山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

◆Before & After of 旧木村邸◆

2017-02-17 20:53:53 | Weblog

母屋解体終了直前と完全解体後の比較。
◎で囲んでいた可愛らしい離れ小部屋が見当たらなくなっていた(いったん撤去後、リニューアルのうえに再度敷地内に設置とかの話もあるようだ)。
◆もう一つ気づいたことだが、「祠」らしき小さな建物と土蔵の背後の樹木群がまだ残されている。これらも近いうちに撤去されるのかどうか。
◆当初の計画書では背後の樹木のうち一本は残されるようだ。しかし母屋の前の二本の巨木のうち一本は残されるはずだったが、実際は二本とも伐採されている。ともかく市と審査員に対する2者の企画案のプレゼンテーションでは「厳正な審査」により旅籠町開発(株)の母屋解体による企画案が市により選定されたはずだが、その後の変更はどこまで許容されるのかは市民として知りたいところである。

敷地を囲む山形版トランプ壁に市民が工事の様子を覗ける窓を設けるよう山形市に要望しているのだが、それは未だに実現されず、その代わり写真のような事業名と事業者名が大きく記されていた。でも事業者名の「株式会社 旅籠町開発」という会社名をwebで検索しても会社概要を記したページは一つも現れない。名前だけの会社なのか。市は名前だけの会社に事業を丸投げしていることになる。(一応登記はしているようだ。)

下の写真の右下で〇で囲んだ部分はやはりお稲荷さんのようです。K氏のブログから借用。もし解体するとすれば「勇気」が必要かも。
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トランプ壁山形版の内側(旧木村邸)のその後③

2017-02-07 10:06:39 | Weblog

ついに母屋の解体がほぼ完了。

大きな廃棄物袋の中には何が入っているのだろうか。布団類や壁屑などか。[高い塀と蛇腹扉の隙間から撮影。脇に警備員が居られるので少々やりにくい。]

母屋の建屋部分の解体が終わり、土台のコンクリートが重機で破壊されて跡地がならされたようだ。左手の土蔵は保存されるが大幅なリフォームがなされるし、この土蔵に隣接して大きい石倉(城南町に在った石倉の石材を再利用)が建てられるために、土蔵外観の象徴ともいえる窓が隠れてしまう。

不思議に土蔵南の離れ小部屋はまだ解体されていない。もしかしたら保存されるのかも。それはそうで望ましいことたが、「(株)旅籠町開発(山形建設とパナソニック山形との連携企業)」の事業者公募時の提案書には触れていないようだ。それにしても敷地内に移築するのか。いずれにせよ、巨木の一本を残すはずなのに実際は伐採されるなども加え、山形市と審査員に提示した企画案と違いがあれば、審査会(複数の応募事業予定者によるプレゼンテーション)の決定が無効になりはしないか。
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トランプ壁山形版の内側(旧木村邸)のその後②

2017-02-06 10:39:52 | Weblog

まだ母屋はもとのまま。でも、作業員が入り、いよいよ解体工事に着手のようだ。(南向かい側の旧信用金庫「きんこん館」から撮影。バス停の人たちも見ている。)

ついに解体が始まる。むろん二階部分からだが、玄関の上部の部分はまだそのまま。連子格子が美しい貴重な外観であった。でも、いきなり重機で破壊するのではなく、手作業により割合に丁寧な作業であることがせめてもの慰みになった。

とうとう二階の正面部分も解体され始め、連子格子も内側の窓も取り外された。

以前住まいされていた当主の老婦人(故人)の車椅子もゴミとして搬出を待っている。哀れな光景だ。

二階の解体は進む。いよいよ屋根と一階部分の全面解体だ。

このような巨大な重機の出動で、母屋の解体は完了。解体後の残材はむろん建築廃材として処分場に送られる・

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トランプ壁山形版の内側(旧木村邸)のその後➀

2017-02-05 13:38:41 | Weblog

壁が巡らされてからは当然内部に異変。

まず母屋の前の塀が壊されたと思ったら、ついに玄関前の巨木の大王松と高野槇の二本の古い巨木が伐採された。
次の写真が伐採前の二本の巨木。



これらの古木も街なかでは稀有になった記念物的存在。それらも無価値かのように伐採された。

せめて価値の高い母屋だけでも解体を思い留まるように訴える市民グループが辻立ちしていた。

でも、ついに母屋の解体が始められた。
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◆山形市にトランプ壁が◆

