島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

せっかくだから充電器を普及させて!

2011-04-28 23:42:35 | 時評
 蔵王山系から流れ下る馬見ヶ崎川沿いの桜並木が冷気と強風にたたられているようなので、必死に美観を持ち堪えようとしているその様子をカメラに収めたく、自転車ででかけてみた。
 案の定、このあたりも突風を思わせるような強風が吹きすさび、花吹雪が舞いあがっていた。
 この迎え風のような強風の中の緩やかながらの上り坂道を懸命にペダルをこぎ進んだ。
 街の中心部の自宅からここまでは自転車で20分ほどであったろうか。
 五月もすぐ目の前だというのに寒々とした暗雲のもとながら、やはりここの桜並木の美しさは格別だ。
 数分ほどカメラを向けて帰宅の途についたが、これからの下り道は追い風とともに軽快な走行となるのだが、このままでは何ともモッタイナイものを感じてならなかった。
 普通は夜間の自転車走行の時は車輪の回転により発電させてライトを灯すのだが、まだ昼間だからライトの点灯はしないまでも、この自転車で車輪の回転による発電によりバッテリーに蓄電できたら、帰宅後にその電力を利用してテレビ画面で震災からの復興の報道をわずかな時間ながら見ることができるはずである。

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原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (3)

2011-04-25 00:04:30 | クルマ社会の問題

 クルマde花見は続かない!

 山形の桜の開花はだいぶ遅れ、一昨日は二分咲き程度であったが、昨日は好天に恵まれ、一気に六分咲きほどになったため、日曜日ということもあり、山形市を代表する桜の名所の山形城跡公園内はかなりの市民で賑わった。
 しかし、今年は「観桜会」という名の歌舞音曲つきの鳴り物入りのイベントは諸事情で中止となったものの、それを知ってか知らずか、公園周辺の道路は城跡公園の桜見物を目指すクルマで渋滞した。
 上の写真はその様子であるが、決してガソリンを求めての渋滞ではない。
 今でこそ、なんとかガソリンは必要量を供給されているが、たとえ三月の大震災のようなことが再度発生せずとも、次第に供給量は減少し、しかも値上がり傾向も押しとどめることは不可能であろう。
 中国、インドなどの化石燃料獲得のアクションはすさまじいし、ただでさえ「オイルピーク」という石油産出量の限界が目に見えている。また、中東諸国の政治的情勢は混沌化している。
 原発の大増設の気運を盛り立てた自動車業界による電気自動車大衆化をめざす動きは地球温暖化対策以上に化石燃料供給量の限界を強く意識してのことであろう。
 しかし福島原発事故により日本だけでなく全世界的に反原発ないし原発推進に慎重になる気運が強まり、電気自動車の近未来にも暗雲がたちこめている。

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原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (2)

2011-04-23 22:40:24 | 地球温暖化
 この度の福島第一原発の大事故の直接の要因は3月11日の大地震と大津波によるものとされている。
 もっとも、福島第一原発は既に老朽化しており、構造もかなりもろくなっていたとも言われている。
 多くの外国人は、また日本人も、地震や津波が多い日本で原発が多いのは危険きわまりないと述べている。
 それならば、地震や津波の危険が少ない地域なら原発も安全かと言えば必ずしもそうとは言えない。
 チェルノブイリ原発の事故は内陸での事故だから津波にはまったく関係がないし、地震とも無関係のまったくの人為的事故である。また、アメリカの内陸部の各地にも原発は多い。
 でも、そんな地域にある原発を巨大竜巻が襲ったらどうなのであろうか。
 近年、アメリカでの竜巻は頻度も規模も大きくなっている。
 これはたぶん地球温暖化によるものとも考えられている。
 日本でもあちこちで竜巻被害が起きている。
 その地球温暖化は人類の、とりわけ先進国(経済大国となった中印両国も含めたい)によるエネルギー浪費の諸活動によるものであり、とりわけクルマ社会(※注)による二酸化炭素の排出は大きい。
 こうして竜巻や豪雨などの異常気象はますます頻発し、それゆえ今後は日本でも地震や津波だけでなく、巨大竜巻や火山の大噴火、巨大土石流による原子力施設に対する“襲撃”もありうるものと考える必要があろう。
 そして、同じことはアメリカやロシア、フランスなどでも起こりうることである。

◆24日のテレビの報道番組の中でアメリカの竜巻により原発が停止を余儀なくされたという。
      [25日付記]

 ※注 クルマの走行時はむろん大量の二酸化炭素を排出するが、そのクルマの走行を支えるのが「クルマ社会」であり、クルマ本体及び各部品、カーグッズの生産、販売、修理、廃棄、石油産業、道路建設と補修、交通標識の取り付け、信号機、交通に関する警察活動、損害保険事務etc.を総称したものである。

原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (1)

