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天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

芭蕉

2016年10月12日 | 俳句・短歌
西行500年忌で奥の細道の旅に出た芭蕉

夏草や 兵どもが 夢の跡

旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる


芭蕉の夢は

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月影や 四門四宗も ただひとつ

だったのかもしれませんね。

逢いたい

2012年10月07日 | 俳句・短歌
めぐりあひて 見しやそれとも 分かぬまに
雲がくれにし 夜半の月かな


紫式部


あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
いまひとたびの 逢ふこともがな


和泉式部


夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ


清少納言


難波潟 みじかき芦の ふしの間も
逢はでこの世を すぐしてよとや


伊勢


瀬を早み 岩にせかるる 滝川の
われても末に あはむとぞ思ふ


崇徳院

相聞歌~出逢い

2012年03月06日 | 俳句・短歌
初めての訪問、良寛不在で貞心尼自作の手鞠と歌を託す。(良寛70才、貞心尼30才)

これぞこの ほとけの道に 遊びつつ
つくやつきせぬ みのりなるらむ

良寛さんは手鞠をついて遊んでおられると聞きますが、そこに尽きせぬ仏への精進の道が、私には窺われます。私も一緒に遊び、仏道を学びたいと存じます。未来永劫尽きることのない仏道の心髄を体得して、悠々自適の生活を楽しんでおられるのでしょうが、私もお導き下さいませんでしょうか。

つきて見よ ひふみよいむな やここのとを
とをとおさめて またはじまるを (つきて見よ 一二三四五六七八九十を 十とおさめて また始まるを)

この手鞠をついて無心になる気持を求めるならば、理屈や言葉ではなくて、あなたもどうぞ一緒に手鞠をついてごらんなさい。一二三と十までついたら、また繰り返して、ひたすらついていく。夢中になっている時に、実は本当の仏の世界が開けてくるんですよ。扉は叩いてごらんなさい。思ったことは先ず試みてみなさい。実行してみてから、その次はまた、その時考えて実行に移して行くことです。あなたがもし私に逢いたいならば遠慮なくどうぞ。

初対面

君にかく あい見ることの うれしさも
まださめやらぬ 夢かとぞおもふ

ゆめの世に かつもどろみて 夢をまた
かたるも夢よ それがまにまに

そなたは今、夢のようだと言われたが、そう思う心、人生そのものもまた夢のようなものです。だから、その時々の気持に素直であればよいでしょう。

話がはずんで、月の美しい夜となる。

白たへの ころもでさむし 秋の夜の
月なかぞらに すみわたるかも

秋の夜の月とは仏の真理、こんなに夜も更けて肌寒い夜の中で、澄みきった気持ちに今こそなれますねと呼びかける。

向ひいて 千代も八千代も 見てしがな
空ゆく月の こと問わずとも

空ゆく月すなわち仏法の真理、悟りのことなどの話はどうでもいい。ただこうして永遠に向かい合っていたい。

心さへ 変らざりせば はふ蔦の
たえず向かはむ 千代も八千代も

大切なのは心です。心さえぴったり合っていれば、どこにいても、いつでも一緒にいるのと同じようなものです。

一夜を語り明かし、貞心尼が帰るとき

立ちかへり 又もとひこむ 玉鉾の
道のしば草 たどりたどりに

またお伺いしてもよろしいでしょうか。

又もこよ しばの庵を いとはずば
すすき尾花の 露をわけわけ

こんな、むさくるしいところでも、かまわなければ是非また来て下さい。

相聞歌~成就

2012年03月05日 | 俳句・短歌
翌年初夏に、良寛が福島村の閻魔堂に住む貞心尼を訪ねる。その後、音沙汰がないので催促の歌を贈る。

君や忘る 道やかくるる このごろは
待てどくらせど 音づれのなき

思いを寄せる貞心尼、受け身の良寛という図式が、少しずつ逆転していく。逢いたいと激しく迫るのは、もはや良寛のほうである。待てど暮らせどやってこないのは、もう道を忘れてしまったのかと、なじっている。貞心尼はこの時期、柏崎で修行していて行くことができなかったので歌を返す。

事しげき むぐらのいほに とぢられて
身をば心に まかせざりけり

浮き世の雑草に追われて、未熟の私どもはなかなか思うようにはまいりません。

山のはの 月はさやかに てらせども
まだはれやらぬ 蜂のうす雲

仏の教えは、あの月のようにさやかな光を投げかけていますが、私たち凡人には煩悩即菩提などというわけにはなかなか参らず相変わらず心が迷ってしまいます。

身をすてて 世を救ふ人も ますものを
草のいほりに ひまもとむとは

世の中には自分の身を犠牲にしてでも、他人のためにつくす人がおります。70才の老人がもう一度お話したいと思っているのに、あなたはお寺でのんびりとしていなさる。案外薄情な方のようですね。

久方の 月の光の 清ければ
照らしぬきけり からもやまとも

仏の教えは時空を超越します。古今東西はおろか人の心の中まで遍く照らしぬきます。あなたは煩悩だとか言って迷っているようですが、それもこれも、みんな仏様はお見透しです。一切を投げ出して、ただ仏様にお任せしなさい。

はれやらぬ みねのうす雲 たちさめて
のちの光と おもはずや君

仏教は尊い、仏陀の光明は広大無辺だと言っても、肝心の自分の心が濁っていたのでは、仏教の心髄にふれることはできません。先ず自分自身が煩悩の雲をうち払ってこそはじめて真の仏の教えも分かるというものです。この辺のところをよく考えてごらんなさい。