2017-01-19 21:05:56 | Weblog

トランプ氏の大統領就任式まであと2日。むろんそれはアメリカでのこと。ところが昨日山形市役所の近くに高い塀が築かれ始めていた。まさかトランプ氏が命じたわけではあるまいに。それとも山形にもトランプ氏と同様な思考回路の人が存在するからなのか。むろんトランプ氏はアメリカとメキシコの国境を塞ぎたいのだが、旧木村邸の敷地内に侵入するメキシコ人などありえない。でも、山形市と敷地の再開発を担う業者にとっては「市民の目」が敷地内に届くのを塞ぎたいのであろう。

◆ああ、この不動産が山形市に寄贈されてからの7年半は山形市政の「三猿主義」、つまり市民の声を聞かざる、意見書(要望書)も見ざる、市民からの質問書にも返答なし(言わざる)に辟易のしどうしであった。もう「サル年」は去って、もうトリ年だ。市民の意見をしっかりと「聴取」する、つまり聞き取り(トリ)してもらいたいものだ。
◆山形市職員は「三猿のサル」というよりは首を甲羅の中に突っ込んだままのカメのような超内向きの感じがしてならない。それでいて、やりたいようにやるという姿勢だけは威勢がいい。◆大手の建設業者は工事現場の周囲に塀を巡らすのは普通であっても、所々に小さくとも窓を設け、市民が工事の様子を覗けるようにしておくらしいので、市と業者に要望しました。

※“トランプ壁”はさらに“成長”しておりました。
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◆日本一のNO.2の時計台には白い綿帽子◆

2017-01-16 05:27:19 | Weblog
山形県内には誇るべきNO.2が幾つか存在するが、あえて二つを挙げるならば、上杉景勝の家臣の直江兼続公と旧山形県庁舎の時計台であろう。直江公は戦国大名ではないのに家臣として大名以上の働きをしたのできわめて有名で大河ドラマの主人公にまでなっている。◆さて、現役で動いている時計台として旧山形県庁舎のそれは札幌の時計台に次いで二番目に古いとされている。しかし、札幌の時計台は高層ビルの林に囲まれて目立たなくなっているのに対し、山形のそれは依然として威風堂々と天を突いている。◆今日は山形も豪雪に見舞われ、時計台は綿帽子をかぶっている。
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◆初市の日は家族加入記念日◆

2017-01-13 20:52:35 | Weblog
 
我輩は40年前の1月10日、山形初市で買い求められ、家族の一員となった。以来可愛がられてきてはいるが、今なお「独眼竜」のまま。家長は独眼竜政宗公の母親と親しいせいもある。

◆さて、10日の初市も連休明けの平日にもかかわらず賑わっていた。
やはりダンゴ木は初市の華だ。

それでも露店の出店はだいぶ少なくなっているとの家長の話。

午後二時少し前には県境の山並みの白銀も望めたが、わずか三時過ぎには風雨に見舞われた。

ともかく、以前にはこのあたりの車道の両側にも露店の出店が多く並んでいたのだが、今年はこのとおり。
六時近くにはまた晴れとなり、冬の花火の轟音が聞こえる。
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里

2017-01-09 02:29:54 | Weblog
 知人から「義姫」というタイトルのDVDをいただきました。それで、約10年ほど以前に当ブログで連載していたタイトルのシリーズをまとめて再投稿します。最後までご覧ください。

◆伊達政宗は強し、されど母も強し◆
手前には建設機械、上部には送電線、右手には鉄塔も見えるなど、全体として決して麗しい景観だとは言えないが、部分的にトリミングすれば、鎮守の森が見えるなど麗しい農村景観となろう。[須川沿岸の山形市西公園見晴らし塔より]
 後方には丘陵が連なっているが、建設機械と鉄塔のすぐの前方の集落があるあたりは概して平地であると申すべきであろう。
 その集落こそ天下人の秀吉や家康にまで怖れられた奥羽の暴れん坊で戦国末期の武将の中でも一際強烈な個性を天下に知らしめた伊達政宗の母が隠れ住んだと伝えられている村である。
 否、隠れ住んだというよりは、兄の最上義光の命により「押し込められた」里と申すべきなのかもしれない。
 その集落は悪戸と称する山形市村木沢地区の一小字であるが、山形盆地の真ん中の低地を南北に流れる須川の川縁に位置し、須川西部の他の集落からは多少の距離がある「離れ里」でもある。
 しかし、慶長五年(1600)この里にも大きな戦火が迫っていた。 続く

