<対称・増殖・複製 1>
モンティ・パイソンに"Whicker Island (Where there are just too many Whickers) "というコントがある。
戦中戦後を通じてイギリスでジャーナリストとして活躍したアラン・ウィカー(Alan Whicker 1925~)という人物がいる。彼は"Whicker's World"というインタビュー番組で、世界中のあらゆる有名人や富豪、政治家をインタビューしつくした。大きな黒ぶちメガネにちょびヒゲ、スーツにマイク、左手をポケットにつっこんだまま、鼻にかかったような声でしゃべる。その独特の容姿としゃべり方で、彼はイギリスのイコンとなった(らしい)。
パイソンのコント「ウィカー・アイランド(Whicker Island)」は、その"Whicker's World"のパロディである。
パイソンの五人全員がウィカーに扮し、熱帯の孤島にやってくる。カメラにむかって5人のウィカーが入れ替わり立ち替わり、右へ左へうろうろと歩きながらしゃべる。リッチなプールサイドには、さらに多くのウィカーが歓談している。インタビューされるはずの大司教でさえも、黒めがねにヒゲである。つまり、その島には増殖したウィカーがうようよしているのである。
わたしはモンティ・パイソンのコントをすべて見ているわけではなく、BBCから発売されている四枚組のベスト版DVDを見ているのだが、彼らのコントは、まったく同じ格好をした大勢(複数)の人間を登場させることが多い。たとえば「ニュー・クッカー・スケッチ(New Cooker Sketch)」や「ガンビー兄弟」「乱視のキリマンジャロ登山隊」などのコントだ。
そこに登場する人々は、たとえば学校の生徒が同じ制服を着ているというように単なる「相似」しているのとは違う。そうではなく、まったく同じものが細胞分裂のように増え、同時に存在する、まさに「増殖」なのである。そのもっともわかりやすい例が、「ウィカー・アイランド」なのだ。
筆者は、なぜだか自分でも理由はわからないが、この「増殖」という概念が妙に好きである。
「馬場・猪木兄弟」は、この「ウィカー・アイランド」に近いコンセプトのコントであると思う。誰もが知っているジャイアント馬場、あるいはアントニオ猪木というイコンが、もしまったく同じ姿形で二人いたとしたら?「馬場・猪木兄弟」は、それがスタート地点であり、コンセプトである。
では、それがなぜ「笑える」のだろうか?
たとえば「馬場兄弟」にこんな場面がある。
マクドナルドへ行った馬場兄弟。兄はビッグマックとマックシエイクを注文し、無事食べることができる(量は足らないが)。弟はアップルパイを注文しようとするが、馬場さんの口調のため、「アッポッポ」となってしまい、店員に通じない(*1)。兄が「お前の口調じゃわからないだろ」と叱り、弟のために注文してやる。だが、兄もやはり馬場さんであるため、「アッポッポ」になってしまう(笑)。弟が空手チョップをキメ「おんなじ」とつっこむ。
この場面は、(馬場さんにはちょっぴり失礼かもしれないが)ふたりが同じ「ジャイアント馬場」であるからこそ生まれる笑いであろう。
もうひとつ例を挙げよう。カメラ屋で使い捨てカメラを買い、ふたりがお互いをカメラで撮り合ったあと、弟がおもむろにカメラを捨ててしまう。それを見て兄はびっくりし(*2)、「なぜ捨てるんだよ!」と弟に詰め寄る。弟は「だって、使い捨てだろ」。すると兄は「そっかあ」と納得して(笑)一件落着するのである。
使い捨てカメラを文字通り使って捨ててしまう弟と、そう説明されて納得する兄。ジャイアント馬場のおっとりとして人のいい性格をふたりともまったく同じようにもっているからこそ、この場面は説得力を持つし、最高におもしろいのである。
まったく同じ場面が「猪木兄弟」にもあるが、わたしはこの場面に関しては「馬場兄弟」の方がよりおもしろい効果をあげていると思う。
