アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

944回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑩

2023-01-13 08:44:59 | 日記

終章 終わりに

  • 分かったこと、分からなかったこと。光格天皇 自身を後にし天下万民を先としの通販/藤田 覚 ...主たる参考書籍

分かったこと

分からなかったこと(今後の課題)

・光格天皇は早い時期から御親裁を行っていた。

・3事件を通じて、徐々に光格天皇の自立の経緯が分かった。

・前期の光格天皇の政治的成長には、鷹司輔平と松平定信が重要な役割を担ったこと。

・特に、定信の歴史的な見解については、研究が進み定説に変化があること。

・天皇の自立に従って、輔平とは決別した。同様に、家斉の成長と共に定信も老中を辞任した。

・後桜町上皇は、終始一貫光格天皇の和歌など文化活動と政治的自立の助言者であった。

・実父閑院宮典仁親王と実母大江磐代は、具体的発言は残っていないが、非常に温和な思いやり深い人物であった。

・朝廷・皇室は、儀式・儀礼を通じて、一般庶民と今よりはるかに身近な存在であった。

・後桜町天皇については当研究所中心に一層研究がすすむこと。

・朝幕関係の基本形式と、光格天皇前後での運用の変化。

 

・光格天皇の強い皇統意識の源泉

・尊号一件の時の典仁親王の見解

・後桜町天皇の待遇と即位の経緯

・鷹司輔平の心情と変節の背景

・尊号一件と大御所問題との関係

 

       
       
       
       

約半年間にわたって、「光格天皇とその時代」を研究して来た。

ここまで、前期光格天皇のレポートを書いていて、筆者が最も関心を持ったのは、鷹司輔平と光格天皇・松平定信と徳川家斉という人間関係である。その理由は、両者の関係にはいくつか共通点がある。

まず、両者の地位は逆転していたかも知れないこと。鷹司輔平は、世襲親王家の閑院宮家の直系で典仁親王の実兄であり、当然ながら直系天皇の事情によっては皇位継承の可能性はあった。

一方、松平定信も御三卿のひとつ田安家を相続する可能性があったことは第4章で書いた。田沼意次の陰謀により将軍職への道は閉ざされたが、田安家を継いでいれば大いに可能性があったのである。

次に、年齢の関係である。千度参りの時点で、光格天皇17歳、鷹司輔平49歳。徳川家斉15歳、松平定信29歳であった。輔平はやや高齢であるが、天皇・将軍の方は、自立しつつも二人の援助が必要な時期であった。そして、輔平罷免の時、天皇は20歳、輔平は52歳。松平定信の老中辞任が、家斉21歳、定信35歳である。すでに、天皇も将軍も自立し自らの政治を行いたい年齢となっていたのである。これらの事実を冷静に考えると、輔平も定信も、自らが天皇なら、将軍ならこうするという強い思いがあったと考える。可能性のなかった地位ならば、そうは思わないが実現可能だった地位に対して、自らの理想があったと考えるのは当然であろう。しかも、就任初期は天皇・将軍からは信頼もされ、任されていたのである。特に、定信については「自分の思いで政治を行った。」という主旨の発言があった。ところが、天皇・将軍共に、二十歳を越えると、両者の考えに微妙に隙間が出て来たのではないだろうか。事実、光格天皇の輔平への御不満は、資料により藤田氏が解明している。輔平が、尊号一件について天皇の勅問を受けた時、息子とたった二人反対した(少なくとも賛成しなかった。)経緯はその様に考えれば納得が出来る。すでに光格天皇の子飼いの公家衆の時代になっていたのだろう。また、定信についても辞任時の周辺の冷たい態度については、すでに家斉が自らの意志で政治を行おうとする空気を、定信以外は感じていたのだと思う。

現代の企業経営者の後継問題でも、同様の話は多い。オーナー社長がめでたく子の若社長に引継ぎをする。新体制が軌道に乗るまで、親である前社長時代の役員たちが、重要な判断を行う。若社長もしばらくは頼りにもし、その判断をありがたく受け入れる。しかし、数年たち若社長にも自信が出てきて、中には自らが選んだ若手役員も出て来ると、古手の役員は煙たくなるのである。まして、光格天皇のように、前社長の息子ではなく、遠い親戚から社長を継いだ場合、軽んじられないように必死で自分の周辺を息のかかった役員で固めるのは当然である。

皇室と企業とを比較するのは、不遜であり無理があるが、案外人間というものは同じような心模様ではないだろうか。そのような思いで、今回の研究のひとまず締めくくりとしたい。

最後に、光格天皇の研究については、藤田覚氏を中心に想像以上に相当研究が進んでいて数多い著作物を読みこなすのに多くの時間を費やした。また、後桜町天皇については、本学名誉教授所先生・担当教授の若松正志先生が最新の研究者のおひとりであることが非常に心強かった。稚拙な研究レポートを真剣にご指導いただいた若松教授には特別感謝いたします。なお、研究中、NHKの特集番組で、当該研究に関するコメンテーターに若松教授が出演した。このような一流の学者先生と議論できるのは、至福の時であった。(拝)