島国ニッポンの山国から

地球温暖化、クルマ社会の諸問題、時評、街作り提言などを島国の中の四方を山で囲まれた山形盆地からのつぶやき

保守言論人も「脱原発」

2011-06-29 22:56:39 | 原子力発電所
 ついに保守言論人の間からも「脱原発」の主張が聞かれるようになった。
 保守というからには「日本的なるもの」に対する敬愛と「日本的伝統」の存続と保持を強く主張するはずなのに、民主党をも含めた保守政権が長年続いた間に「日本的景観」が大きく崩れ去る一方であるのが不可解でならなかった。
 保守政権のもとで街なかには横文字の看板があふれ、スポーツ選手や芸能人の多くが頭髪を欧米人風に染め上げ、個人宅からもタタミの部屋は姿を消し、緑豊かな神社の境内までが樹木を伐採のうえ広い駐車場が造成されるなど、昔懐かしい伝統色や日本的景観は消失に次ぐ消失を重ねてきている。
 だから「白砂青松」の美しい海岸線近くに異様に巨大な原子力発電所や核廃棄物貯蔵施設などが多数建設されても自称「保守勢力」にとっては平気の平左であったわけである。
 そして、野越え山越え送電線を張り巡らすためにやはり異様に巨大な鉄塔が深山幽谷の中にも長閑な田園風景の中にもにょきにょき建てられ(太陽光発電や風力発電の場合でも言える)、日本的アルカディア風景とでもいうべき豊葦原瑞穂国的景観が大いに損なわれてきたのも保守政権のもとである。
 まあ、保守政治の根幹はやはり「国力の伸長」だから、そのためなら経済発展は不可欠ということになる。だが、「経済発展」は同時に「両刃の剣」であり、それにより国力は伸長しても国や民族の「個性」たる文化的側面が崩落する危険性をはらむものである。
 だから、経済発展とともに頭髪を金髪などに染め上げる「日本人らしからぬ日本人」も多数出現するだけでなく、街からも村からも自然からも「日本らしい」「地方らしい」景観が損なわれ、欧米人観光客から失望される場合が多いのだ。
 写真の左側の雑誌には従来の歴史教育には「自虐史観」が蔓延していると強調し続けてきた西尾幹二氏が「脱原発こそ国家永続の道」と題する所論を掲載しており、また右側の「原発はなぜ日本にふさわしくないのか」という本の著者は元皇族で皇室の正統な存続を主張する竹田恒泰氏であるが、両氏とも原発は危険な存在であるだけでなく、「日本の国土・風土にそぐわない」ものとしている。
 ともに「保守言論界」をリードする人士による「脱原発」主張のインパクトはかなり強いと思われる。
 願わくば、街なかに乱雑に駐車場ばかり造らせるなど日本の歴史的街並みをずたずたに破壊してきたクルマ社会にも異議を唱える「脱マイカー」でもリードしてもらいたいものである。

他国の原発事故など想定外です。

2011-06-24 07:53:11 | Weblog
 前回の記事では日本の原発被害を尻目に原発を推進しようとするアジアの近隣諸国や中東諸国のことを取り上げてみた。
 だが、やはり日本の脱原発・反原発、放射能被害から子どもたちの安全安心を守る運動に力を入れている人たちでさえ、多くがアジアの近隣諸国や中東諸国の原発推進政策に対して無関心のようである。
 3・11の大震災と巨大津波を「想定外」としていた東京電力や経済産業省は大いに非難されているが、これでは大同小異ではないか。

