とんねるず主義+

クラシック喜劇研究家/バディ映画愛好家/ライターの いいをじゅんこのブログ 

とんねるずイズム6「未熟」

2012年03月27日 19時43分39秒 | とんねるずコント研究



数年ごとに発作的にくる「シャーロック・ホームズ熱」に、ひさしぶりにうかされて困っています。

きっかけは、いま劇場公開中の『シャーロック・ホームズ シャドウゲーム』ですが、それに輪をかけて心わしづかみにされちまったのが、これ!






2010年から英国BBCのスペシャルドラマ枠で放送されている『シャーロック』(第1シリーズのみ鑑賞)。「ホームズが21世紀のロンドンに生きていたら」という設定で、携帯やらネットやら、最先端の科学技術を駆使して犯罪捜査をする “モダン・ホームズ” の物語です。これ、最高なんですけど!

残念ながら現時点では日本版DVDは発売されておらず(NHK-BSで放送されたことはある)UK版を手に入れました。早口のイギリス英語を聞き取るのはわたしには非常にむずかしくて、英語字幕を見ながら2度3度とくりかえし観ています。でも、何度観ても飽きない!ヒアリングの良い訓練にもなってます。

『シャーロック』については(いまハマってるし)いくらでもしゃべりたい気分ですが(笑)別の機会にゆずるとして。

このドラマを見ながら、「未熟であること」と「コンビ」の関係について、ふと考えました。

シリーズ1の第1話「スタディ・イン・ピンク」に、こんな場面があります。

ホームズは、ワトソンの携帯電話をひとめ見ただけで、ワトソンにハリーという名の兄がおり、ハリーにはかつてクララという名の恋人あるいは妻がいたこと、しかし飲酒癖のためハリーはクララと別れたこと、などを推理する。

「どこか間違ってたかい?」とたずねるホームズに、ワトソンは「全部当たっている。ただ一点をのぞいては。ハリーはハリエットの愛称なんだ」(つまりハリーは兄ではなく姉で、レズビアンである)。「姉だったか!ぜったい何か間違いがあるんだよな!」と、ホームズは悔しがります。

ホームズが「超人」ではあっても「完璧」ではない、ということを、とてもうまく表現した名場面だと思います。これこそが、ホームズを永遠のヒーローにしている最大の要素じゃないかと思う。「超人」だけど「完璧」じゃない。探偵としても人間としても未熟だからこそ、彼にはワトソンが必要・・・







人間というものは、もちろん自分もふくめて、ついつい「自分はできる」ということを証明したがるものです。

できる、知っている、理解してる、答えられる・・・・・・人はだれも、"Yes, I can" をだれかに、そして世間に、証明することばかりに汲々となっている。

できない、知らない、理解してない、答えられない、と正面切って認めるのは、とてもむずかしいことです。年齢をかさねればかさねるほど、ますますむずかしくなる。

最近では、どうしたことか、若い人たちのあいだでもそれがむずかしいようです。"No, I can't" と言えることは、若者の特権であるはずなのに、それが恥であるかのような空気が、どんよりとした曇り空みたいに世の中に充満していて、ちょっと息苦しい。

けれど、ふっと立ち止まってかんがえてみれば、ひょっとして「できる」より「できない」ほうが、本当はずっとおもしろいんじゃないだろうか?

「そんなの小学生でも知ってるよ。知ってて当然だよ」と言うよりも「いや、まだまだ知らないことだらけだ。もっと知りたい」と言うほうが、楽しいことなんじゃないかしら。

3月9日を過ぎて、とんねるずはついにふたりそろって50才になりました。デビュー当時二十才そこそこだったあの若者たちが、50才に・・・

それを事実としてわかっていても、なんとなくピンとこない。何だかんだ言っていても、日本中のヤングたちが、男も女も恋に落ちた30年前のとんねるずと、いまのとんねるずは本質的に何も変わってないんじゃないだろうか。

師匠もなく、芸もなく、演技ができるとかでもない、ごくふつうの高卒の若造だったふたり。だけど、わたしたちは、そんな彼らの "No, we can't" が大好きでたまらなかった。