<自動機械>
「革命へようこそ」でもふれた、20世紀初頭のフランスの哲学者ベルクソンは、笑いを生み出す源を「自動機械」または「こわばり」と呼んでいる。
自然や人間の生というものは、本来は、柔軟で、常に動き、変化しつづけているはずのものである。その生の中にいったん機械を思わせる動きを見い出すと、人は笑う。
たとえば歴史上最も古典的なギャグ、「バナナの皮ですべってころぶ人」がなぜおかしいか。それまで何の支障もなく自然に歩いていた人が、バナナの皮ですべることによって一個のモノ(=自動機械)と化してしまう。そして本人の意思に反して、石ころのようにころがってしまう。そこに人は滑稽さを見い出す、というのである。
そして、たがいに似ているもの、同じ姿や動きをする人間たちもまた、自然の法則に反して機械的であるため、それは滑稽になりうる、と彼は言っている。
「繰返し、完全な類似のあるところには、我々は生けるものの背後に働いている機械的なものがありはせぬかと首をかしげる。あんまり酷似している二つの顔に対面したときの諸君の印象を分析してみたまえ。諸君は同一の鋳型からとられた二つのコピー、あるいは同一の印章からの二つの捺印・・・つまり何か工業的製作の作業工程を念頭に浮べていられるのを御覧になるだろう。生をこうして機械の方向にため曲げることが、ここでは笑いの本当の原因である。」
また、
「・・・みんな互いに似ていて、しかも同じ姿勢をとり、同じ風に仕種をやりながら一緒に往ったり、来たり、踊ったり、手足を動かしたりするできるだけ多数の者を、舞台に持ち出したら、笑いはもっとずっと強烈になるであろう。今度は、我々は操り人形をありありと念頭に浮べる。目には見えぬ糸が、腕と腕、足と足、一つの顔つきの各筋肉と他の顔つきの類似の筋肉を繋ぎ合わせているように思われる」(『笑い』岩波文庫)
馬場・猪木兄弟が、その容姿だけでなく動きもきっちりとシンクロしていることに注意したい。場面転換のためにぐるっと一回転する時の歩数までそろえているのだ。ベルクソンの言う「操り人形」の感覚を、とんねるずは見事に体現しているのである。
このような概念は、あるいはウオーホルのようなポップアートにおける「複製」につながるかもしれない。とんねるずは、近現代の笑いの定石をしっかりとふまえつつ、ポップカルチャーのながれに乗ったきわめて視覚的な笑いを追求してきた。
たとえば、貴明&憲武時代のギャグ「お~~っと、てやんでい」「時代を先取るニューパワー」などは、その背後に何の意味もないが、ふたりがまさに機械的なまでにまったく同じ動作をする(しかも無表情)ことで、それはおもしろいものとなる。意味がないぶんだけ、余計にダイレクトな視覚的刺激があるのかもしれない。
同じように、馬場兄弟や、蝶ネクタイをごしごしする猪木兄弟が並んだ姿は、ほとんどポップアートと言ってもいいほど視覚的に完成されている(*3)。強烈なビジュアルをもつジャイアント馬場・アントニオ猪木がふたりいて、同じ動きをするということは、あまりにも非自然的なことである。それがもつ機械性、人工性が、われわれに強力な笑いをもたらすのではないだろうか。
(*1 馬場さん口調が通じない、というプロットは、「お笑いスター誕生」でグランプリを獲得した時のネタから来ているものと思われる。笑えます。→こちら参照。)
(*2 この時のタカさんの表情が、筆者はめちゃくちゃ好きである。)
(*3 このようなギャグやコントが成功したひとつの要因に、とんねるずのふたりのルックスがあるかもしれない。あまり身長差もなく、ルックスも良く、濃いまゆ毛やスレンダーな容姿といった点でふたりはよく似ている。だからこそ、さほど違和感なく双子を演じることもできるのである。)
その4へ続きます。もちょっとつきあってくれよ。
