山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

◆山形市にトランプ壁が◆

2017-01-19 21:05:56 | Weblog

トランプ氏の大統領就任式まであと2日。むろんそれはアメリカでのこと。ところが昨日山形市役所の近くに高い塀が築かれ始めていた。まさかトランプ氏が命じたわけではあるまいに。それとも山形にもトランプ氏と同様な思考回路の人が存在するからなのか。むろんトランプ氏はアメリカとメキシコの国境を塞ぎたいのだが、旧木村邸の敷地内に侵入するメキシコ人などありえない。でも、山形市と敷地の再開発を担う業者にとっては「市民の目」が敷地内に届くのを塞ぎたいのであろう。

◆ああ、この不動産が山形市に寄贈されてからの7年半は山形市政の「三猿主義」、つまり市民の声を聞かざる、意見書(要望書)も見ざる、市民からの質問書にも返答なし(言わざる)に辟易のしどうしであった。もう「サル年」は去って、もうトリ年だ。市民の意見をしっかりと「聴取」する、つまり聞き取り(トリ)してもらいたいものだ。
◆山形市職員は「三猿のサル」というよりは首を甲羅の中に突っ込んだままのカメのような超内向きの感じがしてならない。それでいて、やりたいようにやるという姿勢だけは威勢がいい。◆大手の建設業者は工事現場の周囲に塀を巡らすのは普通であっても、所々に小さくとも窓を設け、市民が工事の様子を覗けるようにしておくらしいので、市と業者に要望しました。

※“トランプ壁”はさらに“成長”しておりました。
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◆日本一のNO.2の時計台には白い綿帽子◆

2017-01-16 05:27:19 | Weblog
山形県内には誇るべきNO.2が幾つか存在するが、あえて二つを挙げるならば、上杉景勝の家臣の直江兼続公と旧山形県庁舎の時計台であろう。直江公は戦国大名ではないのに家臣として大名以上の働きをしたのできわめて有名で大河ドラマの主人公にまでなっている。◆さて、現役で動いている時計台として旧山形県庁舎のそれは札幌の時計台に次いで二番目に古いとされている。しかし、札幌の時計台は高層ビルの林に囲まれて目立たなくなっているのに対し、山形のそれは依然として威風堂々と天を突いている。◆今日は山形も豪雪に見舞われ、時計台は綿帽子をかぶっている。
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◆初市の日は家族加入記念日◆

2017-01-13 20:52:35 | Weblog
 
我輩は40年前の1月10日、山形初市で買い求められ、家族の一員となった。以来可愛がられてきてはいるが、今なお「独眼竜」のまま。家長は独眼竜政宗公の母親と親しいせいもある。

◆さて、10日の初市も連休明けの平日にもかかわらず賑わっていた。
やはりダンゴ木は初市の華だ。

それでも露店の出店はだいぶ少なくなっているとの家長の話。

午後二時少し前には県境の山並みの白銀も望めたが、わずか三時過ぎには風雨に見舞われた。

ともかく、以前にはこのあたりの車道の両側にも露店の出店が多く並んでいたのだが、今年はこのとおり。
六時近くにはまた晴れとなり、冬の花火の轟音が聞こえる。
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里

2017-01-09 02:29:54 | Weblog
 知人から「義姫」というタイトルのDVDをいただきました。それで、約10年ほど以前に当ブログで連載していたタイトルのシリーズをまとめて再投稿します。最後までご覧ください。

◆伊達政宗は強し、されど母も強し◆
手前には建設機械、上部には送電線、右手には鉄塔も見えるなど、全体として決して麗しい景観だとは言えないが、部分的にトリミングすれば、鎮守の森が見えるなど麗しい農村景観となろう。[須川沿岸の山形市西公園見晴らし塔より]
 後方には丘陵が連なっているが、建設機械と鉄塔のすぐの前方の集落があるあたりは概して平地であると申すべきであろう。
 その集落こそ天下人の秀吉や家康にまで怖れられた奥羽の暴れん坊で戦国末期の武将の中でも一際強烈な個性を天下に知らしめた伊達政宗の母が隠れ住んだと伝えられている村である。
 否、隠れ住んだというよりは、兄の最上義光の命により「押し込められた」里と申すべきなのかもしれない。
 その集落は悪戸と称する山形市村木沢地区の一小字であるが、山形盆地の真ん中の低地を南北に流れる須川の川縁に位置し、須川西部の他の集落からは多少の距離がある「離れ里」でもある。
 しかし、慶長五年(1600)この里にも大きな戦火が迫っていた。 続く

