漢検一級 かけだしリピーターの四方山話

漢検のリピート受検はお休みしていますが、日本語を愛し、奥深い言葉の世界をさまよっています。

貫之集 552

2024-10-19 06:09:50 | 貫之集

やまかけに つくるやまだの こがくれて ほにいでぬこひぞ わびしかりける

山蔭に つくる山田の 木がくれて ほに出でぬ恋ぞ わびしかりける

 

山蔭に作る山田が木の陰に隠れてなかなか穂が出ないように、表にだすことのできない私の恋のなんとわびしいことよ。

 

 この歌と非常に良く似た凡河内躬恒の歌が、新勅撰和歌集(巻十一「恋一」 第648番)に採録されています。両歌には、おそらくは何らかの直接的な関係があるのでしょう。

 

やまかげに つくるやまだの みがくれて ほにいでぬこひに みをやつくさむ

山蔭に つくる山田の 身がくれて ほに出でぬ恋に 身をやつくさむ


貫之集 551

2024-10-18 05:36:54 | 貫之集

なげきこる やまぢはひとも しらなくに わがこころのみ つねにゆくらむ

なげきこる 山路は人も 知らなくに わが心のみ つねに行くらむ

 

「嘆き」という「木」を切るための山路は誰も知らないのに、どうして私の心だけはいつも「嘆き」を有してしまうのだろうか。

 

 この歌は拾遺和歌集(巻第十五「恋五」 第970番)に入集していますが、そちらでは作者は藤原有時(ふじわら の ありとき)とされています。この藤原有時という人、ネット検索してもヒットせず、どのような人物なのかはわかりませんでした。


貫之集 550

2024-10-17 05:04:48 | 貫之集

しらたまと みえしなみだも としふれば からくれなゐに なりぬべらなり

白玉と 見えし涙も 年ふれば 唐紅に なりぬべらなり

 

白玉のように見えた涙も、年月を経て恋の悲しみを重ねると、唐紅の血の涙となってしまいそうだ。

 

 藤原行成(ふじわら の ゆきなり)筆と伝えられる古筆切には、「年ごろ、文つかはす人の、つれなくのみあるに」との詞書が付されているそうです。
 この歌は、古今和歌集(巻第八「恋歌二」 第599番)に入集しており、そちらでは第五句が「うつろひにけり」とされています。

 


貫之集 549

2024-10-16 06:07:40 | 貫之集

ゆくすゑは つひにすぎつつ あふことの としつきなきぞ わびしかりける

行く末は つひにすぎつつ あふことの 年月なきぞ わびしかりける

 

将来逢おうと言ったのに逢うこともなく年月が過ぎてしまい、またこれからも過ぎていくのであろう。それがわびしい。

 

 この歌は拾遺和歌集(巻第十一「恋一」 第683番)に入集しています。


貫之集 548

2024-10-15 06:14:22 | 貫之集

なみだがは おつるみなかみ はやければ せきぞかねつる そでのしがらみ

涙川 落つる水上 はやければ せきぞかねつる 袖のしがらみ

 

水の流れが速いとしがらみで堰き止めることができないように、私の涙の川が流れ落ちるのが速いので、袖のしがらみでは止められない。

 

 「涙で袖を濡らす」は古典和歌の頻出表現ですが、袖を濡らすだけではとどまらない深い悲しみを比喩的に詠んだ歌ですね。
 この歌は、拾遺和歌集(巻第十四「恋四」 第876番)に入集しています。貫之集第五「恋」は、勅撰集に入集している歌がとても多いですね。