モンティ・パイソンに"Whicker Island (Where there are just too many Whickers) "というコントがある。
戦中戦後を通じてイギリスでジャーナリストとして活躍したアラン・ウィカー(Alan Whicker 1925~)という人物がいる。彼は"Whicker's World"というインタビュー番組で、世界中のあらゆる有名人や富豪、政治家をインタビューしつくした。大きな黒ぶちメガネにちょびヒゲ、スーツにマイク、左手をポケットにつっこんだまま、鼻にかかったような声でしゃべる。その独特の容姿としゃべり方で、彼はイギリスのイコンとなった(らしい)。
パイソンのコント「ウィカー・アイランド(Whicker Island)」は、その"Whicker's World"のパロディである。
パイソンの五人全員がウィカーに扮し、熱帯の孤島にやってくる。カメラにむかって5人のウィカーが入れ替わり立ち替わり、右へ左へうろうろと歩きながらしゃべる。リッチなプールサイドには、さらに多くのウィカーが歓談している。インタビューされるはずの大司教でさえも、黒めがねにヒゲである。つまり、その島には増殖したウィカーがうようよしているのである。
わたしはモンティ・パイソンのコントをすべて見ているわけではなく、BBCから発売されている四枚組のベスト版DVDを見ているのだが、彼らのコントは、まったく同じ格好をした大勢(複数)の人間を登場させることが多い。たとえば「ニュー・クッカー・スケッチ(New Cooker Sketch)」や「ガンビー兄弟」「乱視のキリマンジャロ登山隊」などのコントだ。
そこに登場する人々は、たとえば学校の生徒が同じ制服を着ているというように単なる「相似」しているのとは違う。そうではなく、まったく同じものが細胞分裂のように増え、同時に存在する、まさに「増殖」なのである。そのもっともわかりやすい例が、「ウィカー・アイランド」なのだ。
筆者は、なぜだか自分でも理由はわからないが、この「増殖」という概念が妙に好きである。
「馬場・猪木兄弟」は、この「ウィカー・アイランド」に近いコンセプトのコントであると思う。誰もが知っているジャイアント馬場、あるいはアントニオ猪木というイコンが、もしまったく同じ姿形で二人いたとしたら?「馬場・猪木兄弟」は、それがスタート地点であり、コンセプトである。
では、それがなぜ「笑える」のだろうか?
たとえば「馬場兄弟」にこんな場面がある。
マクドナルドへ行った馬場兄弟。兄はビッグマックとマックシエイクを注文し、無事食べることができる(量は足らないが)。弟はアップルパイを注文しようとするが、馬場さんの口調のため、「アッポッポ」となってしまい、店員に通じない(*1)。兄が「お前の口調じゃわからないだろ」と叱り、弟のために注文してやる。だが、兄もやはり馬場さんであるため、「アッポッポ」になってしまう(笑)。弟が空手チョップをキメ「おんなじ」とつっこむ。
この場面は、(馬場さんにはちょっぴり失礼かもしれないが)ふたりが同じ「ジャイアント馬場」であるからこそ生まれる笑いであろう。
もうひとつ例を挙げよう。カメラ屋で使い捨てカメラを買い、ふたりがお互いをカメラで撮り合ったあと、弟がおもむろにカメラを捨ててしまう。それを見て兄はびっくりし(*2)、「なぜ捨てるんだよ!」と弟に詰め寄る。弟は「だって、使い捨てだろ」。すると兄は「そっかあ」と納得して(笑)一件落着するのである。
使い捨てカメラを文字通り使って捨ててしまう弟と、そう説明されて納得する兄。ジャイアント馬場のおっとりとして人のいい性格をふたりともまったく同じようにもっているからこそ、この場面は説得力を持つし、最高におもしろいのである。
まったく同じ場面が「猪木兄弟」にもあるが、わたしはこの場面に関しては「馬場兄弟」の方がよりおもしろい効果をあげていると思う。
<自動機械>