 何の変哲もない盆地の集落だが、その集落に迷い込むと何とはなしに一瞬タイムスリップしたような感じがするから不思議だ。
 なんと、その集落は伊達政宗の母にして最上義光の妹の義姫が政宗のもとを離れて長年住まい続けたと伝えられている集落であるためか、歴史ある地域としての風格を感じてしまうからかもしれない。
 集落の真ん中に至るとかなり広い農地が開けているのも意外である。
 この土蔵のある屋敷のごく近くに義姫は住んでいたようである。
 なぜ彼女が山形城内や城のすぐ近くの城下町ではなく、城からかなり隔絶した離れ里のような所に住まわせられたのかはよくわからない。 

 この道はいつか来た道。
 義姫がよみがえってこの道を歩けば、きっとそう感じるに違いない。
 むろん、彼女がこの地に住んでいた時代は屋根が赤いペンキで塗られていたはずはないし、こんな豪壮な土蔵が建つほど土地の者が豊かであったわけはない。
 だが、この地で彼女の警護の責任を担っていた山形城主最上義光の家臣加藤掃部左衛門はむろん武士で、その後代々この集落の名主をつとめた家系の祖であり、彼の分家がこの集落を中心に散在している。
 直江兼続率いる2万の上杉軍が山形盆地になだれ込んで、この集落のすぐ近くが戦場になったがために掃部左衛門は戦死している。
 上杉軍の山形盆地侵入の報を聞いた掃部左衛門は当然すぐに義姫をこの地から出して山形城に逃れさせたはずである。
 兄の義光は伊達家の仙台城から少しでも遠いこの地に妹を住まわせたものの、まさかこの地が戦場のすぐそばになるとは思いもよらなかったであろう。
 だが、この地が上杉兵に荒らされたことはなかったようである。

政宗の母である義姫が政宗のもとを離れて山形に出奔した時期は彼女が政宗の毒殺計画に失敗し、かつ彼女が溺愛していたとされる次男の小次郎が政宗により惨殺された直後(1590)と考えられていたが(仙台藩の正史である「貞山公治家記録」に記述)、その当時は政宗の居城が会津黒川城(後の会津若松城)と米沢城の二つであったが、平成になって発見された史料(※注)によると4年後の文禄3年であったことが記述され、これが現在では彼女が山形に出奔した年代を知る有力な史料とされている。[※注:政宗の幼少からの学問の師、虎哉禅師の手紙]
 つまりこの文禄3年における政宗の居城は岩出山城であり、彼女が政宗の居城から出奔したのは会津黒川城からでもなければ米沢城でもなく、岩出山城からということになる。
 それではどうして彼女(義姫)が岩出山から出奔したのであろうか。
 義姫が岩出山まで政宗と一緒だったということは政宗毒殺未遂事件の史実性を疑わせることにもなる。政宗のもとから身を隠すには事件の直後しか考えられないから、4年も後となると、毒殺未遂事件とは別の理由を推察するしかなくなる。続く
 ◆写真は義姫が住んだ悪戸集落内を流れる小河川 現在この集落にはかなりの数の豪壮な土蔵や母屋を構える旧家が多く目にとまり、歴史の里であることがうかがえる

 政宗毒殺未遂事件を史実とした場合、その事件の直後に義姫が会津黒川(現在の会津若松)から実家の兄最上義光のもとに逃れ、南館を経てここに匿われたという話は納得しやすい。
 だが、新資料の発見により実際に政宗のもとから出奔して山形にやってきたのはその数年後、政宗の新居城の岩出山からであるとの説が現在有力になっているものの、彼女の山形への出奔の動機が何であるのかは不明としか言いようがない。
 その推測はまたもや次回以降で行うこととして、今回は彼女が山形の地で落ち着いた悪戸の里で今なお優美にたたずむ小さな「鎮守社」を紹介したい。
 この神社は「白山権現」と称するが、これまた彼女を匿って護った加藤掃部左衛門が大きく関わった伝承が残されている。