 何の変哲もない盆地の集落だが、その集落に迷い込むと何とはなしに一瞬タイムスリップしたような感じがするから不思議だ。
 なんと、その集落は伊達政宗の母にして最上義光の妹の義姫が政宗のもとを離れて長年住まい続けたと伝えられている集落であるためか、歴史ある地域としての風格を感じてしまうからかもしれない。
 集落の真ん中に至るとかなり広い農地が開けているのも意外である。
 この土蔵のある屋敷のごく近くに義姫は住んでいたようである。
 なぜ彼女が山形城内や城のすぐ近くの城下町ではなく、城からかなり隔絶した離れ里のような所に住まわせられたのかはよくわからない。 

 この道はいつか来た道。
 義姫がよみがえってこの道を歩けば、きっとそう感じるに違いない。
 むろん、彼女がこの地に住んでいた時代は屋根が赤いペンキで塗られていたはずはないし、こんな豪壮な土蔵が建つほど土地の者が豊かであったわけはない。
 だが、この地で彼女の警護の責任を担っていた山形城主最上義光の家臣加藤掃部左衛門はむろん武士で、その後代々この集落の名主をつとめた家系の祖であり、彼の分家がこの集落を中心に散在している。
 直江兼続率いる2万の上杉軍が山形盆地になだれ込んで、この集落のすぐ近くが戦場になったがために掃部左衛門は戦死している。
 上杉軍の山形盆地侵入の報を聞いた掃部左衛門は当然すぐに義姫をこの地から出して山形城に逃れさせたはずである。
 兄の義光は伊達家の仙台城から少しでも遠いこの地に妹を住まわせたものの、まさかこの地が戦場のすぐそばになるとは思いもよらなかったであろう。
 だが、この地が上杉兵に荒らされたことはなかったようである。

政宗の母である義姫が政宗のもとを離れて山形に出奔した時期は彼女が政宗の毒殺計画に失敗し、かつ彼女が溺愛していたとされる次男の小次郎が政宗により惨殺された直後(1590)と考えられていたが(仙台藩の正史である「貞山公治家記録」に記述)、その当時は政宗の居城が会津黒川城(後の会津若松城)と米沢城の二つであったが、平成になって発見された史料(※注)によると4年後の文禄3年であったことが記述され、これが現在では彼女が山形に出奔した年代を知る有力な史料とされている。[※注:政宗の幼少からの学問の師、虎哉禅師の手紙]
 つまりこの文禄3年における政宗の居城は岩出山城であり、彼女が政宗の居城から出奔したのは会津黒川城からでもなければ米沢城でもなく、岩出山城からということになる。
 それではどうして彼女(義姫)が岩出山から出奔したのであろうか。
 義姫が岩出山まで政宗と一緒だったということは政宗毒殺未遂事件の史実性を疑わせることにもなる。政宗のもとから身を隠すには事件の直後しか考えられないから、4年も後となると、毒殺未遂事件とは別の理由を推察するしかなくなる。続く
 ◆写真は義姫が住んだ悪戸集落内を流れる小河川 現在この集落にはかなりの数の豪壮な土蔵や母屋を構える旧家が多く目にとまり、歴史の里であることがうかがえる

 政宗毒殺未遂事件を史実とした場合、その事件の直後に義姫が会津黒川(現在の会津若松)から実家の兄最上義光のもとに逃れ、南館を経てここに匿われたという話は納得しやすい。
 だが、新資料の発見により実際に政宗のもとから出奔して山形にやってきたのはその数年後、政宗の新居城の岩出山からであるとの説が現在有力になっているものの、彼女の山形への出奔の動機が何であるのかは不明としか言いようがない。
 その推測はまたもや次回以降で行うこととして、今回は彼女が山形の地で落ち着いた悪戸の里で今なお優美にたたずむ小さな「鎮守社」を紹介したい。
 この神社は「白山権現」と称するが、これまた彼女を匿って護った加藤掃部左衛門が大きく関わった伝承が残されている。