「革命へようこそ」でもふれた、20世紀初頭のフランスの哲学者ベルクソンは、笑いを生み出す源を「自動機械」または「こわばり」と呼んでいる。
自然や人間の生というものは、本来は、柔軟で、常に動き、変化しつづけているはずのものである。その生の中にいったん機械を思わせる動きを見い出すと、人は笑う。
たとえば歴史上最も古典的なギャグ、「バナナの皮ですべってころぶ人」がなぜおかしいか。それまで何の支障もなく自然に歩いていた人が、バナナの皮ですべることによって一個のモノ(=自動機械)と化してしまう。そして本人の意思に反して、石ころのようにころがってしまう。そこに人は滑稽さを見い出す、というのである。
そして、たがいに似ているもの、同じ姿や動きをする人間たちもまた、自然の法則に反して機械的であるため、それは滑稽になりうる、と彼は言っている。
「繰返し、完全な類似のあるところには、我々は生けるものの背後に働いている機械的なものがありはせぬかと首をかしげる。あんまり酷似している二つの顔に対面したときの諸君の印象を分析してみたまえ。諸君は同一の鋳型からとられた二つのコピー、あるいは同一の印章からの二つの捺印・・・つまり何か工業的製作の作業工程を念頭に浮べていられるのを御覧になるだろう。生をこうして機械の方向にため曲げることが、ここでは笑いの本当の原因である。」
また、
「・・・みんな互いに似ていて、しかも同じ姿勢をとり、同じ風に仕種をやりながら一緒に往ったり、来たり、踊ったり、手足を動かしたりするできるだけ多数の者を、舞台に持ち出したら、笑いはもっとずっと強烈になるであろう。今度は、我々は操り人形をありありと念頭に浮べる。目には見えぬ糸が、腕と腕、足と足、一つの顔つきの各筋肉と他の顔つきの類似の筋肉を繋ぎ合わせているように思われる」(『笑い』岩波文庫)
馬場・猪木兄弟が、その容姿だけでなく動きもきっちりとシンクロしていることに注意したい。場面転換のためにぐるっと一回転する時の歩数までそろえているのだ。ベルクソンの言う「操り人形」の感覚を、とんねるずは見事に体現しているのである。
このような概念は、あるいはウオーホルのようなポップアートにおける「複製」につながるかもしれない。とんねるずは、近現代の笑いの定石をしっかりとふまえつつ、ポップカルチャーのながれに乗ったきわめて視覚的な笑いを追求してきた。
たとえば、貴明&憲武時代のギャグ「お~~っと、てやんでい」「時代を先取るニューパワー」などは、その背後に何の意味もないが、ふたりがまさに機械的なまでにまったく同じ動作をする(しかも無表情)ことで、それはおもしろいものとなる。意味がないぶんだけ、余計にダイレクトな視覚的刺激があるのかもしれない。
同じように、馬場兄弟や、蝶ネクタイをごしごしする猪木兄弟が並んだ姿は、ほとんどポップアートと言ってもいいほど視覚的に完成されている(*3)。強烈なビジュアルをもつジャイアント馬場・アントニオ猪木がふたりいて、同じ動きをするということは、あまりにも非自然的なことである。それがもつ機械性、人工性が、われわれに強力な笑いをもたらすのではないだろうか。
(*1 馬場さん口調が通じない、というプロットは、「お笑いスター誕生」でグランプリを獲得した時のネタから来ているものと思われる。笑えます。→こちら参照。)
(*2 この時のタカさんの表情が、筆者はめちゃくちゃ好きである。)
(*3 このようなギャグやコントが成功したひとつの要因に、とんねるずのふたりのルックスがあるかもしれない。あまり身長差もなく、ルックスも良く、濃いまゆ毛やスレンダーな容姿といった点でふたりはよく似ている。だからこそ、さほど違和感なく双子を演じることもできるのである。)
その4へ続きます。もちょっとつきあってくれよ。
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