 義姫が政宗毒殺未遂事件と小次郎惨殺の直後に政宗のもとから山形に向けて出奔したのではなく、その約4年後に岩出山から出奔したとする説が有力になっていることは既に述べた。
 その彼女の子である伊達政宗の居城は米沢から会津黒川(若松)へ移ったかと思えば、程なくして再び米沢へ戻ったが、それもほんの束の間で、ほとんど秀吉により強制的に岩出山に移転を余儀なくされた。
 それは天正19年(1591)の8月であったが、落ち着く間もなく、翌年の1月には京都に向かい、3月には文禄の役(朝鮮出兵)のために肥前名護屋に出陣し、さらにその翌年の文禄2年(1593)には渡海して朝鮮で戦っている。その年のうちに帰国してはいるが、翌年は京都に滞在し、岩出山に帰ったのは文禄4年の夏のことで、それもほんの束の間で、8月にはまた上洛した(関白秀次追放事件の関係)。
 だから、母である義姫(お東の方)も政宗の居城の移転に伴い岩出山に転居したわけであるが、頼りにしていた政宗は岩出山をほとんど留守にしており、しかも慣れない土地での居住に途惑うことが多かったのではないか。
 一方、同じ頃、実家である山形の最上家においても兄の義光は政宗同様に京都や肥前名護屋に出掛けておったが、義光夫妻が留守の最上家では「一大事」が迫っており、岩出山の義姫は城主夫妻が長期に留守の山形のことが気がかりでならなかったに違いない。

 政宗の母である義姫(お東の方)が政宗が朝鮮出陣などで長期に留守の岩出山城から出奔して山形までやってきた動機はいったい何であったのであろうか。
 むろん、息子の政宗の不在ゆえに生じる伊達家や城内での人間関係や岩出山という慣れない土地での居心地の悪さがあったとしても不思議ではない。
 兄の最上義光も夫人ともども山形を留守にして京都に滞在していたばかりでなく、朝鮮出陣を控えて肥前名護屋まで出かけていたのである。
 それでは山形での「一大事」とは何なのか。
 むろん、城主である義光夫妻が留守であること自体も「一大事」である。
 兄の義光が留守の間に山形では何が起きるかわかったものでない。
 さらにそれに加えてもう一つ最上家にとっての「一大事」が控えていたのである。
 おそらくは実家思いの義姫はそれらの「一大事」のことが気にかかって仕方がなかったから山形までかけつけたのであろう。
 山形では義光の愛娘で義姫の可愛い姪である駒姫が関白豊臣秀次への輿入れを目前にしていた頃である。
 義光夫妻が留守の間に駒姫の「嫁入り仕度」などの婚礼の準備をしっかりとしておくには叔母である自分が出向く必要があると考えていたに違いない。
 また、豊臣家に嫁ぐための心得なども伝えておきたかったのかもしれない。
 しかし、その後、義光が山形に、また政宗が岩出山に帰ってからも義姫が政宗のもとに帰らずに山形にとどまり、郊外の寒村に住まわせられるようになったのも謎と言うべきであろう。
 ※写真は義姫が厚い信仰を捧げた阿弥陀堂(山形城郊外 村木沢悪戸)

 政宗の母義姫は岩出山から離れて(以前は会津黒川もしくは米沢からと伝えられていた)ここ村木沢の地に守護役の者のもとに長年住まい続けたわけだが、阿弥陀仏に帰依する念仏三昧の信仰の毎日だったと伝えられている。
 彼女は山形に戻ったものの、兄の居る山形城内にではなく、当初は南館に住んでいたが、やがてここ村木沢悪戸に移っている。
 彼女が信仰する阿弥陀仏像も彼女とともに移ったようである。
 つまり彼女の信仰は阿弥陀仏を崇拝する念仏宗系の信仰だから、浄土宗、時宗、浄土真宗のいずれかのはずだが、彼女の墓のある仙台市内北山の覚範寺もまた位牌がある若林区の保春院(彼女の法名と同一)もともに臨済宗の禅寺である。
 禅宗系の寺院では阿弥陀仏が信仰されることはほとんどないから、息子の政宗は母の信仰を尊重した上で死後の供養を行ったわけではないことがわかる。