島国根性のままの脱原発

2011-06-20 17:07:58 | 時評

 このブログの名前は「島国ニッポンの山国から」である。
 とかく日本人は「島国根性」が根強く、国際的視野に立って物事を考えるのが苦手と言われているが、さらにその中でも山形の人間は島国の中の山国という周囲が山で囲われた自然環境的にも閉鎖的な地域に住んでいるから、それこそ国際的視野での思考なんぞ「苦手中の苦手」ということになりそうである。
 ブログ主である私もまた先祖代々の「山形人」なのであるが、それでも何とか閉鎖的思考からの脱却を目指して、このブログを運営し、更新に努めているところである。
 最近は当然のことだが国内外での「反原発」「脱原発」の動きが活発である。
 ブログ主自身も言わば筋金入りの脱原発論者である。
 それなのに特に日本国内での「反原発・脱原発」の言動に対しては少々「欺瞞」を感じざるをえない。
 つまり言動と発想に一貫性が見当たらないからである。
 それはあまりにも原発問題を日本だけの国内問題に矮小化している向きが強いからである。
 日本の54基の原発をすべて停止さらには廃炉にさえすればそれで彼らのお得意の言い草「子どもたちの安全安心」が達成され、それでメデタシメデタシとなるかのような錯覚に陥っているのではないか。
 しかし「一難去ってまた一難が訪れる」ことはほぼ間違いがないのである。
 北朝鮮が核開発に執心なのは6か国協議の停滞からもわかるし、韓国でも原発の新規建設の動きがあり、中国に至っては日本が原発事故に伴う放射能汚染問題で大揺れのさ中に原発の新規建設にゴーサインを出しているばかりでなく、なんと200基以上までに増設するのだという。

 また中国と工業化による発展を競うインドでも原発建設の欲求は強いし、石油産出大国の雄のサウジアラビアまでが十数基の原発建設の計画を公言したばかりである。
 さらに中東の人口大国イランでも核開発疑惑が濃厚とされ、これに対してイラン政府は核兵器開発のためではなく「平和利用」のためだというが、むろん「平和利用」とは原発設置のことである。
 はたしてこれらの諸国の安全管理は万全だと言えるのだろうか。
 日本の政府と東京電力は信頼できないが、アジア諸国や中東諸国の原発管理なら信頼できるというのだろうか。中国大使館やイラン大使館などの前にデモ隊を押しかけ、原発撤廃を大使に申し入れるなどの勇気があるのか。
 日本政府や東電に対する抗議はできても中国やイランなどに対しては抗議できないどころか、その発想すらないならば、「甘え」以上の欺瞞でしかない。
 もし、これらの諸国の原発で大きな事故があれば(ただししばらくは隠蔽される可能性)、偏西風に乗った放射能が日本国中を覆うようになりかねない。
 本気で日本の子どもたちの「安全安心」を将来にわたって守り通そうとするならば、日本の原発だけでなく諸外国の原発の停止はむろん、新規建設などは絶対に許さない姿勢をグローバル(全地球的)に示す必要があるのだ。

 もっとも、放射能を浴びても特に大量でなければガンなどで患うようになるには10年とか20年とかの後年になるようだが、それ以前に地球温暖化の急速な進展により異常気象は加速度的に顕著となり、豪雨災害や竜巻などで犠牲になる子どもたちが増加する事態の到来も考えておくべきであろう。

中東の石油大国が原発計画

2011-06-16 22:55:27 | Weblog
 福島での原発事故により欧米諸国でも脱原発の気運が上昇している中で、石油産出の超大国とも言えるサウジアラビアが2030年までに16基の原子力発電所を建設することを決定した。
 このことは何を意味し物語るものかといえば、まさしくオイルピーク、つまり石油産出量に限界が見えてきたことを示している。
 国土が広く人口も決して多いとはいえないサウジアラビアでもそうなら、他の石油産出国においても事情においては大差ないと考えるべきかもしれない。
 日本の石油輸入量の約40%はクルマの燃料として使われているという。
 また、クルマを走らせることを支える「クルマ社会」全体もクルマの製造などのため膨大な量の電力を使用し、その多くが石油燃焼による火力発電所から供給されている(むろん原発からも)。
 しかし、オイルピークが近未来のことだとすれば、ガソリンも軽油もふんだんに消費してクルマを走らせることなどは不可能になるということである。
 だからといって、電気自動車にとって代わろうとしても電気の供給源として有望視されていた原発も増設どころか現存の原発でさえ多くが廃炉を求められている。
 この度の大震災・巨大津波での被災者の多くは生活再建も経済復興も「クルマなしでは不可能」と考えているが、そのクルマを走行させるための石油は減産に向かい、電力供給源の原発にはまったく未来がなくなってしまったのである。
 どうしてもクルマを必要とするならば、一人か精々二人だけ乗車のミニカーに留めるべきであろう。

