とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

寅次郎はこう言った

2012年11月17日 21時22分01秒 | 日本的笑世界



大雪の降った次の日、撮影所の門を這入った。
入口の原っぱで、忠臣蔵四十七士の討入りの撮影中、昨夜降った雪をそのまま利用して、吉良家の庭の池の橋の上で、清水一角の立ち廻りの場面であった。
子供の時、田舎で見た姿そのままで、しばらく魂をうばわれた如く胸をときめかせながら夢中で見物、撮影終了して初めて自分は何の用件で此処へ来たのか、やっと気が付く始末であった。・・・



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さて、作品をひとつひとつあげていけばきりがないし、また、喜劇の場合それも特に斎藤喜劇のおもしろさは、文章には書けない。いくら上手に書いても、画になったものには遠く及ばない。ギャグ、ナンセンスの保存は、フィルムそのものしかない。
その肝心のフィルムが現在ないということは私にとってこの上なく淋しいことである。



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事実は作りものよりも強力である。その作りものを事実よりも事実らしく観客に訴え、より純粋な感動、共感、笑いを引き出すための苦労・・・それが私の映画生活のすべてであると言っていい。



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人生には、深遠な哲理の探求に用うる時間が必要であると同時に、現実の表面を吹く笑いに身を浸すべき時間も必要である。いつも、奥歯を喰いしばって苦い顔をして居るのが生活の全部ではない。その笑いの方面を満足させるのが、ナンセンス・コメディであろう。僕が、『精力女房』を製作するに当って、第一に頭に描いた事は、人々に、唯、意味のない笑いを享楽させようとした事であったのだ。



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僕は皮相的なアクションに依る普通のおかしさだけの喜劇では満足出来ない。内容のある喜劇でなければならないと思っている。
しかし、前者と後者との間は、実に難しいものであって、何処から何処までが前者に属するものであって、何処から何処までが後者に属するかという点を探すのに、僕は寝食を忘れている。



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しかし、相手を笑わせるギャグというものには、結局きりのあるもの、人間の頭からひねり出したものは、或る程度まで行けば、行きつまりになるものは、決まりきっている。それで僕は、行きつまらしたくない為に、あらゆる外国のナンセンス映画を見、また漫画というものも、発表されている限り、目を通すようにして勉強していたのである。



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(コメディアン泉和助がかんがえたギャグ)

兵隊が十人並んでいる。最後の兵隊が上官に頭をなぐられる。ところが一番前の兵隊が“痛い---”とぶっ倒れる。間が5メートルくらい離れているのだから、なぐるのと倒れるのがピチッと合わないと面白くない。これが息が合うまで、何百回と練習したとのこと。


息子が家出をしようとする。それをオヤジがつかまえて、

“お前、お父っつあんの気持ちがわかんないのか!”

それに対して息子が、

“わかんないと思ってるお父っつあんの気持ちはわかんないことはないんだ。わからないと思っている俺の気持ちがわからないお父っつあんの気持ちこそ、わからないよ。”

“わからない、わからないと思っている倅の気持ちがわからないほど、わからない親爺だと思っているのか、親の気持ちがわからないお前に、俺の気持ちがわかるか。”

“わからない、わからないってお父っつあんはいうけど、わかってないはずはない、わたしはわかっているのにお父っつあんはわかってないと思うから、僕がわからない気持ちがお父っつあんに通じないんじゃないか、お父っつあんこそわかんないな・・・・・・。”

こんなのを親子でいつまでもやっていて、おしまいに二人で、

“さっぱりわかんないな------。”

でオチる。ところがこんな芝居はモウレツな稽古をやらなくちゃいけない。同じようなセリフを半憶えにしといて途中でトチッたりなんぞすると、おもしろくもオカしくもない。こんな芝居はタイミングが生命なんだから、どうせ客にはわかんないんだからとチャランポランにゴマかしてしまうとおもしろくない。ギャグとはそんなものである・・・・・・。



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・・・是はひとり、僕個人の考えだけかも知れないが、悲劇と喜劇とは、人生の両極端を行っているようであって、実際は同一のものであるような気がする。ただ、世の人の呼ぶ悲劇とか、喜劇とかいうものは、ただその名称だけの違いと思っている。
悲しいから泣いて、可笑しいから笑う---これは世間一般の通り相場であるが、世の中には悲しいから笑う場合だって、また可笑しいといっては泣く場合だってある。だから、突きつめた処、ナンセンスに可笑しみばかり求めて、涙を求めようとしないのは飛んでもない大間違いだ、と思っているのである。そうした気持ちで、映画を撮りつつある僕の態度を、極外者が見たならば、果して何と言うだろうか。




『日本の喜劇王 斎藤寅次郎自伝』(清流出版 2005)より



斎藤寅次郎監督の経歴と偉業については、このサイトがくわしい。

バーチャル記念館 斎藤寅次郎編




東京五人男 (昭和20年)





200本近く撮った斎藤監督の珠玉のサイレントのシャシンは、現在わずかに『子宝騒動』『モダン怪談壱00、000、000円』『石川五右衛門の法事』のフィルムが存在するのみ・・・




オープニング - エノケンの法界坊 (1938)













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