ふぢころも をりけるいとは みづなれや ぬれはまされど かわくまもなし
藤衣 織りける糸は 水なれや 濡れはまされど かわくまもなし
喪服を織った糸が水であったとでもいうのであろうか。ますます濡れて乾く間もない。
「藤衣」は藤の皮で織った衣の意ですが、古来喪服として使用されたことから、古語では喪服一般を意味します。第二句「をりける」は本来「おりける」と表記される語ですが、原文が「をりける」となっているようです。
この歌は、新拾遺和歌集(巻第十「哀傷」 第847番)に入集しています。
題知らず
たちかへり かなしくもあるかな わかれては しるもしらぬも けぶりなりけり
たちかへり 悲しくもあるかな 別れては 知るも知らぬも 煙なりけり
題知らず
振り返っては悲しい気持ちになることよ。死に別れてしまうと、知っている人も知らない人も、みな、煙になってしまうのだ。
第知らず、つまり詞書のない歌が二首続きます。
第五句「けぶり」は、ここでは火葬の煙で、それゆえ、第三句の「わかれ」が死による別れであることがわかります。第三句・第四句「わかれては しるもしらぬも」のフレーズが印象的。百人一首(第10番)の蝉丸の歌が思い浮かびますね。
これやこの ゆくもかへるも わかれては しるもしらぬも あふさかのせき
これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関
蝉丸歌は後撰和歌集(巻第十五「雑一」 第1089番)、貫之歌は新後拾遺和歌集(巻第十六「雑上」 第1440番)採録で、勅撰集に採られた時期は蝉丸歌の方がかなり先ですが、蝉丸は不詳ながら10世紀頃の人物とされますので、詠まれたのは同時代ですね。「本歌取り」と言って良いのかわかりませんが、どちらかがどちらかの表現を取り入れて詠んだものなのでしょう。
兼輔の中将の妻亡せける年の十二月のつごもりに、いたりて、物語りするついでに、むかしを恋ひしのびたまふによめる
こふるまに としのくれなば なきひとの わかれやいとど とほくなりなむ
恋ふるまに 年の暮れなば なき人の 別れやいとど 遠くなりなむ
兼輔の中将の妻が亡くなった年の12月末日に、兼輔のところに行って語り合いながら昔を恋しく思いだして詠んだ歌
亡くなった奥方を恋しく思いながら年が暮れたならば、故人と過ごした日々が一層遠いことのようにお感じになることでしょう。
妻を亡くした兼輔の心中を思いやっての詠歌ですね。この歌は、後撰和歌集(巻第二十「慶賀哀傷」 第1425番)、拾遺和歌集(巻第二十「哀傷」 第1309番)に入集していますが、後撰和歌集では兼輔の歌への返歌として採録されています。
なきひとの ともにしかへる としならば くれゆくけふは うれしからまし
亡き人の ともにし帰る 年ならば 暮れゆく今日は うれしからまし
もし今年が、亡くなった妻と一緒に帰ることができる年であるならば、一年が暮れてゆく今日という日は、どんなに嬉しいことだろうか。
最後の「まし」は反実仮想。ともに過ごせたらどんなにか嬉しいことかと想像することで、一層の喪失感を表現しています。とても切ないですね。
泉の大将亡せたまひてのちに、隣なる人の家に人々いたりあひて、とかく物語りなどするついでに、かの殿の桜の面白く咲けるを、これかれあはれがりて歌よむついでに
きみまさで むかしはつゆか ふるさとの はなみるからに そでのぬるらむ
君まさで むかしは露か 古里の 花見るからに 袖のぬるらむ
泉の大将が亡くなって、その隣の家に人々が集まってあれこれと語り合うついでに、大将の家の庭に桜が美しく咲いているのを、皆があわれに感じて歌を詠むついでに詠んだ歌
あなたさまがおいでにならなくなって、昔のことが露と消えてしまったからか、昔馴染みのこの場所で桜を見ると、花に露が置くように、袖が涙で濡れてくることです。
「泉の大将」は藤原定国(ふじわら の さだくに)のこと。貫之集はこの定国の四十賀に寄せた屏風歌二首(001、002)から始まりました。
この歌は、続古今和歌集(巻第十六「哀傷」 第1398番)に入集しており、そちらでは初句が「おもいいづる」、第四句が「はなみるごとに」とされています。