The Phantom of the Opera / Gaston Leroux

ガストン・ルルー原作「オペラ座の怪人」

300

2007年06月17日 | 映画について



ジェリーには似てません。
[300」鑑賞記念にレオニダス王。


カチューシャしてるんですね、王様(^^)



いつ二度目の鑑賞になるかカレンダー見て考え中。


オラクルは異常に美しいし、ペルシャ王はあとをひく気持ち悪さだし、ペルシャ軍あらゆる意味で面白すぎ、かつツボ過ぎ。







ファントム

2007年06月17日 | 「オペラ座の怪人」



映画版風のファントム。

本当はクリスかジュニアでも入れようと思ったのですが、結構人物二人って大変なので一人になっちゃいました。



管理人の脳内ファントム、エリックともにあまり「年寄り」ではありません。40歳ちょっと位かな?19世紀の「年寄り」だからこのくらいでもいいかなぁ、です。個人的には1837年生まれなんですが。


全体的な傾向として40歳~60歳という設定なんでしょうね。違うかな?


キス

2007年06月16日 | 「オペラ座の怪人」



某サイトマスター A様がいいアイディアを!

「腰に手をまわす」ですか?いいですね


これは
小走りに近寄ってきたクリスが「お帰りなさい。チュッ」というような場面ですね(^^)


下の絵は「ほらっ、動いてるでしょ?」という感じです。



A様!それはそれは・・・おめでとうございます!!!


私信

2007年06月15日 | 「オペラ座の怪人」



「最低でも20センチ」!!!!


言えてます!!見上げるくらいでなきゃです。
だからキスする時もクリスティーヌが背伸びするか、エリックがかがむのですね♪
で、安定感がないのでクリスティーヌがエリックにしがみつかなくっちゃならないのです


その感じが可愛くて滅茶苦茶可愛がってもらう!とよいな、と思います


シャーとエリック

2007年06月14日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」


「1856年にペルシャとアフガニスタンの戦いがあり、そこで「政治的暗殺」をしてシャーのお気に入りになったとすると」



と昨日書いたのですが、原作にあるような「ペルシャの交戦国アフガニスタン首長に対する政治的暗殺」と言うのはどんな状況かちょっと想像ができません。


「交戦国」とあったので戦争中の暗殺かな?と考えて1833年か1856年の戦いと考えました。他の時期にはアフガニスタンとペルシャは別に戦争してないですから。
エリックの生きていた時期を考えると1856年なのではないかな・・・と。

当時のペルシャ皇帝のナーセル・アッディーン・シャーはロシアの後押しがあって帝位に着いたのです。恩人であるニコライ一世が死んだのが1855年なのでそのせいか、ロシアがクリミア戦争中でペルシャの東方問題にまで頭の回らないせいか、理由は分りませんが突然アフガニスタンに進軍。
アフガニスタンと戦い勝っちゃったりします。すぐさまインドを支配していた英国が逆襲するのですが・・・。
そして一段と植民地化が進んでしまうのでした。


しかし、しょっちゅう暗殺や拷問に明け暮れ、民衆は搾取されていて何かの拍子に反乱でも起こるんじゃないのかなぁ~、と思うのですが・・・。


でも、大丈夫なのさ!!大規模な民衆の蜂起の際はロシア軍と英国軍が来てくれる約束なんだって!何としてもナーセル・アッディーン・シャーに傀儡っててほしいんだねっ。ペルシャは露英のおいしい半植民地かつ、緩衝地帯なのですから大事なんだよねっ。(憤)
誰も民衆や国としてのペルシャを考えてないのが悲しいです。考えていた人を暗殺しちゃってるしね。(憤)



エリックの時代、つまりカージャール朝は酷い時代なので、「300」を見てペルシャも強い時代があったんだなぁ、と感慨深いものがあります。





こんなふうに調べるのも二次創作のためなんですが、肝心要が書き終わらないという
戦争場面とかペルシャでの処刑の場面は書けたのに、まだまだ穴だらけなのです。ふぅ・・・。
調べる事も多すぎるし。

