天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

江藤新平

2009年10月23日 | 不易
 徳による王道で天下を治めるべきだと力による覇道を批判した江藤新平は明治6年の政変で、政敵・大久保利通らに破れ、西郷隆盛らとともに下野して政界を去った。これから憲法制定に着手しようという矢先のことで、彼にとっては不本意な下野だった。下野して後、日本で最初の自由民権運動を板垣退助たちと起こし、政界を去ってからもなんとか国政改革に参加しようとした。その頃まだ普及していなかった三権分立を唱え、立憲政治(三権分立の原則に立った憲法に基づく政治)を強く主張した。
 しかし、不平士族の総大将に祭り上げられ、各地の反乱の口火となる佐賀の乱(1874年)を起してしまう。かねてから江藤新平の政敵だった大久保利通は、政府から全権(行政権・軍事権・司法権)を委任されて江藤の裁断の場に自ら赴き、処置を指示した。「除族の上、斬首さらし首」つまり、士族という身分を剥奪したうえで処刑し、さらにはさらし首に処す、という判決を下した。これは江藤が作った法律(新典)にはない旧法による判決だった。
 江藤は最後まで、彼が生涯を通して追い求めた法の正義というものを信じて戦おうと考えていたが、結果その思念は無残に打ち砕かれる。存念を公の場にて訴え、必ず生きてこの日本を自分が改革してゆくのだ、そういう意志を処刑寸前まで捨てなかった江藤新平。しかし彼が目指した法治国家の理念を、大久保利通はいとも簡単に権力操作によって握り潰した。江藤新平は最期の処断のとき、「ただ皇天后土のわが心を知るあるのみ」(俺の心はただ天とこの大地のみが知っている)そう三度叫んだという。