◆写真は湾岸の砂漠ではしゃぐ若い日本人女性たち(国際交流ででかけた)
姉妹ブログ http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20080121の記事より転載 URLをクリック

原子力発電とクルマ社会を結ぶもの (6)

2011-06-13 23:39:30 | Weblog
 しばらくぶりでこのシリーズを復活させることになった。
 今回、特に強調したいことは現在日本国中を走りまわっているクルマの多くは「原子力発電」によって製造されているということである。
 電力会社が供給する総電力量の約30%が原子力発電所で発電されているというから、単純計算でもクルマの30%は原子力発電所からの電力により製造されたといえよう。
 各家庭が所有する耐久消費財の中で「家屋」を除いて圧倒的に図体が大きくて重量があり、しかも幾種類もの金属類で組み立てられているものと言えば、それはクルマに他ならない。
 他の家庭の中にある物体で図体の大きい物としては箪笥などの家具類、ピアノ、冷蔵庫、風呂のバスタブ、石油ボイラー、台所セットなどがあるが、いずれも金属類の比率は少ない。
 とかく金属類の製品は重厚長大型の機械が用いられて製造される場合が多く、それらの巨大な機械はむろん人力よりは電力により動かされる。
 そしてそれらの重厚長大型の機械も当然高圧電力により製造される。
 近代工業においては電力は不可欠であり、むろん金属以外のクルマの部品類も電力により生産されるのだが、とりわけ金属類の製造における電力の消費量は多い。
 アルミ製品が「電気の缶詰」などと言われているように、アルミばかりでなく鋼鉄など多種の金属類やガラス、皮革製品、電子機器類などによって組み立てられているクルマもまた「電気の缶詰」なのである。

都市構造にもクールビズを

2011-06-09 07:36:06 | 地球温暖化
 既に六月も半ばにさしかかろうとしている。
 ここ山形でも一昨日は真夏日。
 あの大震災があつた三月とその翌月の四月の寒さを思い起こすとウソのようだ。
 七月下旬の梅雨明け後の猛暑が思いやられる。
 原発の多くが停止状態にある現在、官民挙げて節電とクールビズの呼びかけが盛んになっており、極端な職場ではアロハシャツや半ズボンでの勤務も許されているらしい。
 でも、夏の暑さ(体感温度)を和らげるもっと大切な手段が忘れられていないか。
 といよりも、現代人は都市構造の側面からわざわざ夏を暑くしてきたきらいがあったことを反省すべきなのだ。
 何といってもその“主犯”は都市において増えすぎたクルマであり、クルマの走行と駐車のために数多くの樹木を伐採してきた。
 そしてクルマは暑い排気ガスを大量に排出し、おまけに夏にはカークーラーの使用により更に温熱を街なかに排出している。
 これでは都市内の気温上昇が加速度的になることは当然である。
 それゆえ住宅、店舗、オフィス、工場などの建物内部の節電、服装におけるクールビズに加えて、クルマの使用抑制または削減、広大な平面をコンクリート、アスファルトで被い都市の気温を更に上昇させる駐車場の削減、そして都市内植樹の推進を図ることも必要ではないか。
                     ↓
 涼感たっぷりの緑陰の写真は下記姉妹ブログ(6月8日付)にて
    http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei(←クリック)

