とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

松本人志は夏目漱石である!

2011年06月02日 00時58分28秒 | 日本的笑世界

先週放送の「とんねるずにもう一度逢いたい」、ついつい録画を何度も見てしまってます。
「もうっ、ここラーメンくさいっ!集中しようとするけど醤油ラーメンの匂いがするんだもん!」ってタカさんが言うの、可愛いすぎる・・・
ノリさんも「大嶋の野郎!」って、ノッてましたね(笑)

さて、本日はお笑い関連書を一冊ご紹介します。
2010年に宝島社新書の一冊として出版された『松本人志は夏目漱石である!』。

少々過激なタイトルと思われる向きも多いでしょう。タイトルにひかれつつも、なかなか手にとる機会がなく、最近ようやく手に入れて読みました。

まず本書は、タイトルから予想するような「松本人志論」ではありません。萩本欽一以降のお笑い界のスターたちをとりあげた、いわば芸人列伝です。本書が同じようなコンセプトの他の本と大きくちがうのは、なんと、明治・大正期の近代文学の歴史とお笑い史をパラレルに論じるという、そのあまりに大胆な切り口。

内容は真摯かつアカデミックに書かれています。文学とお笑いに類似性を見つけるだなんてんなアホな、と思われそうだし、著者の峯尾耕平氏自身、最初は自分でも「くだらない比較だ」と思っていたと、あとがきに記している。

ところがどっこい、これがまったくくだらなくない。近代文学の知識に裏付けられているためか、ひとつひとつのアナロジーが読んでいるとだんだん説得力を持ってくるのです。 泉鏡花とタモリ、芥川龍之介と千原ジュニアを対応させた章などは、読んでいて鳥肌モノでした。

ここで紹介されている作家たちの作品を、すごく読みたくなってきます。峯尾さんの読書量にははるかにおよばないながら、わたしも近代文学のプチファンで、とりわけ漱石と志賀直哉はよく読みました。だから峯尾氏の文体に親しみを感じるのかなあ、とも思う。

さんまさんと比較された幸田露伴や、横山やすしと比較されている国木田独歩など、学生時代に読んだようで実はちゃんと読んでなかった作家を、本腰いれて読んでみたい、しかもそれぞれと比較された芸人さんたちを思い浮かべながら読みたい、と思いました。

もちろんとんねるずも登場します。とんねるずに対応する作家は、島崎藤村。これはねー非常に納得いきましたね。思わず膝を打った、ってやつです。反骨精神とか、現実をありのままに写生しようとする姿勢などに、確かに共通性を感じます。

・・・と言いつつ『破戒』や『夜明け前』を読んだのも今は昔、自分としては両者の比較について言えることはこれくらいで、あとはもう本書を読んでみなさんでお考えください、としか言えないのが哀しひ・・・そういえば藤村の『千曲川のスケッチ』が好きだったな・・・

とんねるず論としても、新しい視点が示されています。先日別の記事でもふれた「とんねるずほど、テレビに偏り、テレビを題材にした芸人はいない」という指摘がおもしろいのですが、その直前には、とんねるずと「舞台演芸の漫才」との強い結びつきについて書かれています。その素地が「コルドンブルー」での修行にあったのではないか、と峯尾氏は考えている。この部分は、さらっと書かれているのでちょっとわかりにくくもあるのだけど、でもすごく興味深いです。

わたしなんかは単純に、とんねるず自身が大のテレビっ子だったから、テレビを通して演芸ファンになり、テレビに出始めてからもテレビというメディアそのものをネタにしたのだろう、と考えていました。でも、考えてみれば、初期のとんねるずはコルドンブルーや百姓亭、昆といったステージに出てたんですよね。

西条昇著『東京コメディアンの逆襲』(光文社文庫)のなかでも、とんねるずは「ショーパブ出身芸人」に分類されています。その見方が新鮮でしたが、峯尾さんもそれに近い見方をしているということなのだろうか?

自分自身テレビっ子なのでどうしてもテレビととんねるずの関係にばかり目がいってしまいますが、それだけではダメだなというのを、峯尾さんの指摘に教えられました。

松本人志=夏目漱石の論考に関しては、『吾輩は猫である』のセルフ・パロディの感覚などはむしろとんねるずに近いんじゃ(両者とも東京人だし)とも思うけれど、それよりも峯尾氏は文体の完成者という点で松ちゃんを対応させている。

このあたりは、やはり「世代感」みたいなものもあるのだろうか。ダウンタウン以後の若い世代には、とんねるずはすでに「昔コントとかやってたらしいよ」的な存在になってる所もあるんですよね。とんねるず世代の人間は、どうしても、すべてがとんねるずから始まったと思いがちなんだけど(笑)

この本全体をつうじて峯尾氏がキーワードとしているのが「共通意識」です。近代文学が自然主義から私小説を生み、それが日本文学の本流になっていったのと同じく、日本のお笑いも、観客(視聴者)との共通意識を育むことによって笑いを生む傾向があるのではないか、というのがその主張。おもしろいですよね。

そういえばデーブ・スペクター氏も、日本の笑いは身内向けだと言っていました。日本文化や、日本人の日本文化に対するアプローチには、本質的に、身内受けを狙いたがる傾向があると言えるのかもしれない。

コメディアンが客との間に共通意識を築きたがる、という現象自体は、日本だけのものではないでしょう。ヨーロッパはよくわからないけど、アメリカのコメディは案外そういう傾向が強い。アメリカ文化も日本に負けず劣らず内向きですからね。

でも、最近日本に多い「すべり芸」みたいなものは、海外にはあんまりないかもしれない。芸、というかネタ自体はつまらなくても、芸人がそのキャラを確立してしまえば(そして芸人自身が「いい人」だったりすれば)受け入れられてしまう。そのあたりは、日本独特の笑いのありかたと言えるのかもしれません。

ところで、「木村祐一は志賀直哉である!」の章を読んでいて、直哉がその著作のなかで「日常の些事」についていつもぶつくさ言っていたのを、ひさしぶりに思い出して笑ってしまった。ふと、ラリー・デイヴィッドに似てるかも、と思いました。当ブログでもたびたびとりあげている「となりのサインフェルド」の制作者兼コメディアンです。彼が主演する「ラリーのミッドライフ☆クライシス」はアメリカHBOで現在も放送中。大人気ドラマです。

これはラリーがラリー自身としてラリー自身の日常(と称したフィクション)を演じるコメディドラマ。わたしは第3シーズンまでDVDで観ていますが、まさに「日常の些事」vsラリーといった感じで超おもしろい。レストランのウェイターがチップを欲張ってラリーが激怒するだの、会食したらいつもおごらされる友人にキレるだの・・・これも、ある種の私小説コメディと言えるかもしれない。

アメリカ的私小説コメディと、日本独自の私小説的笑いとのちがいは、何なのだろう?日本以外の文化に「フリートーク」という私小説的「芸」は存在するのかな?スタンダップ・コメディアンの漫談と日本のフリートークとはどう違うんだろう・・・『松本人志は夏目漱石である!』は、このようにわたしの興味を思いも寄らない方向へひろげてくれた、刺激的な一冊です。何より、笑いと文学という異なる領域のボーダーをぽーんと超えていくことで、日本の笑いの世界がより深く見えてきます。

とんねるずの章の終わりには、

「今後とんねるずがどんな活躍をするかはわからないが、藤村同様のカリスマ性を兼ね備え、新しい世代の先頭を走ってきた彼らは、晩年に大きな活躍を見せるだろう」

と、うれしい一文を書いてくれています。
芸人にさりげないエールを送りつづける峯尾さん。次の著作がとても楽しみです。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