2011-04-20 22:10:34 | Weblog
 福島第一原子力発電所の大事故の先行きが今なお不透明である。
 ようやく原子炉の冷却作業が安定化するまでの作業の「工程」が公表され、それによると最低6か月から9か月ほどはかかるということだが、既に建屋や諸設備、そして原子炉にまで損傷が見られることから強い余震や大きな津波がある場合は更なる損傷も予想され、安定化どころか最悪状態すら予想される。
 老朽化した原子力発電所がなぜ今まで稼働が続けさせられ、それどころか今後もしばらくは稼働を余儀なくされるに至ったかについては前回の記事でも述べたが、原子力発電の「発展」を推進してきた主要因があくなき工業を中心とした諸産業の「成長」と国民生活の「利便向上」にあったことは言うまでもない。
 とりわけ工業の中でも「重工業」のウェイトが高く、その中でも自動車工業会の比重が高いことは容易に察せられる。
 石油を中心とした化石燃料は資源としても既にかなり以前から限界が見えており、その限界が見える量をめぐり中国、インドなどの新興工業国である人口大国も配分を求めておるだけでなく、二酸化炭素排出の主要因であることからも「脱化石燃料」の機運が地球規模で高まっている。
 だからクルマもいつまでも「石油」をアテにしておくわけにはいかない。
 こうして二酸化炭素を発電時に「直接」排出しないと言われている原子力発電に望みが注がれたわけである。
                       続く

老いぼれ原発を酷使した「原子力自動車」

2011-04-11 10:27:04 | Weblog
 千年以上も昔に陸奥の国を襲った貞観大津波の再来の可能性を東京電力も経済産業省も軽視したためにこの度の福島原発の大事故の発生を招いたと言われている。
 それでも東京電力にも経済産業省にも巨大地震と巨大津波の発生を危惧した職員は少なからず存在していたと思われるし、また福島第一発電所の「老朽化」を危惧し、その停止や廃炉を具申する声もかなりあったにもかかわらず、停止や廃炉は言うに及ばず、地震と津波に対する対策の強化を講じることもなく巨大事故とスリーマイル原発を上回る放射性物質の拡散を招いたのは何故か。
 当然、福島第一原発の老朽化は東電も政府も充分に認識しながらも、「新しい原発」と「新しい原子炉」が建設されるまで「延命」を図ろうとしていたからではないか。
 ごく最近まで原発の新設と増設については東電や他の電力会社はもとより原子炉メーカーもその可能性はかなり高いと確信していたから、老朽化した原発を新しい原発ができるまで持ち堪えさせようとしたに違いない。
 何ゆえに原発の新設が確信されるに至ったかといえば、「原発ルネサンス」なる世界的潮流があり、地球温暖化対策の切り札として原発が有効と見なされるようになっていたからである。
 確かに原発、特に原子炉からは直接二酸化炭素は排出されないと言われていた。(※注)

   (※それでも廃炉後ですら少なくとも10年は使用済み核燃料の冷却のために火力発電所から受給した電力により水を送り循環させる必要があることを考えただけで結局は膨大な二酸化炭素を廃炉設備から排出していることになる。)

 それゆえ原子力発電は「クリーンなエネルギー」とまで持てはやされるに至っていたのであるが、原発の新設・増設を強く要望していたのは当然工業界、とりわけ重工業界であり、その中でも自動車産業からの後押しが強力でなかったかと推察できよう。
 なぜなら、一般のクルマのユーザーが地球温暖化問題に対してかなりノーテンキであるのに対して、地球温暖化をより真面目に懸念しているのが自動車産業であり、自動車産業自体が化石燃料利用のクルマには未来がないと確信していたからである。
 こうして自動車産業は電気自動車の大衆化に未来を託そうとしたのであろう。
 化石燃料利用のクルマがダメだとすれば、風力や太陽光などの自然エネルギーや廃油再利用などのバイオ燃料などは不安定なうえにエネルギー原としてどうしても不足は免れない。ということになると、電気自動車の大衆化のためにはどうしても原子力発電所の大幅増設を期待するしかないのである。
 しかも民主党政権も原発の新設・増設には積極的であり、ベトナムでの原子炉建設協力に調印するなど、原子炉を輸出の花形にまでしようとしていたほどである。
 だから、原発の国内での新設や増設が実現できるまでに既存の原発を(たとえ多少老朽化していたとしても)なんとか持ち堪えさせて電気自動車の時代の進展」に道筋をつけようとしていたのであろう。
 その国内での原発の新設・増設の見通しがようやく明るくなった矢先に突如として発生したのが巨大地震と超巨大津波である。