 伊達政宗の母が政宗の居城から出奔して郷里の山形に住むようになった動機はむろん、晩年の前年になってようやく仙台の政宗の膝元に呼び寄せられるまで、かくも長年山形に滞在した理由も不明であるが、やはり興味深いところであり、今後の研究に期待するところ大である。
 母である義姫が山形への出奔以来子の政宗との関係がまったく疎遠であったかと言えば決してそうではなく、親子としての情愛あふれる手紙の遣り取りがあったことはよく知られているし、とりわけ直江兼続の大軍が山形盆地に押し寄せてきた時、彼女は政宗に対して援軍を大至急差し向けるよう激越な懇願状を送り、政宗もそれに応えて援軍を派遣している。その援軍はさほどの人数ではなかったが、山形勢の士気を大いに高めことは確かである。
 むろん、長谷堂合戦の際は彼女は戦火を避けて山形城に避難しているが、戦後はたぶんここ悪戸に戻り、阿弥陀像に祈るなどのひっそりとした生活をおくっていたように思える。
 彼女が岩出山城から出奔したのは文禄3年(1594)で45歳か46歳の時であり、仙台の政宗のもとに戻ったのが元和8年(1622)で74歳か75歳の時であった。
 この間はなんと28年もの長い年月であるが、たぶんやはり一度も岩出山や仙台に戻ったことはなかったと考えるのが妥当であろう。
 実際にここ悪戸の里に彼女が住んだ年月が延べで20年以上だとすれば、それこそ立派な史跡と呼ぶべきであろう。 終わり。
 ※写真は西側から望む悪戸集落  集落の背後には蔵王連山や奥羽の山並みが望まれる。 この山並みは山形城や城下に住む場合よりも眺望が効き、政宗が住む仙台領に想いをはせるには格好の地であった。当時、彼女が日参した阿弥陀堂も集落からやや離れた農地にあり、参詣を兼ねて仙台領を偲んでいたことであろう。
 
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◆信じられない!!◆

2016-12-29 17:01:12 | Weblog

某グループの忘年会。普段はあまり一緒になることのない若い娘さんたち三人も加わった。大いに盛り上がっていたため茨城県で震度6弱の地震があり、山形でもかなり揺れたことすら気づかないでいた。それにしてもこの三人が日本文化の体現を職業としているとはとても信じられないほどのごく普通の現代的娘さんたちであった。彼女たちの職業についてはコメント欄に記入してくだされ。

これではますます信じられない。それでも「昼の顔」は完璧な大和なでしこ。

ついでに、土蔵の外のようだが、この写真で会場がどこか分かる。この厳冬期、決して屋外ではないし、薪ストーブもがんがん。
 
そして、彼女たちの身分は「会社員」。社名は(株)山形伝統芸能振興。
   ※写真は関連HPより

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◆茅葺屋根の材料は激増。しかし茅葺職人は・・◆

2016-12-26 23:00:33 | Weblog

米沢市の郊外では(むろん県内どこでもだが)耕作放棄地が増えて原野化し、一面に背丈の高さより高い茅が一面に生え茂る。しかし、一方では茅葺職人は激減し、しかも高齢化が著しい。茅葺屋根の建物は現代建築が覆いつくす中にあって今や地域住民の公共財産にしてふるさとのシンボル的存在。しかしその茅葺屋根の建物も激減。これでは地方から「ふるさと色」が消滅してしまう。いわば「日本沈没」に等しい。
◆このような危機的状況の打開が行政はむろん政治家たちの「公約」に挙げられることは稀といえる。「保守」を自認する政党すらむしろ無関心のようだ。
◇上山の奇習「かせ鳥」やアメリカ先住民の住居のような形のものは茅葺屋根の葺き替えに備えて束ねて養生させている茅。