わたし作る人、ぼく食べる人

2011-06-06 23:03:13 | 時評

 懐かし~い、実になんづがすい(懐かしい)フレーズである。
 昔むかし、民放テレビの食品コマーシャルで、最初に女の子が登場してその食品について「わたし作る人」と語り、次に男の子が登場して「ぼく食べる人」と言って、早速その男の子がむしゃむしゃと食べ始めた場面が毎日繰り返された。
 一見、なんとも他愛のないコマーシャルと思われていたが、このテレビコマーシャルに対して女性評論家や女性団体が猛然と反発した。
 これこそまさに「男女の役割分担」であり、「男は女をかしづかせ、女は男のために働く」という封建時代と変わらない考え方の表れであるということであった。
 この昔のコマーシャルをもじった感じになるが、最近森の中でもない、村はずれでもない、なんと街なかで動いている水車を見つけて爽やかさを覚えた
 戦前にはこのあたりの用水路では水車が多く粉ひきなどで稼働していたようだから、この水車はその名残をとどめる歴史的財産と言えるようだ。
 この水車は水路にかかって回ってはいるが、むろん現在では特に生産的に稼働しているわけではない。
 だとすれば少々もったいない気がする。
 この回転エネルギーを発電に利用することは可能であろう。
 こうすれば、まさに「わたしエネルギーを作る人」ということになる。

 一方、下の写真の物体にはどれも複数の車輪がついているが、エネルギーを産み出す車輪ではない。
 外から供給されたエネルギー源により回転するだけの車輪であり、まさに「ぼくエネルギーを食べる人」ということになる。

 これからは灼熱の陽光が照り付ける本格的な夏となるが、郊外の大型スーパーの広大な駐車場を埋め尽くすクルマの大群を見ると、これまた実にモッタイナイ思いをせざるをえなまなる。
 それぞれの車内は「蒸し風呂」以上の高温になり、屋根の部分はまさしくバーベキューが可能なほど熱い鉄板のようになっていることだろう。
 そんなことなら、それぞれのクルマの屋根の部分には太陽光パネルを取り付けるのを義務づけるべきであろう。
 それをバッテリーに蓄電すれば、家庭電器にもかなり電力を供給できるのではないか。

文字通りのチャイナシンドロームの時代?!

2011-06-01 23:22:34 | 時評
 考えてみれば21世紀はまことに空恐ろしい時代になりそうだ。
 福島第一原子力発電所の冷却機能がなかなかうまく進捗せず、放射性物質の大気や地下、海水への拡散がとどまる所を知らない状況でありながら、一旦原発の新規建設を控えていた中国がもう建設にとりかかり始めたということである。
 中国は2050年までに原発を200基以上にまで増設するのだという。
 それがすべて「絶対安全」というなら構わないかもしれないが、技術力の高さと管理能力が世界的に評価されていた日本の原子力発電所でさえも福島のような大事故を招いてしまったのであり、やはり「絶対安全」ということはありえないと申すべきであろう。
 しかも中国という国家と社会の「隠蔽体質」は事故の発生すら隠蔽してしまうのではないかという懸念が強く抱かれているし、「絶対安全」という言葉の使用頻度は東京電力や経済産業省の何倍も多いようだから、かえって不安になる。
 もし中国の原発にも重大事故(「炉心溶融」の場合はそれこそ文字通りのチャイナシンドロームになろう)が発生したら、放射性物質の多くが偏西風により日本に運ばれる。
 原発推進は中国だけでなく韓国でも熱心だ。
 韓国の場合は日本海沿岸に多く立地されている。だから韓国の原発に重大事故が発生してもやはり偏西風と対馬海流により日本に放射性物質が多く運ばれる。
 たとえ日本のすべての原発を「廃炉」にしたとしても中国と韓国の原発は今後も増え続け、将来にわたり事故発生の確率はますます高くなるであろう。
 だから日本のすべての原発を廃炉にしてさえも中国と韓国は原発の新設推進をやめようとはしないであろう。ましてや日本が既存の原発のすべてを廃炉にしないならば、なおさら中国と韓国は原発推進に努めるであろう。
 
 ◆写真の左が中国の原発地図(緑マルが現在稼働中=1か所で複数基)、右が韓国の原発地図(大都会のプサンや世界遺産都市の慶州に近いのが驚き)