 義姫が政宗毒殺未遂事件と小次郎惨殺の直後に政宗のもとから山形に向けて出奔したのではなく、その約4年後に岩出山から出奔したとする説が有力になっていることは既に述べた。
 その彼女の子である伊達政宗の居城は米沢から会津黒川(若松)へ移ったかと思えば、程なくして再び米沢へ戻ったが、それもほんの束の間で、ほとんど秀吉により強制的に岩出山に移転を余儀なくされた。
 それは天正19年(1591)の8月であったが、落ち着く間もなく、翌年の1月には京都に向かい、3月には文禄の役(朝鮮出兵)のために肥前名護屋に出陣し、さらにその翌年の文禄2年(1593)には渡海して朝鮮で戦っている。その年のうちに帰国してはいるが、翌年は京都に滞在し、岩出山に帰ったのは文禄4年の夏のことで、それもほんの束の間で、8月にはまた上洛した(関白秀次追放事件の関係)。
 だから、母である義姫(お東の方)も政宗の居城の移転に伴い岩出山に転居したわけであるが、頼りにしていた政宗は岩出山をほとんど留守にしており、しかも慣れない土地での居住に途惑うことが多かったのではないか。
 一方、同じ頃、実家である山形の最上家においても兄の義光は政宗同様に京都や肥前名護屋に出掛けておったが、義光夫妻が留守の最上家では「一大事」が迫っており、岩出山の義姫は城主夫妻が長期に留守の山形のことが気がかりでならなかったに違いない。

 政宗の母である義姫(お東の方)が政宗が朝鮮出陣などで長期に留守の岩出山城から出奔して山形までやってきた動機はいったい何であったのであろうか。
 むろん、息子の政宗の不在ゆえに生じる伊達家や城内での人間関係や岩出山という慣れない土地での居心地の悪さがあったとしても不思議ではない。
 兄の最上義光も夫人ともども山形を留守にして京都に滞在していたばかりでなく、朝鮮出陣を控えて肥前名護屋まで出かけていたのである。
 それでは山形での「一大事」とは何なのか。
 むろん、城主である義光夫妻が留守であること自体も「一大事」である。
 兄の義光が留守の間に山形では何が起きるかわかったものでない。
 さらにそれに加えてもう一つ最上家にとっての「一大事」が控えていたのである。
 おそらくは実家思いの義姫はそれらの「一大事」のことが気にかかって仕方がなかったから山形までかけつけたのであろう。
 山形では義光の愛娘で義姫の可愛い姪である駒姫が関白豊臣秀次への輿入れを目前にしていた頃である。
 義光夫妻が留守の間に駒姫の「嫁入り仕度」などの婚礼の準備をしっかりとしておくには叔母である自分が出向く必要があると考えていたに違いない。
 また、豊臣家に嫁ぐための心得なども伝えておきたかったのかもしれない。
 しかし、その後、義光が山形に、また政宗が岩出山に帰ってからも義姫が政宗のもとに帰らずに山形にとどまり、郊外の寒村に住まわせられるようになったのも謎と言うべきであろう。
 ※写真は義姫が厚い信仰を捧げた阿弥陀堂(山形城郊外 村木沢悪戸)

 政宗の母義姫は岩出山から離れて(以前は会津黒川もしくは米沢からと伝えられていた)ここ村木沢の地に守護役の者のもとに長年住まい続けたわけだが、阿弥陀仏に帰依する念仏三昧の信仰の毎日だったと伝えられている。
 彼女は山形に戻ったものの、兄の居る山形城内にではなく、当初は南館に住んでいたが、やがてここ村木沢悪戸に移っている。
 彼女が信仰する阿弥陀仏像も彼女とともに移ったようである。
 つまり彼女の信仰は阿弥陀仏を崇拝する念仏宗系の信仰だから、浄土宗、時宗、浄土真宗のいずれかのはずだが、彼女の墓のある仙台市内北山の覚範寺もまた位牌がある若林区の保春院(彼女の法名と同一)もともに臨済宗の禅寺である。
 禅宗系の寺院では阿弥陀仏が信仰されることはほとんどないから、息子の政宗は母の信仰を尊重した上で死後の供養を行ったわけではないことがわかる。