ま、ここは一応イラストサイトなのでいいかな、と。











ペルシャ三人組

2007年06月13日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
とは実名で

シャー      ナーセル・アッディーン・シャー

王女だったら  タージ・アッサルタネ
若い寵姫なら  ジャイラーン姫、またはアニース・アッドゥレ
皇后なら     マレク・シャハーン・マハド・オリヤー

          エリック



の三人のこと。

つまり拷問部屋の仲間です。
エリックがパンジャブの紐を教えた女性は上の四人あたりだと思います。なぜ四人だかと言うと訳によって「サルタンの娘」「皇后」「寵姫」となっているので特定できないのです。

管理人は角川を中心に読んでしまったので「寵姫」のイメージが強いです。ま、誰でもいいとは思いますが。
(管理人一時期「エリックとジャイラーン姫」カップリングと言うのにまってました)





エリックは血も涙もない正真正銘の化け物だが・・・私は、残念ながらペルシャで本領を発揮しているところを目撃してしまったので、そう考えざるを得ない。

ある一面では、生意気でうぬぼれの強い子供のようなところもあり、周りの人々をあっと言わせておいて、自分がいかに創意工夫に富んだ頭脳の持ち主か証明して見せるのが大好きだったのだ。







結構楽しそうですね。多分前後を考えると奇術の種明かしをしているのだと思いますが、得意そうな若いエリックを想像すると微笑ましいです。
ロシア・ペルシャ時代と言うのは華やかだったのかもしれないですね。





1856年にペルシャとアフガニスタンの戦いがあり、そこで「政治的暗殺」をしてシャーのお気に入りになったとすると
1859年にジャイラーン姫は死んでいるのでなかなかいいキャラなのですね。






「ペルシャ王宮物語」 タージ・アッサルタネ著 (シャーの娘) 平凡社




そういえば「300」の最後に


「神秘主義と専制政治の打倒!!」

のような言葉が出てくるのですが、やっぱりアメリカ映画だなっと思いました♪


あと「シャー・ハン・シャー」と何度も出てきて萌えてました。「シャー・ハン・シャー」とは「王の中の王」の意。←原作にも出てくるのです。






2007年06月12日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
「ああ、ダロガ、彼女の涙が私の額を伝うのがわかった!私の!私の額を!熱い涙・・・やさしい涙だった!彼女の涙は私の仮面に沁みとおった!私の目から流れる涙と混ざり合った!・・・私の口の中まで流れ込んだ・・・」p436





わぁ、「口の中まで」なんて・・・すごいかもだ。と言うのが第一印象。何もそういう表現でなくても「涙が注がれた」でも全然オッケー?


でもよく考えてみると「泉のほとりで死んでいた」などを考え合わせるとこんな結論が・・・。
つまりこれは聖書のヨハネの福音書などの言葉を前提と書かれているのですね。管理人仏教徒なのですぐには気づきませんでした。汗。



分かる人にはすぐ分かる、ひねりのない・・・しかし感動的なルルーの表現です。




「この水(現実の井戸水)を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネの福音書


このあたりの聖書の言葉を踏まえて「口に流れ込む」があるようです。



渇く


エリックの人生は常に愛に渇いていたとも言えると思います。それは激しいものだったのではないでしょうか?


(と言うのも拷問部屋でのラウルに対する仕打ちと言うのが非常に凝った内容で、エリックの人生を反映している感じもするからです。これはまたそのうち詳しく書いてみたいです)




その「渇き」に対しての「涙」、「泉」に表わされる「永遠の命」


9:いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。(詩篇)

「あなたの喜びの川で彼らに飲ませる」。(多分詩篇)


というような「永遠のいのち」に与るエリックのイメージかと。
気絶したクリスティーヌを初めて抱いたと言う思い出深い場所に眠るとともに、「永遠のいのち」の中に取り込まれている、と言う暗示でもあるのでしょう。





「クリスティーヌ、私を愛さなくてはいけない!」p40



と言う物語の最初のエリックの言葉も最終場面で解決されるのではないでしょうか?


