ほりえこぐ たななしこぶね こぎかへり おなじひとにや こひわたりなむ
堀江こぐ 棚なし小舟 漕ぎかへり 同じ人にや 恋ひわたるらむ
よみ人知らず
堀江を漕ぐ棚なし小舟が行ったり来たりするように、私も同じ人をいつまでも恋しく思い続けるのだろうか。
「堀江」は運河、「棚なし小舟」は舟べりに板のない小さな舟のこと。さまざまなことはありながら同じ人を恋しく思続ける自身を、運河を幾度も往来する小舟に喩えています。
ほりえこぐ たななしこぶね こぎかへり おなじひとにや こひわたりなむ
堀江こぐ 棚なし小舟 漕ぎかへり 同じ人にや 恋ひわたるらむ
よみ人知らず
堀江を漕ぐ棚なし小舟が行ったり来たりするように、私も同じ人をいつまでも恋しく思い続けるのだろうか。
「堀江」は運河、「棚なし小舟」は舟べりに板のない小さな舟のこと。さまざまなことはありながら同じ人を恋しく思続ける自身を、運河を幾度も往来する小舟に喩えています。
かげろふの それかあらぬか はるさめの ふるひとなれば そでぞぬれぬる
陽炎の それかあらぬか 春雨の ふるひとなれば 袖ぞぬれぬる
よみ人知らず
ほとんど逢うことのできない陽炎のようなあなたの姿を、待ち焦がれている忘れられた私は、春雨の降る日のように袖が濡れています。
「陽炎」は存在がはっきりしないものの喩えで、「ふるひと」は「降る日と」と「古人」の掛詞。春雨のように袖を濡らしているのは、もちろん作者の涙です。恋の涙を春雨に袖が濡れると詠んだ歌は 0577 にもありました。どちらも悲しい歌ですね。
ねになきて ひちにしかども はるさめに ぬれにしそでと とはばこたへむ
音に泣きて ひちにしかども 春雨に 濡れにし袖と 問はばこたへむ
大江千里
さて今日は10月30日。2019年の10月31日に始めた一日一首の古今和歌集の連載がちょうど丸2年になりました。昨年がうるう年でしたので、2年間で 366+365=731 回。今日の記事が「古今和歌集 0731」ということで、数も合ってますね(当たり前ですが ^^;;)。
何度も同じことを書いていて恐縮ですが、こんなつたない記事を毎日読んでくださる皆さんには、感謝の気持ちしかありません。ありがとうございます。全巻の読み切りまであと1年と少し。何事もなく走り切れることを祈りつつ、続けていきたいと思います。お時間のあるときには、どうぞ引き続きお付き合いください。
めづらしき ひとをみむとや しかもせぬ わがしたひもの とけわたるらむ
めづらしき 人を見むとや しかもせぬ わが下紐の 解けわたるらむ
よみ人知らず
長い間逢えなかった人に逢えるということで、ほどこうともしていないのに下紐が幾度もほどけるのだろうか。
第三句の「しか」は「そのように」の意の副詞で、ここでは下紐がほどけることを指します。「下紐」は腰から下に着用する衣服の紐。0507 でも触れましたが、下紐がほどけることは、いとしい人に逢えることの前兆と信じられていました。
くもりびの かげとしなれる われなれば めにこそみえね みをばはなれず
くもり日の 影としなれる われなれば 目にこそ見えね 身をば離れず
下野雄宗
いわば曇り日の影法師のように、ほのかにあなたに寄り添う影となった私ですから、目には見えませんが、あなたのそばを決して離れません。
寄り添っていたい思いを、相手の影になると喩える歌は 0528、0619 にもありましたが、「くもり日の影」と表現しているところが本歌の白眉。そこにあることが目にくっきりとは見えないけれど確実に存在している、というところでしょうか。
作者の下野雄宗(しもつけ の をむね)がどういう人物かは、わかっていません。古今集入集はこの一首のみで、勅撰集全体を見ても他に採録歌はありません。