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『カリガリ博士』
(Das Cabinet des Dr. Caligari/The Cabinet of Dr. Caligari ロベルト・ヴィーネ監督 1919 ドイツ)
いわずとしれた、怪奇幻想ホラー映画の原点。すべてはここからはじまった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「アザーサイド」(アルバム『カリフォルニケーション』収録)のミュージックビデオは、『カリガリ博士』にインスパイアされています。
「アザーサイド」の映像をはじめて観たときは、その果てしない想像力と奇妙で美しい造型に驚いたものですが、刺激をあたえたのは、『カリガリ博士』でした。
『カリガリ博士』---なんという魅惑的な、不思議なタイトル。幻想と夢の渦の中へ、心の暗闇の中へ・・・まさにothersideへ観る者をひきこんでしまう映画。
森の散歩道沿いのベンチに、男がふたりすわって話している。初老の男の身の上話を聞いた若い男は、自分が体験したことの方がずっと恐ろしい、と語る。
ふたりの前を、うつろな表情の美女が通り過ぎる。若い男は、それが自分のフィアンセだと言う。フランシスという名の、若い男の回想------
故郷の祭り。フランシスは、親友のアランをさそう。祭りではカリガリ博士が、夢遊病者のチェザーレを見世物にして稼いでいる。その夜からはじまる、連続殺人事件。
25年間眠りつづけているチェザ-レは、目覚めると予言ができる、とカリガリ博士は言う。博士の呼びかけによって目覚めるチェザ-レ。自分の寿命をたずねたアランに、チェザーレは言い放つ、明日の夜明けに死ぬ、と。ショックを受けるアラン。
フランシスとアランは、同じ女性を愛していた。彼女がどちらを選んでも、ずっと親友でいよう、と語り合って、ふたりは別れる。そして翌朝---アランが他殺体で発見される。「なにか恐ろしい渦にまきこまれている!」フランシスは叫ぶ・・・
ベラ・バラージュが『映画の理論』において、「『カリガリ博士』の中では、事物の相貌と表情が、すでに人間のそれの如く魔力的な生命をもつにいたっている」と書いています。もうこれに尽きる。
歪んだ窓が、異常に高い椅子が、狂ったように回るメリーゴーラウンドが、ばかでかい扉が、そりかえった机が---人間をとりまく何気ない事物のすべてが、othersideに属している。
それらに囲まれて、異様におおげさな身ぶり手ぶりで演じる役者たち・・・日常も現実も、遠いもやのむこうに消えてしまい、歪んだ心の闇とほとばしる熱気だけが世界を満たしている・・・。
二重三重にしかけられた脚本の罠。観客は、扉をひとつずつ開けてゆくたびに、深みにひきずりこまれていく・・・。
ああ・・・なんという映画!
必ず、夜観てください。部屋を真っ暗にして観てください。何も考えず、映画の世界に身を浸してください---ただし、どんなにothersideが魅力的でも、遠くへ行き過ぎないよう、ご用心を・・・。
(Das Cabinet des Dr. Caligari/The Cabinet of Dr. Caligari ロベルト・ヴィーネ監督 1919 ドイツ)
いわずとしれた、怪奇幻想ホラー映画の原点。すべてはここからはじまった。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「アザーサイド」(アルバム『カリフォルニケーション』収録)のミュージックビデオは、『カリガリ博士』にインスパイアされています。
「アザーサイド」の映像をはじめて観たときは、その果てしない想像力と奇妙で美しい造型に驚いたものですが、刺激をあたえたのは、『カリガリ博士』でした。
『カリガリ博士』---なんという魅惑的な、不思議なタイトル。幻想と夢の渦の中へ、心の暗闇の中へ・・・まさにothersideへ観る者をひきこんでしまう映画。
森の散歩道沿いのベンチに、男がふたりすわって話している。初老の男の身の上話を聞いた若い男は、自分が体験したことの方がずっと恐ろしい、と語る。
ふたりの前を、うつろな表情の美女が通り過ぎる。若い男は、それが自分のフィアンセだと言う。フランシスという名の、若い男の回想------
故郷の祭り。フランシスは、親友のアランをさそう。祭りではカリガリ博士が、夢遊病者のチェザーレを見世物にして稼いでいる。その夜からはじまる、連続殺人事件。
25年間眠りつづけているチェザ-レは、目覚めると予言ができる、とカリガリ博士は言う。博士の呼びかけによって目覚めるチェザ-レ。自分の寿命をたずねたアランに、チェザーレは言い放つ、明日の夜明けに死ぬ、と。ショックを受けるアラン。
フランシスとアランは、同じ女性を愛していた。彼女がどちらを選んでも、ずっと親友でいよう、と語り合って、ふたりは別れる。そして翌朝---アランが他殺体で発見される。「なにか恐ろしい渦にまきこまれている!」フランシスは叫ぶ・・・
ベラ・バラージュが『映画の理論』において、「『カリガリ博士』の中では、事物の相貌と表情が、すでに人間のそれの如く魔力的な生命をもつにいたっている」と書いています。もうこれに尽きる。
歪んだ窓が、異常に高い椅子が、狂ったように回るメリーゴーラウンドが、ばかでかい扉が、そりかえった机が---人間をとりまく何気ない事物のすべてが、othersideに属している。
それらに囲まれて、異様におおげさな身ぶり手ぶりで演じる役者たち・・・日常も現実も、遠いもやのむこうに消えてしまい、歪んだ心の闇とほとばしる熱気だけが世界を満たしている・・・。
二重三重にしかけられた脚本の罠。観客は、扉をひとつずつ開けてゆくたびに、深みにひきずりこまれていく・・・。
ああ・・・なんという映画!
必ず、夜観てください。部屋を真っ暗にして観てください。何も考えず、映画の世界に身を浸してください---ただし、どんなにothersideが魅力的でも、遠くへ行き過ぎないよう、ご用心を・・・。
という驚きが…。
観たいです!!ぜひ観たいので記事ほぼスルーしました。
映画草創期のサイレント映画って、それが意図的なのかどうかは分かりませんが、役者の動きやセットやカメラアングルが、すべて妖しさ・いかがわしさを増幅させますよね。悪夢を見ているような。
ときどき、あまりの大袈裟な表情や動きに、作品の内容や流れと無関係にプッと吹き出してしまうこともなくはないんですが…。それもそれで僕は楽しいです。
私も映画論とってましたが、観たのは「東京物語」と「近松物語」でした。
>役者の動きやセットやカメラアングルが、すべて妖しさ・いかがわしさを増幅
そうですよね。身体表現だけで伝えなきゃ、というのがあったのかもね。パントマイム的なところが。
「カリガリ博士」は特にそれが顕著ですね。確かに「そんなせんでもええやん」って笑っちゃうところがあります。
チャップリンとかキートンのサイレント喜劇も基本は身体言語ってことなんでしょうね(チャップリンはほとんど観てないけど)。