 ◆ 表題に原子力自動車」と記したのは、電気自動車の大衆化のためには原発の新設・増設が不可欠だからである。
 

喉元(のどもと)過ぎれば・・・・・・何とやら

2011-04-03 17:45:24 | クルマ社会の問題
 上の写真(友人Mさん撮影)と下の写真との違いは如何に?
 どちらも長蛇のクルマの列であり、たぶん渋滞している場面であろうが、二つの車列の間には決定的な違いがある。
 上の車列の場合はガソリン切れが間近なクルマたちであり、下の車列は一応なんとかガソリンが満たされた状態のクルマが多いようだ。
 でもね、クルマのユーザーの皆さん。今でこそやっとのことでガソリンがユーザーにとって必要最低量を供給できるようになったのだが、ガソリンや軽油など化石燃料の供給量が更に先細りになり、しかも中国、インド、中南米などでの化石燃料需要の高まりにより高騰することは必至であることをわきまえてほしいものだ。
 なんで老朽化して危険性が叫ばれてきた福島原発の停止が先送りされて、ついに大地震と巨大津波に見舞われてしまったのかを思うに、化石燃料が地球温暖化の主要因とされ、しかも資源の枯渇が心配されているのにクルマの需要上昇は留まるところを知らず、それを自動車業界は電気自動車の大衆化により乗り越えようと思い、直接的には二酸化炭素を排出しない(※注)原子力発電所の新設と原子炉の増設に期待し、つい最近までの世界的な「原発ルネサンス」の潮流により原発の新設・増設がなんとか可能になりそうだということで、それまで福島第一原発を持ちこたえさせようと図られていたからではないか。
 しかし、原発の大事故により原発の新設・増設はほとんど不可能になり、電気自動車の大衆化もほぼ絶望になったというべきであろう。太陽光発電や風力発電ではとても電気自動車の大衆化は不可能であり、もしそれらにより可能とするには美しい日本の国土を太陽光パネルや風車群で埋め尽くす必要があるし、バイオマス燃料によるクルマを大衆化するには食糧の不足や高騰を覚悟しなければならなくなる。
 だから、クルマのエネルギー源が何であれ、いずれも限界が見えていることを悟るべきであり、社会を挙げて「クルマ依存」から脱却しなければ社会自体の持続は不可能なのだ。
 いくら現在はなんとかガソリンが満たされているとしても、不要不急のクルマの使用は避けて「節約」を心がけてほしい。
 徒歩で1時間少し程度の通勤や買い物ならば徒歩や自転車、公共交通により通勤、買い物をしてほしい。
 ガソリンにありつけるとすぐに道路が渋滞するということは、まだまだ安易にクルマに依存する習性から脱却していないことを物語る。まさしく「喉元過ぎれば熱さ忘れる」である。
 ※注:しかし、停止した原子炉と使用済み燃料棒プールの冷却水の供給のためだけで10年以上もポンプを動かし続ける必要があり、その電力は別の発電所から(火力発電所も多い)供給されるから、かなりの量の二酸化炭素を排出していることになる。

ゼロ円と1万円の狭間

2011-04-01 23:02:32 | クルマ社会の問題
 前回も神社の鳥居の内側に駐車し、しかも参道まで塞いでいる複数のクルマがある写真を掲載したが、一昨日も同所で同じような状態を目にした。
 今回は少し注意して周囲を見渡してみたら、何ゆえにそんな駐車の仕方をやっているのか、合理的な?理由がわかった。
 写真左側の駐車場には駐車しているクルマは少数で、空いた区画が多数目についた。
 だから、参道上に駐車している3、4台のクルマくらいなら充分に駐車できる。
 それでも、なぜ敢えて参道という「神の領域」にわざわざ駐車するのかといえば、正式な駐車場に駐車するには神社や隣の商業施設に用がある必要があり、用がないのに駐車すれば「1万円」を徴収される恐れがあるからのようである(写真「上右」)。
 駐車場に駐車すれば「1万円」を徴収されかねないが、駐車場でない所に駐車しても「1万円」を徴収される心配はない。
 ちなみに参道部分は駐車場の領域ではない。だから参道に駐車しても1万円をとられる心配はない。
 しかも、神社の参道は「公道」ではないから、道路交通法上の「違法駐車」として警察に摘発されることはない。
 そのうえ神社の境内は市民に開かれた空間だから、誰でも立ち入って歩行したり休憩することができる。参拝せざる者は立ち入るべからず、というようなことはないから、一般の屋敷に無断で立ち入る「家宅侵入」にもあたらない。
 だから、参道への駐車は「家宅侵入」でも「違法駐車」ということにもならないのだろうか。
 いずれにせよ、「神々を敬う者」ならば、そのようなことはしない。
 鳥居の内側や参道上に駐車するということは、それだけクルマの利便のみ求める者には「神々を敬う精神」に欠けているということである。
 いわばパリのノートルダム大聖堂内部に駐車するようなものである。

 ところで、昨日同所を通りかかった時には鳥居内部には1台のクルマの姿もなかった。
 前回の写真と記事に「神通力」があったせいなのか?