③ 寛政度御所再建
大内裏
天明8年(1788年)御所千度参りの翌年に、京都中心地で大火事があった。後に天明の大火(団栗焼け)と呼ばれる火事で、御所は全焼する。その御所を、財政上の理由から小規模の再建で済まそうとする幕府に、平安時代の古式に則って大規模に再建したいという朝廷の意向が対立した。結果は、朝廷の主張通りになった件である。
ここから光格天皇の戦う相手として、老中松平定信が重要な人物として登場する。「寛政の改革」の推進者として緊縮政策を進める彼は、御所造営については、小規模で臨時的仮御所程度に留める意向であった。関白鷹司輔平との交渉を通じて以下の2点が明確になる。
それは、天皇がいよいよ自らの考えを積極的に発言し、親政の第一歩を歩みだしたという事と、天皇の朝議復興と権威回復の並々ならぬ強い思いだ。大火後早々に朝廷(天皇)は、4月1日に裏松光世に対して正式に諮問をしている。つまり光格天皇から「古儀」を用いる事への「勅問」が下され、「御尤」とされたのが4月3日であり、早い段階で平安朝の古儀を用いた新内裏採用は決まっていたのである。すぐに4月中には幕府に伝えている。朝幕間の見解の決定的対立の中、5月には、定信が上京し輔平と交渉の会談に至っている。この一連の素早い対応を見ていると光格天皇にとって御所再建の戦いは、朝議祭祀の再興や復興・朝廷権威強化の努力の一環である事がよく分かる。また、天皇の親裁については、関白鷹司輔平が老中松平定信に送った書状に、「天皇が早くから近臣を補佐にして諸事を親裁する。」という朝廷の状況を詳しく書き送っていることで分かる。
松平定信
ここで注目したいのは、御所建設の設計図を書いた裏松固禅である。実は、光格天皇登場の直前に、「宝暦事件」と「明和事件」という事件があった。いずれも竹内式部や山県大弐などの国学者が、朝廷の権威や地位の復権を目論んだ事件で、朝廷の権限の回復を目指そうとする若手公家衆が先導したものである。箇禅は本名裏松光世という公家で有職故実家だったが、その竹内式部などと交際があり、※「宝暦事件」に連座し処分を受け永蟄居を命ぜられ、出家させられた。しかし、その後30年の蟄居生活の間に『大内裏図考證』を書いた。まさに執念が実り、御所再建にあたりそれが採用されることとなった。彼はその功により、勅命により赦免される。つまり、これはこの頃、明確に幕府と朝廷の在り方について、ある種の変化が生じていて、天皇・朝廷に期待が高まっていたからである。一方、幕府は政権の権力維持・回復の為には、むしろ朝廷の権威を認めて大規模再建の要求をのむことを選択したのである。戦いは高次元のレベルで激しく行われていた。
光格天皇は、武器は持たないが思想的背景という武力を徐々に備えて行ったのだ。
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