この「強い命令口調」の言葉も最後には
「エリック、クリスティーヌを解放しなくてはいけない!」
と言う自身に対する強い命令に変容するのですが・・・。







別に怪しい宗教の人じゃないんですが・・・、分かりやすい喩えなのですが・・・自分のブログなのでいいかな、と。


正直言うとあんまりお利口さんなエリックは好きじゃなかったりします。


300 見てきましたッッッッ!!!

2007年06月09日 | 映画について
うぉぉぉぉぉ!!!
かっこよかったぁぁぁ。ハァハァ。

映像もキビキビしていていたし、やっぱり戦闘シーンは興奮しますね。

レオニダス王も素敵。

いやっ、ペルシャの王様・・・・キモ・・。



色々語るとネタバレになるから書かないけど、やっぱり映画館で見るべき!!!



「久しぶりに『オペラ座の怪人』を見るぞっ!!!!」と言う王・・いや・・娘の一声で映画鑑賞会。


「ふわ毛カワユス!!!!」←支配人萌えの娘




「お母さん、クリスティーヌが歌うよっ!!」



ありがとう。わかってるなぁぁぁぁぁぁ、娘は。
あ、ファントムも好き。



「THINK OF ME」とか礼拝堂の場面の歌は心が揺すぶられますね。


ってか「MUSIC OF THE NIGHT」・・・ふふふ、良すぎっっっ!!!!








エポック紙

2007年06月08日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」

最後にエリックは<ペルシャ人>に、約束の品物と手記を受け取り次第、若い二人にエリックの死を知らせてほしいと頼んだ。
そのために<ペルシャ人>は<エポック>紙に掲載料を払って、死亡通知欄に一行載せてもらうことになっていた。 p439



このエポック紙というのが実在の新聞なのかちょっと分りません。色々調べたのですが見当たりませんでした。


ところが偶然・・・と言うかルールタビーユ・シリーズをご存知の方はお気付きになられていたかもしれませんが、これってジョゼフ・ルールタビーユの勤めていた新聞社なのですね。



「ツァーに招かれたルールタビーユ」(1913)ガストン・ルルー著の人物紹介に

ジョゼフ・ルールタビーユ・・・本編の主人公、エポック紙の記者


とあるのです。
ルールタビーユ・シリーズ全編通してこの新聞社なのかは分りません。




「ツァー」とはロシア皇帝の事です。
この小説だとアレキサンドル2世の時代にルールタビーユがロシアを訪ねる物語のようです。

エリックが旅したのは

ニコライ1世    (在位1825年~1855年)か
アレクサンドル2世(在位1855年~1881年)

のどちらかだと思います。


ちなみにルルー自身《ル・マタン紙》の特派員として、ヨーロッパ・中東においての報道活動にも寄与し、この分野でも高い評価を得ています。


原作中 ハヤカワp468
にルルーではないがル・マタン紙の特派員がエリックのトルコでの活躍を知った(?)らしい描写もあり。???


・・・ペルシャとロシアはダロガから聞いた、と言う設定ですが、トルコ時代はル・マタン特派員視点なのだろうか?


普通の家を建てた時代と言うのも、エリックがダロガに教えて、ルルーに伝わったのだろうか?


・・・ま、いっか。




「サロニカ」とは「テッサロニカ」の事で、現在ギリシャで当時トルコの街らしいです。





木の葉のように

2007年06月07日 | ルルー原作「オペラ座の怪人」
木の葉のように震えること、戦慄くこと





ヨーロッパ諸国語に「やまならしの葉のように震える」という慣用句があります。

やまならしはキリストを裏切ったユダが首を吊った木とされ、以来この呪われた木は風もないのに木の葉がおののき、震えるとされ、この慣用句の起源となりました。


原作でも「やまならし」という言葉こそ使っていませんが、エリックの震える様子を「木の葉のように震えた」と表現しています。


物語の終盤。
オペラ座はもちろん、パリの市民、ダロガ、ラウルまでも殺す、という脅迫にクリスティーヌはエリックとの結婚を誓います。その交換条件としてダロガとラウルを解放してくれるようにエリックに頼みます。エリックはダロガをアパルトマンまで送り、ラウルも部屋から運び出してくれます。ですが、エリックはラウルをシャニュイ邸には送り届けなかったのです。




