もう、そろそろ自分の死に場所や状態のことを考えなければならない歳になってきた。その前に、他人の介護を受ける状態になったときのことも考えなければならない。といっても、今の状態では、深刻に考えようとは思っていないので、誰かが、そんな話題を出したときに乗る程度である。
係わりあいや、しがらみを捨てて、風テンの旅に出るということは、当然、死に場所や介護を受ける状態をどうでもいいと思えるから出来るのでしょう。旅の地で、パスポートの内容しか分からない人達の厄介になるのです。持ち金を使っていいから、適当に処理してくれ、などと、書いたものを持ち歩いているのでしょうか、身内があれば、今、全く関わっていないその身内の電話番号でも、持ち歩いているのでしょうか。やはり、考え方ですね。
私は、誰かの為になることを目的の一つといて海外に来ているが、風テン生活が自分本位で誰の為にもなっていない、かと云うと、そうではない。旅先では多くの人々と関りあいを持っているはずです。彼が使うお金は、受け取った人の為になっています。代償をお金で受け取ってその人の生活の一助になっているのです。生きている間は、振り込まれてくるお金を行く先々で使って貢献し続けることが出来るのです。こういうことなら、私が保証人になって留学生に資金援助を居ているのと、形は、違うが、同じギブアンドテークで、同じような事をしているのかもしれない。他人に迷惑を掛けていないし、自己満足に浸れます。
大きな違いは身内との付き合いをほとんど持たないこと、日本での過去の人や事柄は、本当に過去のことで、今に、引きずっていない。将来も係わる可能性は殆ど無いと考える。もう一つは、現在係わっている人達は将来に継続することはない。また、邪魔者にされる可能性は全くないほど、表面的なものであり、行動を束縛されることはないし、神経を使うことはない。
外国にいても、児玉清や長門裕之が亡くなったということは伝わってくる。日本に居る時より、そういう話は気になる。だからというわけではないが、自由に好きなことだけをして居たいがそれはできない。できる間は、できることだけしかできないが、損得関係にも係わる世界で過ごすことになる。
ある人は、インドネシアへ住みついてしまうなら、傍に居てくれることを条件にして養子にして、一緒に暮らしたい。自分に万が一のことがあれば、その人が、インドネシアの財産を受け取ることにしておきたい。死んでしまえば、結果がどうなったかは確認できないが。と云う事でしたが、皆さんからの賛同は得られなかった。
私は、どこかに定住でなくても、一人で風テンをするなら、その土地で付き添い看護用に四人女性を雇い、四組三交代のようにいつでも一人自分の傍にいてもらえるようにしたらいい。と云ったら、かの風テンの人は、十年先に考えようかな、でした。
そんなことはあり得ないと思うが、もし、天涯孤独になってしまうなら、私はそうする。日本では人件費が高すぎて出来ないが、インドネシアの田舎ならできる。
インドネシアで初めて会った山ユリの花、野に咲く花は実にいい
物思い しがわみ いつか