この茅葺屋根の古民家は居住用ではなく、裏手の方に現代型の住宅が建てられている。居住用でなくても茅屋根は維持されている。決して観光や蕎麦屋などに用いられているわけではない。
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◆要介護老人は実は「小判」、否、「大判」◆

2016-12-26 09:01:33 | Weblog

 旧木村邸は小判どころか大判の価値があるのに、寄贈を受けた山形市職員にとっては「要介護老人」のようにしか思えず、しかも介護の仕方もわからず、7年間も「介護放棄」の状態を続け、ついには「死刑を宣告」に至っている。市役所の近所なのにほとんど訪れることもなく、雑草は伸び放題、屋内は塵埃まみれ、窓を開けて空気の入れ換えもやらず、ただでさえ“ご老体”は衰弱を加速させていた。
◆[0:05附記]むろん寄贈時にも決して頑健な青壮年であったわけではないが、精々後期高齢者前半の程度であった。でも7年後には80代。多少は要支援か要介護の症状が出てもおかしくない年齢。それでも親族や周囲との交流や見守りがあるだけでも、心身の衰えは鈍化する。要介護状態になっても丁寧な介護により寿命はかなり延びていたのだ。この場合は「計画的衰弱死」を狙っていたと思われても無理はあるまい。結果的には死亡の前の「処分」のようだが。
遠方に住む息子が一人暮らしの老親の死後に空き家化した実家の手入れや清掃に通うことは困難だが、この屋敷と市役所は徒歩でも五分以内の距離なのに、長年管理放棄の状態が続いていた。

写真は山形市に寄贈の前の撮影。ボランティア学生たちが清掃や除草をやって多くの市民に公開できる施設を目指していた。でも市の所有になってからは市民が立ち入る機会は失われた。市職員すら担当課以外は内部の良さを知らないまま七年間経過してしまった。
今後、他の残された歴史的建造物に対する多くの市民の関心、そして行政職員の価値の理解を高める方策を考えるべきかと思う。このままでは地元から貴重な歴史遺産が本当に多数失われてしまう。

そして、◆市民との「共創のまちづくり」???◆
山形市役所駐車ビル側面のウィンドウディスプレイで目についた山形市の広報記述。でも、旧木村邸に関しては「市民との共創」は成らず、むしろ拒絶され続けた感じ。ただし、特定企業との共創は好調だったようだ。母屋の解体開始は来週か、年明け後か。
「市民との共創」に関して言えば、母屋保存派は担当部課長、副市長、そして市長とも(こちらからの要求により)面談している。でも、いずれの場合にも彼らの個人的見解は聴けないで終り、とても市側から「忌憚のない」考え方を聴くことは叶わなかった。本来の「市民との共創」とは行政側から積極的に「公開」での意見交換会を重ねることである。事業者選定でのプレゼンテーション(某建設会社と個人からなるグループの2者がエントリー)も「非公開」だったため、多くの一般市民が2者の提案内容を知ることは不可能で、その後審査委員の「密室協議」で建設会社側の提案が採用されたという次第である。


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◆後藤又兵衛が倒れ、木村良達も・・・◆

2016-12-18 10:26:29 | Weblog
まさしく半年ぶりの投稿となる。

◆後藤又兵衛が倒れ、木村良達も・・・◆
後藤又兵衛と言えば言わずと知れた戦国末期の豪傑武将。大河ドラマ『真田丸』では哀川翔が演じていたが、大坂の陣で戦死している。さて、木村良達とはほとんど聞いたことのない名だが、江戸時代から昭和にかけて医家として山形の中心部で近年まで存続した木村家の歴代当主が襲名してきた名である。特に明治前期の文明開化期の西洋式病院「済生館」の医師として貢献した良達は「逸堂」とも名乗り、霞城公園内郷土館敷地の巨大な石碑で顕彰されている。
◆しかし、歴代良達の家屋敷は七年前に山形市に寄贈されたが、母屋はいよいよ解体されようとしている。また、後藤又兵衛とは縁もゆかりもないが、単に豪傑の名を旅館名とした「後藤又兵衛旅館」は山形市内きっての老舗旅館として威風を放ってきたが、20年ほど前に廃業し、風雅な本館と庭園、数多い土蔵、洋館棟について市民による保存の声が高まったものの、すべて解体され、今は一帯が武骨な駐車場と化している。
■※後藤又兵衛旅館跡地(山形銀行の駐車場)は旧木村邸の東100m