未熟な自分たちとおなじくらい未熟なふたりが、それを隠そうともせず恥じもせずに、ドシドシと勇気をもってテレビの世界にふみこんでいった。その姿を、ハラハラしながら、でもワクワクして、見守り、ともに成長してきた(あるいは、成長してこなかった?)。それが、とんねるずファンです。

この「ハラハラ感」を、30年たったいまでもまだとんねるずに対して感じてしまうのは、じつに奇妙なことです。

先日の4時間の生放送では、ひさしぶりの生番組の司会ということも手伝って、たくさんのファンが「ハラハラ」しながら見守りました。冷静にかんがえてみれば、芸歴30年の、50才の大スターに「ハラハラ」するなんて、普通じゃない(笑)昨日今日ポッと出たタレントじゃあるまいし、ゆったり構えて楽しめばいいだけのことなのに。

それでも、ワンフーは、ハラハラしてしまう。そして、それは良いことなのです。

「未熟」といっても、とんねるずが芸人として成長していないなどという意味でないのは、もちろんです。30年もやっているのだから、技術的にはいやでもベテランの域に達しているし、また、タカさんノリさんが、それぞれのフィールドで自分を磨き高めてきたことも、だれもが知っています。それに対して自分が感じている敬意を、隠すつもりはありません。

それでも、ふたりは常に、人間として、パフォーマーとしての余白とかのびしろを、保ちつづけようと意識的に努力しているのではないかと、わたしは思うのです。未熟であり、半人前でありつづけようとし、コンビであることによって、たがいの未熟さをおぎないあえる関係でいようとしている。

「未熟」であるということは、つまり、これからいくらでも「熟して」ゆける可能性がある、ということだ。のびしろがいくらでもあるということです。「才能が枯渇する」という表現があるけれど、わたしはそれを信じません。みずからの未熟さをみとめ、確保しつづけてゆくかぎり、枯れ果てるなんてことはありえないからです。人間の潜在能力って、そんなヤワなもんじゃない。

デビュー~ブレイクにかけて、若者たちをとんねるずへと強烈にひきつけたのは、彼らの「未熟」のパワーでした。時をへて、野猿があらたな伝説をつくったのも、素人であるスタッフたちの「未熟」のパワーがあったればこそ、だった。

そして、ついに芸歴30年をこえ、50才の大台にのったいま、とんねるずにとっての「未熟」はふたたび彼らにパワーをあたえていくだろう、と、わたしは感じています。

あるいは40才代は、とんねるずにとって厳しい時代だったのかもしれない。成熟へむかうのか、未熟なままでいればいいのか、どちらとも決められない中途半端な季節で、どうにも身動きがとれなかったんじゃないかと思う。

しかし、50才になったことで、むしろふっきれるのではないでしょうか。「50才にもなって」まだ高校生みたいな「未熟さ」を、みずみずしい "No, we can't" を保ちつづけることができるとすれば、それはすごいことです。

彼らといっしょに年を重ねたファンにとって、それがどんなにか大きな力になることでしょう。また、これからとんねるずを「再発見」してゆく若者たちにとって、どんなにか大きな励ましになることだろう。

50才というハードルをぴょーんととびこえたふたりは、ぐるりとひとまわりして、スタートラインにふたたび立ち戻ろうとしているのかもしれない。いろいろな理由でとんねるずから離れていたかつてのワンフーたちも、年を重ねてよりパワフルになって、ふたたびとんねるずへ帰ってきています。そして、若いあたらしいファンがそれにつづいている。

「未熟」のパワーでつながれた、おとなになることを拒否するファンととんねるずの共犯関係は、とんねるずがわたしたちを「ハラハラ」させつづけ、わたしたちが「ハラハラ」しつづける限り、終わりがくることはないのだ!


『シャーロック』に、ホームズの兄マイクロフトのこんなセリフがある:

「勇敢とは、愚か者の定義ではないのかね、ワトソン君?」

それが本当だとすれば、利巧者になんか、なりたくない。







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