あの男はね、すぐに地上へ送り届けるわけには行かなかった・・・あいつは人質だからねえ・・・しかし、クリスティーヌがいるから、わたしはいつまでもあいつを湖の家に置いておくわけにはいかなかった。

そこで、私は彼をとても快適な場所に閉じ込め、しっかりと鎖で縛った。

そこは、オペラ座地下のはずれの一番寂しいところ、地下五階よりさらにしたの、コミューン時代の地下貯蔵庫だった。




わたしはこれで一安心と思って、クリスティーヌのそばにもどった。





彼女は私を待っていてくれた。




そこまで話すと、<怪人>は立ち上がった。その態度があまりあらたまっていたので、つられてペルシャ人も立ち上がった。




「そう!彼女は待っていた」とエリックは言葉を続け、木の葉のように震え始めた。本当に感極まって震え始めたのだ。


「彼女は背筋をピンと伸ばして私を待っていた。彼女が自分の魂の救いにかけて誓ったとおり、ちゃんと生きている、生きている本物のフィアンセのように待っていた。・・・・」

p435



エリックに対して植物を例えにした唐突さと、とても有名な慣用句という事からしてもルルーが意識してこの慣用句を用いたと考えるのも解釈のひとつかと思います。



エリックが罪のない人間を殺した罪人なのは明らかです。
何と言ってもクリスティーヌが永遠の魂の救いにかけて結婚を誓い、見返りに救うと約束したにも関わらず、実はエリックはラウルを部屋から連れ出し、地下五階よりもさらに下のコミューン時代の貯蔵庫に「鎖で縛って」監禁したのです。憎しみのあまりに。あるいは実験のように。





エリックはクリスティーヌすら騙そうとしていた。





クリスティーヌは誓いを守り覚悟を決めて約束どおり「生きている本物のフィアンセ」のように待っていた。
無邪気にエリックを信じていた。





その姿にエリックが冒しがたいものを感じて震えだす。


彼自身「悪事を犯したことなどない」と明言するほどにどんな人間に対しても「罪悪感」を微塵も持った事がなかった。顔色一つ変えずに殺人を行える心だったのに。



その踏みにじれないものを心で感じた時、死んでいた魂が鼓動を始めたのだと・・・。









駄文

エリックにとっては後ろめたさもあってクリスティーヌの態度はもの凄く意外だった。自殺しないと約束はしても「出迎える」というのは心底意外で、また生まれて初めてのことだったのではないだろうか?

しかもエリックにキスもさせてくれた。誰一人として許してくれなかったことなのに。


この時エリックの目線がクリスティーヌの様子を追うのが痛ましい。



クリスティーヌが普通にしているのを確認してから彼は自分に許す。初めて人間らしい、生きた世界に、彼を疎外し続けた世界に自分が取り込まれたと認識することを。


そのエリックの感極まった様子にクリスティーヌがつられて泣き出す。ほんのささいな事があれだけの事をした男を突き動かした。それほど孤独だったことに同情して・・・。






彼女は何度もエリックがこっそり見つめていた時のように「可哀相で不幸なエリック」と泣いてくれる。
(おそらくエリックは時折クリスティーヌが彼のために泣いていたことに気づいていたのではないだろうか?)

でも彼の望んだのは、血で書かれた「勝利のドン・ファン」の楽譜が洗い流せるほどの涙だった。
追いかけるのはそれをラウルが奪おうとし、クリスティーヌが指輪をラウルとのキスの時落とした事に象徴されるように、エリックに仕える敬虔な修道女ではなくなったからだ。
自分が孤独と憎しみのあまり狂わないために。つまりは自分のために。
顔を見た女が去る、という悲劇の再現は絶対に許せなかった。エリックが死ぬか、クリスティーヌが死ぬか、自分に永遠に監禁されるかどれか一つなのではないだろうか?


