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森不二夫は、33才の春、世界でもっともすぐれた奇術師のひとりとよばれた。
かの“偉大なるゼウス”のひとり息子としてうまれた彼は、父が飛行機事故であっけなく死んだ15才の冬にその仕事を継いだ。
ゼウスは息子に奇術をおしえなかった。公演旅行で不在がちな父の記憶は、不二夫にはほとんどなかった。おぼえているのは、夢におびえて泣きだした幼い不二夫を、車の助手席に乗せ、真夜中の街をドライブす . . . 本文を読む
青灯 作・いいをじゅんこ
あなたになりたい、と、藍子は泣いた。
あなたはわたし、と、陽子は笑った。
「光はどこ?」だれかが囁いた。
光は藍子の手の中にあった。
母はその手をふわりとつつんだ。光と、罪を、わけあった。
母は年をとった。母は盲目だった。
娘も年をとった。ふたりは、はたらきづめにはたらいた。
母がてさぐりで織り上げ . . . 本文を読む
湖が見えたとき、雨雲はすでに重く降りていた。
車の通りが途絶えた県道の脇に立ち、おれたちは、眼下にひろがる湖面をぼんやり見下ろした。
まだ、時間はある。
「いってみようか。みずうみ」
「ああ」
おれと村田は、ガードレールが一カ所途切れたせまいすきまから身をよじって入りこみ、湖へ続く斜面を降りていった。
ほそいけもの道が、ここ数日ふりつづいた雨でぬかるんでいる。地元の住人がふみかため . . . 本文を読む