なお、下記は2007年5月と投稿の再掲です。
 後藤又兵衛旅館の跡地がいかに殺風景になっているかもご覧ください。

 山形市の中心街に位置する旅籠町には現在一軒の旅籠屋(旅館)もない。
 だが、かつては文字通り旅籠屋が軒を連ねていた。
 中でも「後藤又兵衛」という豪傑と同じ名の旅館は明治の政治家陸奥宗光や山県有朋、森鴎外などの歴史上の人物も泊まった名門旅館であったが、ホテルの進出に押されて廃業、そして建物は解体、土地も今では銀行の駐車場(無人ATMも設置)という殺風景な平面施設と化している。
 堂々たる塀と風格のある玄関、軒を連ねる土蔵、一部には洋風意匠もしつらわれ、緑豊かな中庭・・・と、まさに現在朝の連続テレビドラマの『どんど晴れ』の主たる舞台となっている盛岡の老舗旅館(※)の山形版であり、山形の伝統文化の集大成ともいうべき見事な建造物であった。(※実際の建物は東京にあるらしい)
 むろん、解体の前に一部の市民から保存を望む声があったが、今ではご覧のとおり無粋な景観となっている。背後のビルは「歴史の文脈を生かし、風格と奥行きの感じられる都市づくり」を標榜する山形市役所であり、またそのすぐ手前の無骨でしかない薄茶色のビルは市営駐車ビルであるのは皮肉か。
 なお、旧後藤又兵衛旅館の写真を持ち合わせていないのが残念でならない。
 
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米沢を魅せる・・・山形人と北欧人に

2016-05-31 08:04:17 | Weblog
またまた久方ぶりの投稿となった。
それもFacebookの不具合で投稿できなくなった代役として当ブログを利活用することになったような次第のゆえである。

一昨日の5月29日は山形歴史たてもの研究会の皆さんに米沢芳泉町においでいただいた。
旧行方(なめかた)家(家内の祖父の生家)母屋で地区内の「芳泉町生垣街並み保存会」の会長さんから芳泉町の茅葺屋根住宅の現状とすぐ近くを流れる松川(最上川上流)の氾濫に備えた江戸時代からの対策の歴史を資料資より料にお話しいただき(地区内のご婦人連も聴講)、芳泉町の街路(主として下の町)と河川敷を散策した。

先生の説明を聴くのに精いっぱいで茅葺屋根と河川敷の撮影はすっかり怠ってしまった。上は以前に撮っておいた写真である。

それから、直江石堤、JR関根駅近くの羽黒神社と普門院を訪れた。



どちらも上杉鷹山公が儒学の師細井平洲を出迎えたゆかりの寺社で、どちらも史跡として名高い。
羽黒神社は分厚い茅葺屋根の古色蒼然とした風格満点の霊域であった。
特に屋根に草が大きく生えているのが印象的だ



残念ながら普門院は改修工事のため覆いがかぶせられ、撮影は門と逆さハートが三つの墓石だけにした。




そして、その夜には30年~20年前に山形と米沢に住んでいた米国人とノルウェー人の宣教師夫妻とその娘夫妻の家族、そして随伴のノルウェー人女性が宿泊し、翌日は李山のトトロの森を案内した。

トトロの森の近くの道路では20匹ほどの猿が道路を横断し田んぼに入ったのを目撃した。
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◆すっかり市街地化していたと思っていたら・・◆

2016-03-20 10:34:08 | Weblog

先日、馬見ヶ崎川向こうでの用事を済ましてそこの裏通りに入ったら昔ながらの田舎らしい迷路の細道が続くわ続くわ。ここは遠く伊勢神宮に所縁(ゆかり)のある古代山形開拓の先進地。

◆山形市に合併した旧村では最も早い方だから、当然現在はすっかり市街地化していたと思いきや、広大な畑地や梅林が開けてくるなど、歩けば歩くほど(実際は自転車)興味つきないワンダーランドであった。




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