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クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

ディパーテッドに悩む日々

2007年03月01日 14時15分41秒 | 世界的電影
『ディパ-テッド』の作品賞受賞について、いまだに悶々としております・・・しつこくてスミマセン。


『ディパ-テッド』感想記事は→こちら
アカデミー賞関連記事は→こちら
『インファナル・アフェアIII』感想記事は→こちら


もう授賞式は終わったのだし、マ-ティン・スコセッシがようやくオスカーを得たことは良かったと思うし、納得したい気持ちはやまやまなんだけど・・・なぜか胸の奥がもやもやもやもやもや・・・

このもやもやは、一体なんなんだ??

とりあえず公平を期すため、この受賞の良い側面をかんがえてみました。

先日も引用したLAタイムズの別の記事(by Mr.Patrick Goldstein)→こちらでは、「『ディパ-テッド』が30年後に"傑作クラシック"と呼ばれうるか?」と問いかけている。ライターの答えは「YES」。

なぜなら、『ディパ-テッド』が典型的なストリートギャングの物語であり、ハリウッドがもっとも得意とするジャンル映画だから。時代にとらわれない普遍性がある、というわけ。

スコセッシ自身、『ディパ-テッド』を撮るにあたって、1930年代のフィルム・ノワール(たとえば『民衆の敵』)を意識していたらしい。

ちなみに、『ディパ-テッド』のコステロ(ジャック・ニコルソン)とサリバン(マット・デイモン)は、ボストンに実在したアイルランド人ギャングとFBI捜査官がモデルなんだとか。なぜNYではなくボストンなのか、なぜイタリア系ではなくアイリッシュなのかが、やっとわかりました。

ともかく、ストリートギャングをスコセッシがふたたび題材にえらんだことを歓迎する意見が、批評家だけでなく一般観客からも多くあるようです。

また、ストーリーテリングの力を発揮した映画として評価する声もある。『ディパ-テッド』のラストのどんでん返しは、たしかに『タクシードライバー』や『レイジングブル』や『キング・オブ・コメディ』の良さをふたたび見るような感覚があるのかもしれない。
(スコセッシ自身は、今回のようにプロットのある映画を撮ったのは初めてで、そのためこの仕事を引き受けるかどうかためらいがあったと語っています。脚本が先にできていて、スコセッシにオファーがいったというのが経緯らしい。)

冷静にかんがえてみれば、だれよりも勉強熱心な香港の映画作家たちが、スコセッシの過去の傑作を研究しなかったわけはない。だから、百歩ゆずって、『インファナル・アフェア』の源流のひとつ(あくまで「ひとつ」)に、マ-ティン・スコセッシがいた、ということも、あるいは言えるのかもしれません。

『ディパ-テッド』受賞のもうひとつのメリットは、これをきっかけにオリジナルを観ようとするアメリカの観客が増える可能性がある、ということでしょう。実際、Amazon.comのユーザーレビューを読むと、「興味がわいてオリジナルを観てみたら、リメイクがつまらなく見えた」という意見もあります。

おもしろいことに、すでにオリジナルを観ていたアメリカの観客は、「オリジナルの方が好き」と口をそろえて言う。"アメリカ流"に"アレンジ"した『ディパ-テッド』の作り手たちは、この大衆の意見をどう受け取るのでしょうか・・・まあそれでも、オリジナルをわざわざ観るアメリカ人は少数派であるのは変わりないでしょうけど(アメリカでは外国映画を観る人口は非常に少ない)。

ここではっきりさせておきたいのは、(無間道ファンはみなさんそうだと思いますが)リメイクとオリジナルをくらべて、どちらが映画としていいかを決めるつもりはない、ということです。たとえば映画と原作小説や原作コミックをくらべて「原作とちがう」と怒るのは、不毛です。

だから、われわれが考えるべきなのは、映画の出来の問題じゃなくて、映画作りの姿勢の問題です。
そして、ここにわたしの「もやもや」の原因もあるのです。

リメイクがダメとは言わない。過去のアカデミー受賞作品の中にも、何らかのリメイクやオマージュ作品はあったかもしれない。それに、もし自分がオリジナルを観ていなければ、『ディパ-テッド』への評価ももっと高かったのかも知れない。オリジナルを知ってるからといってあーだこーだ言うのは、フェアじゃないのかもしれない。

でも・・・・・・やっぱり、どうしても何かがひっかかる。

たとえば、『Shall We Dance?』もオリジナルにものすごく忠実なリメイクでした。でも、この作品の場合、それがすなわちオリジナルへのリスペクトになっていた。オリジナルがもつ<魂>を全力で汲み取ろう、という姿勢がうかがえました。

果たして『ディパーテッド』にその情熱があっただろうか?オリジナルに惚れ込みながらそれをさらに超えていこうとすることこそがリメイクのあるべき姿だとわたしは思います。ただ単に舞台設定を変えてまったく同じ物語を語ることは、リメイクではなく、ただのコピーでしかない。

要するに、『ディパ-テッド』には、オリジナルをリスペクトする姿勢がない。

と、いうことに尽きるのかもしれません。ちょっとばかり中国人を出演させたり、中華街でディカプリオを走らせたりしても、意味がないんですよ。

もしも『インファナル・アフェア』が1930年代の古典映画なら、忠実にリメイクしてもいいでしょう。でも、これは2002年の映画なんです!

それでも、一般の娯楽作品としてアメリカでヒットするだけなら、べつにかまわない。いや、むしろうれしいくらいです、それだけ『インファナル・アフェア』が普遍的な魅力をもった傑作だということが、逆に証明されたわけですから。実際、『ディパ-テッド』は"普通に"おもしろい映画だし。

役者が賞を受けるのも歓迎しましょう。おおまけにまけて、スコセッシが監督賞をとるのも、まあいいでしょう。

でも、作品賞となると話が違う。アカデミー監督賞はわすれても、作品賞は皆おぼえているものです。第一、作品賞受賞は、その後のDVD等の売れ行きを大きく左右するんだそうです。その影響力は、決して小さくないんです。

その影響力に見合うガッツが、『ディパ-テッド』にあっただろうか?
リスクを犯してもオリジナルを超えてやろうという工夫と情熱が、『ディパ-テッド』にあっただろうか?
何より、こんな「ものまね」が、まかりとおっていいんだろうか?
スコセッシというすぐれた監督だからこそ、やってはいけなかったんじゃないのか?

(*スコセッシは来日記者会見で「本当は撮りたくなかったがどうしても撮る必要があったので撮った」「作品に怒りを感じている」と語っている。と、すれば、責められるべきはスコセッシではなく、脚本家、作品賞を与えてしまったアカデミー、あるいはスコセッシに撮影を「強要」した何か、だと言えるのかも・・・)

・・・なにはともあれ、アメリカでは『ディパ-テッド』の2枚組DVDと同じ日に、『インファナル・アフェア・トリロジー』のDVDボックスも発売されたそうです。Amazon.com→こちら

すくなくとも、DVDジャケットがマシになっただけでも、よしとしましょう。


ところで、香港ではこの結果、どう受け止められているんでしょう?全然わからない・・・意外と歓迎してたりして?
だとしたら、わたしの「もやもや」がバカみたいなんだけどね。








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