 伊達政宗の母が政宗の居城から出奔して郷里の山形に住むようになった動機はむろん、晩年の前年になってようやく仙台の政宗の膝元に呼び寄せられるまで、かくも長年山形に滞在した理由も不明であるが、やはり興味深いところであり、今後の研究に期待するところ大である。
 母である義姫が山形への出奔以来子の政宗との関係がまったく疎遠であったかと言えば決してそうではなく、親子としての情愛あふれる手紙の遣り取りがあったことはよく知られているし、とりわけ直江兼続の大軍が山形盆地に押し寄せてきた時、彼女は政宗に対して援軍を大至急差し向けるよう激越な懇願状を送り、政宗もそれに応えて援軍を派遣している。その援軍はさほどの人数ではなかったが、山形勢の士気を大いに高めことは確かである。
 むろん、長谷堂合戦の際は彼女は戦火を避けて山形城に避難しているが、戦後はたぶんここ悪戸に戻り、阿弥陀像に祈るなどのひっそりとした生活をおくっていたように思える。
 彼女が岩出山城から出奔したのは文禄3年(1594)で45歳か46歳の時であり、仙台の政宗のもとに戻ったのが元和8年(1622)で74歳か75歳の時であった。
 この間はなんと28年もの長い年月であるが、たぶんやはり一度も岩出山や仙台に戻ったことはなかったと考えるのが妥当であろう。
 実際にここ悪戸の里に彼女が住んだ年月が延べで20年以上だとすれば、それこそ立派な史跡と呼ぶべきであろう。 終わり。
 ※写真は西側から望む悪戸集落  集落の背後には蔵王連山や奥羽の山並みが望まれる。 この山並みは山形城や城下に住む場合よりも眺望が効き、政宗が住む仙台領に想いをはせるには格好の地であった。当時、彼女が日参した阿弥陀堂も集落からやや離れた農地にあり、参詣を兼ねて仙台領を偲んでいたことであろう。
 
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◆信じられない!!◆

2016-12-29 17:01:12 | Weblog

某グループの忘年会。普段はあまり一緒になることのない若い娘さんたち三人も加わった。大いに盛り上がっていたため茨城県で震度6弱の地震があり、山形でもかなり揺れたことすら気づかないでいた。それにしてもこの三人が日本文化の体現を職業としているとはとても信じられないほどのごく普通の現代的娘さんたちであった。彼女たちの職業についてはコメント欄に記入してくだされ。

これではますます信じられない。それでも「昼の顔」は完璧な大和なでしこ。

ついでに、土蔵の外のようだが、この写真で会場がどこか分かる。この厳冬期、決して屋外ではないし、薪ストーブもがんがん。
 
そして、彼女たちの身分は「会社員」。社名は(株)山形伝統芸能振興。
   ※写真は関連HPより

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◆茅葺屋根の材料は激増。しかし茅葺職人は・・◆

2016-12-26 23:00:33 | Weblog

米沢市の郊外では(むろん県内どこでもだが)耕作放棄地が増えて原野化し、一面に背丈の高さより高い茅が一面に生え茂る。しかし、一方では茅葺職人は激減し、しかも高齢化が著しい。茅葺屋根の建物は現代建築が覆いつくす中にあって今や地域住民の公共財産にしてふるさとのシンボル的存在。しかしその茅葺屋根の建物も激減。これでは地方から「ふるさと色」が消滅してしまう。いわば「日本沈没」に等しい。
◆このような危機的状況の打開が行政はむろん政治家たちの「公約」に挙げられることは稀といえる。「保守」を自認する政党すらむしろ無関心のようだ。
◇上山の奇習「かせ鳥」やアメリカ先住民の住居のような形のものは茅葺屋根の葺き替えに備えて束ねて養生させている茅。

この茅葺屋根の古民家は居住用ではなく、裏手の方に現代型の住宅が建てられている。居住用でなくても茅屋根は維持されている。決して観光や蕎麦屋などに用いられているわけではない。
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