ついに保守言論人の間からも「脱原発」の主張が聞かれるようになった。
保守というからには「日本的なるもの」に対する敬愛と「日本的伝統」の存続と保持を強く主張するはずなのに、民主党をも含めた保守政権が長年続いた間に「日本的景観」が大きく崩れ去る一方であるのが不可解でならなかった。
保守政権のもとで街なかには横文字の看板があふれ、スポーツ選手や芸能人の多くが頭髪を欧米人風に染め上げ、個人宅からもタタミの部屋は姿を消し、緑豊かな神社の境内までが樹木を伐採のうえ広い駐車場が造成されるなど、昔懐かしい伝統色や日本的景観は消失に次ぐ消失を重ねてきている。
だから「白砂青松」の美しい海岸線近くに異様に巨大な原子力発電所や核廃棄物貯蔵施設などが多数建設されても自称「保守勢力」にとっては平気の平左であったわけである。
そして、野越え山越え送電線を張り巡らすためにやはり異様に巨大な鉄塔が深山幽谷の中にも長閑な田園風景の中にもにょきにょき建てられ(太陽光発電や風力発電の場合でも言える)、日本的アルカディア風景とでもいうべき豊葦原瑞穂国的景観が大いに損なわれてきたのも保守政権のもとである。
まあ、保守政治の根幹はやはり「国力の伸長」だから、そのためなら経済発展は不可欠ということになる。だが、「経済発展」は同時に「両刃の剣」であり、それにより国力は伸長しても国や民族の「個性」たる文化的側面が崩落する危険性をはらむものである。
だから、経済発展とともに頭髪を金髪などに染め上げる「日本人らしからぬ日本人」も多数出現するだけでなく、街からも村からも自然からも「日本らしい」「地方らしい」景観が損なわれ、欧米人観光客から失望される場合が多いのだ。
写真の左側の雑誌には従来の歴史教育には「自虐史観」が蔓延していると強調し続けてきた西尾幹二氏が「脱原発こそ国家永続の道」と題する所論を掲載しており、また右側の「原発はなぜ日本にふさわしくないのか」という本の著者は元皇族で皇室の正統な存続を主張する竹田恒泰氏であるが、両氏とも原発は危険な存在であるだけでなく、「日本の国土・風土にそぐわない」ものとしている。
ともに「保守言論界」をリードする人士による「脱原発」主張のインパクトはかなり強いと思われる。
願わくば、街なかに乱雑に駐車場ばかり造らせるなど日本の歴史的街並みをずたずたに破壊してきたクルマ社会にも異議を唱える「脱マイカー」でもリードしてもらいたいものである。
保守というからには「日本的なるもの」に対する敬愛と「日本的伝統」の存続と保持を強く主張するはずなのに、民主党をも含めた保守政権が長年続いた間に「日本的景観」が大きく崩れ去る一方であるのが不可解でならなかった。
保守政権のもとで街なかには横文字の看板があふれ、スポーツ選手や芸能人の多くが頭髪を欧米人風に染め上げ、個人宅からもタタミの部屋は姿を消し、緑豊かな神社の境内までが樹木を伐採のうえ広い駐車場が造成されるなど、昔懐かしい伝統色や日本的景観は消失に次ぐ消失を重ねてきている。
だから「白砂青松」の美しい海岸線近くに異様に巨大な原子力発電所や核廃棄物貯蔵施設などが多数建設されても自称「保守勢力」にとっては平気の平左であったわけである。
そして、野越え山越え送電線を張り巡らすためにやはり異様に巨大な鉄塔が深山幽谷の中にも長閑な田園風景の中にもにょきにょき建てられ(太陽光発電や風力発電の場合でも言える)、日本的アルカディア風景とでもいうべき豊葦原瑞穂国的景観が大いに損なわれてきたのも保守政権のもとである。
まあ、保守政治の根幹はやはり「国力の伸長」だから、そのためなら経済発展は不可欠ということになる。だが、「経済発展」は同時に「両刃の剣」であり、それにより国力は伸長しても国や民族の「個性」たる文化的側面が崩落する危険性をはらむものである。
だから、経済発展とともに頭髪を金髪などに染め上げる「日本人らしからぬ日本人」も多数出現するだけでなく、街からも村からも自然からも「日本らしい」「地方らしい」景観が損なわれ、欧米人観光客から失望される場合が多いのだ。
写真の左側の雑誌には従来の歴史教育には「自虐史観」が蔓延していると強調し続けてきた西尾幹二氏が「脱原発こそ国家永続の道」と題する所論を掲載しており、また右側の「原発はなぜ日本にふさわしくないのか」という本の著者は元皇族で皇室の正統な存続を主張する竹田恒泰氏であるが、両氏とも原発は危険な存在であるだけでなく、「日本の国土・風土にそぐわない」ものとしている。
ともに「保守言論界」をリードする人士による「脱原発」主張のインパクトはかなり強いと思われる。
願わくば、街なかに乱雑に駐車場ばかり造らせるなど日本の歴史的街並みをずたずたに破壊してきたクルマ社会にも異議を唱える「脱マイカー」でもリードしてもらいたいものである。