天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

宮崎奕保

2008年01月05日 | 不易
このごろの情勢を各報道機関によって見聞しますと

大衆に範を示さなければならない地位にあるものが範を犯したり非常に醜い

教えというものは何がためにあるかと言えば実行するためにある

お釈迦様の教えというものは 天があり 地があって その恵みを受けて

人間が その正しい真(まこと)を  実行していくという

大法則のもとに 生かされておる ということ

人間は 名誉とか 地位とか  見栄とか わがままとか そんなもんでいっぱいだ

人間はわがままが自由やと思っておる

ちゃんと型にはまったものが平生底(日常)でなければならない

欲は 克服するすべを覚えんといかん

自分ぐらい大事なものはない 自分ぐらい大事なものはええけども

人はどうでもええではなくて 環境もみな自分だから


例えばスリッパがいがんでおったら ほうっておけないんだ

スリッパがいがんでおるということは 自分がいがんでおるんだ

自分がいがんでおるから いがんだやつが直せないんだよ

心がまっすぐであったら すべての物を まっすぐにする必要がある

修行をしておるんじゃなくて 当たり前のことをやっておるんや

それよりやることないんだ

坐禅ということは まっすぐということや

まっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ 右にも傾かない 左にも傾かない

まっすぐということは 正直ということや

身心は一つやから 体をまっすぐにしたら 心もまっすぐになっとる

そのものと一つになっていくことが 禅だ


自然は立派やね

わたしは日記をつけておるけれども

何月何日に花が咲いた 何月何日に虫が鳴いた 

ほとんど違わない 規則正しい 

そういうのが法だ 法にかなったのが大自然や

法にかなっておる だから自然の法則をまねて人間が暮らす

学ぶということは まねをする というところから出ておる

一日まねをしたら一日のまねや 一生まねしておったら まねがほんまもんや

人間の欲望に従っては迷いの世界だ 真理を黙って実行するというのが大自然だ

誰に褒められるということも思わんし これだけのことをしたらこれだけの報酬がもらえるということもない

時が来たならばちゃんと花が咲き

そして黙って 褒められても 褒められんでも 

すべきことをして 黙って去っていく

そういうのが実行であり 教えであり 真理だ



曹洞宗大本山永平寺78代貫首 宮崎奕保禅師