貞心尼は柏崎での修行を終えて、福島村に戻り音信を送る。

おのづから 冬の日かずの 暮れゆけば
まつともなきに 春は来にけり

「四時行われ万物育す」とか「天行は健なり」とか申します。冬が過ぎて春になるということはそれがそのまま自然法爾の姿でしょうか。

我れも人も うそも誠も へだてなく
照らしぬきける 月のさやけさ

まこと良寛さまのお示しのとおり、善人も悪人もみな一様に救って下さる仏様の慈悲は無限です。

さめぬれば 闇も光も なかりけり
夢路をてらす ありあけの月

闇に対しての光であり、光に対して闇というか、所詮は一つのものの裏表で、さらに突っ込んで考えればすべてのものは「空」に帰します。もし何ものかを認めるとすれば、それは人の世を照らす真如の月と言えましょうか、無始から無窮に続くただ一道の光明があるとでも申してはいかがなものでしょうか。

天が下に みつる玉より 黄金より
春のはじめの 君がおとづれ

今日の便り、私にとっては何ものにも換えがたい贈りものです。毎日毎日待ち焦がれていたのです。

手にさはる ものこそなけれ 法の道
それがさながら それにありせば

仏法というものは、具体的に、これがこれ、あれがあれというふうに理屈で説明できるものではありません。そなたが一道の光明があると言われたが、そのあると信じる心、それが即ち仏法です。

春風に み山の雪は とれぬれど
岩まによどむ 谷川の水

み山べの 深雪とけなば 谷川に
よどめる水は あらじとぞ思ふ

もう一歩のところだから、折角精進して悟道の域に達せられるように。大綱をしっかり会得すれば細葉は自然に理解されることと思います。

いづこより 春は来しぞと たづぬれば
答へぬ花に 鶯のなく

無心の花の上で、うぐいすが無心に鳴いている。それが春であり、天地自然の姿です。春はどこから来たか、何時来たかなどと問うことはありません。

君なくば ちたびももたび 数ふとも
十づつとをを ももとしらじな

あなたにお目にかからなかったら、経文をたとえ百万遍読誦したとしても、その意味を理解することが出来なかったと思われます。

いざさらば われもやみなむ ここのまり
十づつとをを ももとしりなば

それでは、わしの説法もこれ位にしておきましょう。大体の意味がお判りのようですから。

この春、貞心尼はとうとう良寛を訪ね、弟子入りの契りをする。

りょうぜんの 釈迦のみ前に 契りてし
ことな忘れそ 世はへだつとも

霊山というのは霊鷲山、釈迦がよく説法した王舎城の近くの山である。すなわちお釈迦様の前で契ったことを、たとへ世を隔てても忘れるな。私は先に死ぬかも知れないが、後に残ったあなたは忘れるなということ。

霊山の しやかの御前に ちぎりてし
ことは忘れず  世はへだつとも

いざさらば さきくてませよ 時鳥
しばなく頃は またも来て見む

それではお元気で・・・ほととぎすの啼く夏の頃、またお伺いします。

うき雲の 身にしありせば 時鳥
しばなく頃は いづこに待たむ

秋萩の 花さくころは 来て見ませ
命またくば 共にかざらむ

夏は暑いから塩入峠が大変でしょう。秋少し涼しくなったら来なされ、それまで生きていたら一緒に萩の花でも見ましょう。

相聞歌~夏

2012年03月04日 | 俳句・短歌
その秋まで二人は待てなく、貞心尼は五月に訪れる。

秋萩の 花咲くころを 待ちとほみ
夏草わけて またも来にけり

秋とお約束していましたが、待ちどおしいので、夏草をかきわけて参りました。

秋萩の 咲くを遠みと 夏草の
露をわけわけ 訪ひし君はも

それは、それは、よくおいでました。

翌年夏、貞心尼は良寛を訪ねたが、留守で庵室の花瓶に香りのよい蓮の花がさしてあった。

来てみれば 人こそ見えぬ 庵もて
にほふ蓮の 花のたふとさ

みあへする 物こそなけれ 小瓶なる
蓮の花を 見つつしのばせ

「みあへする」響応する、もてなし  「忍ばせ」辛抱して下さい

良寛が与板町の山田家を訪れたとき、貞心尼に良寛が見えていることを知らせると貞心尼は喜んででかける。

いづこへか 立ちてぞ行かむ 明日よりは
烏てふ名を 人のつければ

自分はカラスなのだから、明日はどこへでも行くことにしよう。

山がらす 里にい行かば 小烏も
いざなひ行けよ 羽よわくとも

自分は小がらすだから、羽がよわくても、どうか誘って連れて行ってほしい。

誘ひて 行かば行かめど 人の見て
あやしめ見らば いかにしてましけ

良寛は若い女性と一緒では、人の見る目もいかがであろうとためらう。

鳶はとび 雀はすずめ 鷺はさぎ
烏はからす 何かあやしき

貞心尼は、同じ黒染の衣をまとう身、すこしも構わないのではと積極的。

良寛は山田家を辞去して、他家に泊まりに行く。

いざさらば 我れはかへらん 君はここに
いやすくいねよ はや明日にせん

翌日、良寛は再び山田家に行き、泊まっていた貞心尼と会う。

歌やよまむ 手毬やつかむ 野にや出でむ
君がまにまに なして遊ばむ

歌もよまむ 手毬もつかむ 野にも出でむ
心ひとつを 定めかねつも

いかにせむ 学びの道も 恋ぐさの
繁りていまは ふみ見るも憂し

いかにせむ 牛に汗すと 思ひしも
恋のおもにを 今は積みけり

「牛に汗す」汗牛充棟の諺をかりた戯歌で、燃える心をこのように表現した。