金の指輪は従順の誓い。「キリストの花嫁」たる修道女が誓いの指輪を嵌めるように。指輪をしている限り守られるだろう・・・・エリックからも。p240



「自前の鼻がありながらオペラ座の地下に来る者に呪いあれ」とまで自分をさらけ出し、狂態を晒したのに・・・ある意味「本当のありのままのエリック」の醜さを知っているのに、涙を注いでくれる。
渇いた大地を潤すような温かい涙を爛れた皮膚に感じる事が出来る。







弱さも醜さもすべて包み込むような涙と優しい心は、一種の天啓のようなものをエリックにもたらしたのではないか?




エリックが神を愛していなくても、神は彼をつかまえる。直接的に救ってくださいと祈っている感じはしないから、思ってもみなかった出来事が行われてクリスティーヌの中に突然神を感じたのだと思う。




この時エリックにとってクリスティーヌは聖なる存在になったのではないだろうか?その行為において。奇跡をもたらした者として。


ずっとひそかに望んでいた事が成し遂げられる。
一緒に泣いてくれること。本当はエリックの母のなすべきことだった。具体的に涙を見せなくても、同じ地表に立つことは出来たはず。
クリスティーヌには出来た。
だから時に彼の暗黒に引きこまれる事に激しく怯え、時にエリックの代弁者のように彼の心を解き明かす。

クリスティーヌは守ってくれる父を求め、エリックは一緒に泣いてくれる・・・自分の十字架の重さを感じてくれる者を求めた。




ラウルに対する拷問せずにはいられないほどの憎しみ。つまり同じ地獄・・・狂気への道程を完膚なきまでに味わわせる事、「自分は何も悪くはないのだ」という結論を導くためにかつて自分が見世物小屋でされたように鎖で繋ぐのではないだろうか?



これは一種の自己憐憫かもしれない。
でもそこに彼の自分の在りようへの苦悩を感じる。仮に自分に満足していたらそこまでしたろうか?
拷問部屋で展開される極彩色の地獄絵図はエリックの心象風景かもしれない。
そして拷問はエリック本人が言うように「誰にもとめられない」。
潜在的には地獄に堕ちた魂の火刑のような苦しみから逃れたいと思っているのだと思う。



(「クリスティーヌ、私を愛さなくてはならない!」と冒頭に叫ぶのは苦しいからだし、「慈愛」がその鍵だと頭で理解しているからなのではないだろうか?)




その炎も涙で浄化される。滴り落ちる涙で・・・。




思い残す事がないほど彼の望みは成就された。
自殺せず生きてきたのはこのためだったのではないか、胸のうちに妄執という怪物を抱いたままで死ぬに死ねなかった。死ぬに死ねずに彷徨っている魂は肉体を持ってはいても亡霊に違いない。


妄執は形を変えてエリックの人生を強力に支配し続ける。ペルシャでの流血の日々。オペラ座への支配欲。


それでもクリスティーヌを自分の呪わしい過去の亡霊の犠牲には出来なかった。自分以上に彼女を愛している心に気づいたのだから・・・。自分が変わらねばならなかった。

従順な妻がいなくても、人並みに暮らせなくても、二重箱の中で死ななくてはならなくても二人の幸せを願わなくてはならなかった。
クリスティーヌによって幸福をはじめて感じる事ができたのだから。


その彼の存在そのもののような巨大な憎しみをクリスティーヌのために自分から切り離し、二人を解放する時心臓は八つ裂きになり、鮮血が噴き出した。


自分で自分を生み出した。あるいは二人で生み出した。

本当の意味で愛を胸に宿す者となった。もう彷徨ってはいない。

そのために弱り身体は死んでいくとしても彼は自分で自分を少しは赦せるようになったのではないだろうか?

木の葉のように震えるのは自分の罪と醜さに潜在的に気づいているからではないだろうか?
一番、苦しいのは女性を得られなかったことではなく、他人を愛せないこと。そしてそんな自分も。


普通のアパートに住み、従順な妻を得、週末には散歩する。それが彼の望みではない。それは方法に過ぎない。
本当はわが身を焼き尽くす、荒ぶる妄執を鎮めたいのだと思う。