりそうだ。
 もともと自然を大規模に破壊したうえで敷設された高速道路と関連敷地である。
 どうせ巨大風車やメガソーラーを建設するなら、新たに自然を破壊して建設用地を確保するのではなく、もともと自然を破壊して造られた高速道路の削減車線の上に設置すれば大した自然破壊にはなるまい。
 そもそも脱化石燃料の進展に伴い電気自動車の時代にするのなら、削減車線上に設置された風車や太陽光パネルなどから直接充電が可能になる。つまり化石燃料時代のガソリンスタンドに相当するエネルギー供給施設が高速道路沿いに林立することになり、これほど高速道路利用者には便利なことはない。
 電気自動車を長距離で走行させるために家庭や町工場、中小商店などでの電気使用が犠牲にならないようにし、また今以上の自然の破壊を食い止めるためにも、この案は有効ではないか。
 大飯原発が再稼働することになったことに現れているように、全面的脱原発はかなり困難なものの、「減原発」の方に流動していることは否定できない。
 しかし、「減原発」は「減クルマ」とりわけ「減マイカー」を伴うべきであり、高速道路を始めとする幹線道路の車線削減はその一環なのである。

世界最強の「真理教」とは?

2012-06-14 04:34:31 | クルマ社会の問題
長年指名手配されていたオウム真理教の菊地直子容疑者が逮捕され、また同じく指名手配の高橋克也容疑者の直近の写真が公開されて、再び「オウム真理教」の名がマスコミを賑わすようになった。
 確かにこの教団がやった数々の大量殺人の罪は巨大であるが、彼らが彼ら以外の人々(日本人だけに限らない)に及ぼした宗教的影響はとるに足らない規模でしかない。
 宗教的影響は単に信徒数の激増に現れ、信仰施設が増えるだけにとどまるものではなく、信徒大衆の日常生活の在り方自体にも及ぼすものである。
 例えば、今年のアメリカ大統領選挙の共和党の候補者のロムニー氏はモルモン教徒であるが、モルモン教徒は厳格な禁酒主義者でもあるから、彼らが多いユタ州にはアルコール類を提供する商店や飲食店は希である。
 しかし、オウム真理教がマスコミを賑わすことになってオウム信徒以外の日本人の日常生活が少しでも変えられたということはない。
 厳格な禁酒はモルモン教だけではなく、一般のキリスト教の諸派やイスラム教でも禁酒が大きな特色となっている。
 だから、この種の信徒が多い地域や国々では酒文化は低調そのものである。それゆえ飲酒運転をする者はほとんど存在しない。
 ところが交通事故や交通事故による死者が少ないかといえば決してそんなことはない。
 むしろ、交通事故や交通事故による死者数の割合は日本を大きく上回る場合が多いようだ。
 つまり、アルコール類は一滴も口に含んでいなくとも、アルコール類以外のものに酔いしれて事故を引き起こしていることになる。
 それは他人よりも少しでも速く移動できることが「より良き生活」になるというプリンシプル(原理)であり真理であるという漠然たる信念である。
 この形の「真理教」なら全世界を覆い尽くしており、中国やインドなどではさらに勢いを増している。
 だから、この感覚に支配された場合はイスラム教もヒンズー教もモルモン教も毛沢東主義も、さらには脱原発主義(これを主張している人たちの多くもクルマは欠かせないとしている)もクソくらえになってしまう。
 そして地球を覆う大気と海水の環境は激変の状態に突入したとさえ言える。
 それが日本でも頻発するようになった竜巻ではないか。

身近にもスカイツリーが

2012-06-08 05:24:23 | 時評

 自宅から徒歩6分の所に城跡公園がある。
 この城跡公園は「国指定史跡」になっているだけあって、城跡としての輪郭が明確で、環濠と土塁に囲まれた全体が史跡公園となっている。
 だが、本来城には必要最小限の樹木しかないはず。
 あまり樹木が多いと、敵軍がこの城を攻めてきた場合、敵兵の姿が樹木に隠れて見えなくなってしまう。
 だから、桜の木が千本も何千本もあるなどということはありえないことで、それらの多くの桜の木は明治以降に植樹されたものである。
 ともかくも、この公園内には桜の他にも様々な樹木が多く、市街地の貴重な緑地であり、「現代山形の肺」の役割を担っている。
 そしてこの公園内で最も樹高があるのが、上の写真のススカケノキで、高さは34メートル。
 ゆえに「霞城公園のスカイツリー」と呼ばれている。
 今や世は東京の新名所のスカイツリーの話題でもちきり。
 でも、身近な所にもスカイツリーがいくらでもあるのだ。
 しかもこれらこそ本当のスカイツリーのはずである。
 もっとわが街のスカイツリーを大事にしなくちゃ!

 これは2年前の4月の東京スカイツリー
 筆者は完成後のスカイツリーにはあまり関心がない。
 東京スカイツリー展望室からの眺めは不気味でしかないが、わが町の近くの山の頂からの盆地の眺めこそ壮観で雄大そのもの。

未来はニュータウンという名の「姥捨て山」

2012-06-02 06:21:48 | Weblog

 今でも宅地購入の呼びかけが賑やかな高台に造成された「ニュータウン」の写真である。
 なるほど真新しいモダンな外観の住宅が既に多く建ち並んでいるが、すぐ近くには今なお買い手がつかない造成済みの空き地もあれば、更に新しく造成工事が進んでいるところもある。
しかし、ここを訪れて歩いてみたときは人っ子一人歩く姿は見当たらず、ゴーストタウンのような不気味な静けさであった。
なるほど、この時間帯は子どもたちの在校時間だし、大人たちは奥さま方も含めて職場で働いている時間である。つまり住民の多くは若い世代の家族で、年配者が居てもせいぜい70歳前後で、80歳以上は希のようだ。
 なぜなら、先に書いたように、この地は「高台」である。でも、津波対策での高台ではない。場所は内陸部も内陸部の山形盆地の際の高台で、蔵王連峰や山形盆地の眺めが素晴らしいことから「蔵王みはらしの丘」と呼ばれている。
 しかし高台なるがゆえにクルマがなければ不便きわまりない。それゆえにクルマが運転できる若い世代の家族が新居の地として選ぶ傾向が強い。
 だが、近くの県道で出会った旧村の老人が次のように語っていた。
「これから30~40年後、彼らもクルマが運転できなくなる年代になると、こだな所ば選んだことを後悔するようななるべ~。」
 それでも彼らの子どもたちがこの地に残って一緒に住んでくれるのなら幸せと言えるであろう。ところが、成人となって巣立ち、結婚して子どもを設けても、配偶者や子どもに気兼ねして(子どもの場合は受験期であるとか・・・)生家に戻って老いた親と同居することはほとんどありえないであろう。いわば互いの「自立」の美名のもとでの「姥捨て」である。
 しかし、信濃の伝説的な「姥捨て山」と大きく違う点がある。信濃の場合は老人たちが里から連れてこられるのだが、現代の姥捨て山は「置き去り」型である。 ⇒ 姉妹ブログ「山形の過去、現在、未来」の本日(6月2日)付けの記事の見出し写真を参照

 この上の写真はこのニュータウン「みはらしの丘」から望まれる山形市の旧市街地でああり、なるほど文字通り「素晴らしい見晴らし」であるが、むろん、ここにも無数の住宅がひしめいている。・・・・・

 ⇒ 姉妹ブログ「山形の過去、現在、未来」の本日(6月2日)付けの記事(←クリック)に続く
     ぜひ、見てくだされ!!