「ああ、ダロガ、彼女の涙が私の額を伝うのがわかった!私の!私の額を!熱い涙・・・やさしい涙だった!彼女の涙は私の仮面に沁みとおった!私の目から流れる涙と混ざり合った!・・・私の口の中まで流れ込んだ・・・」p436
わぁ、「口の中まで」なんて・・・すごいかもだ。と言うのが第一印象。何もそういう表現でなくても「涙が注がれた」でも全然オッケー?
でもよく考えてみると「泉のほとりで死んでいた」などを考え合わせるとこんな結論が・・・。
つまりこれは聖書のヨハネの福音書などの言葉を前提と書かれているのですね。管理人仏教徒なのですぐには気づきませんでした。汗。
分かる人にはすぐ分かる、ひねりのない・・・しかし感動的なルルーの表現です。
「この水(現実の井戸水)を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネの福音書
このあたりの聖書の言葉を踏まえて「口に流れ込む」があるようです。
渇く
エリックの人生は常に愛に渇いていたとも言えると思います。それは激しいものだったのではないでしょうか?
(と言うのも拷問部屋でのラウルに対する仕打ちと言うのが非常に凝った内容で、エリックの人生を反映している感じもするからです。これはまたそのうち詳しく書いてみたいです)
その「渇き」に対しての「涙」、「泉」に表わされる「永遠の命」
9:いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。(詩篇)
「あなたの喜びの川で彼らに飲ませる」。(多分詩篇)
というような「永遠のいのち」に与るエリックのイメージかと。
気絶したクリスティーヌを初めて抱いたと言う思い出深い場所に眠るとともに、「永遠のいのち」の中に取り込まれている、と言う暗示でもあるのでしょう。
「クリスティーヌ、私を愛さなくてはいけない!」p40
と言う物語の最初のエリックの言葉も最終場面で解決されるのではないでしょうか?
この「強い命令口調」の言葉も最後には
「エリック、クリスティーヌを解放しなくてはいけない!」
と言う自身に対する強い命令に変容するのですが・・・。
別に怪しい宗教の人じゃないんですが・・・、分かりやすい喩えなのですが・・・自分のブログなのでいいかな、と。
正直言うとあんまりお利口さんなエリックは好きじゃなかったりします。
わぁ、「口の中まで」なんて・・・すごいかもだ。と言うのが第一印象。何もそういう表現でなくても「涙が注がれた」でも全然オッケー?
でもよく考えてみると「泉のほとりで死んでいた」などを考え合わせるとこんな結論が・・・。
つまりこれは聖書のヨハネの福音書などの言葉を前提と書かれているのですね。管理人仏教徒なのですぐには気づきませんでした。汗。
分かる人にはすぐ分かる、ひねりのない・・・しかし感動的なルルーの表現です。
「この水(現実の井戸水)を飲む者はだれでもまた渇く。
しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
ヨハネの福音書
このあたりの聖書の言葉を踏まえて「口に流れ込む」があるようです。
渇く
エリックの人生は常に愛に渇いていたとも言えると思います。それは激しいものだったのではないでしょうか?
(と言うのも拷問部屋でのラウルに対する仕打ちと言うのが非常に凝った内容で、エリックの人生を反映している感じもするからです。これはまたそのうち詳しく書いてみたいです)
その「渇き」に対しての「涙」、「泉」に表わされる「永遠の命」
9:いのちの泉はあなたのもとにあり、
われらはあなたの光によって光を見る。(詩篇)
「あなたの喜びの川で彼らに飲ませる」。(多分詩篇)
というような「永遠のいのち」に与るエリックのイメージかと。
気絶したクリスティーヌを初めて抱いたと言う思い出深い場所に眠るとともに、「永遠のいのち」の中に取り込まれている、と言う暗示でもあるのでしょう。
「クリスティーヌ、私を愛さなくてはいけない!」p40
と言う物語の最初のエリックの言葉も最終場面で解決されるのではないでしょうか?
この「強い命令口調」の言葉も最後には
「エリック、クリスティーヌを解放しなくてはいけない!」
と言う自身に対する強い命令に変容するのですが・・・。
別に怪しい宗教の人じゃないんですが・・・、分かりやすい喩えなのですが・・・自分のブログなのでいいかな、と。
正直言うとあんまりお利口さんなエリックは好きじゃなかったりします。