アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

940回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ⑥

2023-01-09 10:24:16 | 日記

第5章 光格天皇を囲む人たち

光格天皇の周囲を囲む人たちを紹介する。松平定信以外は皇室に連なる御親族の方たちである。筆者はどの方もみんな人格・教養において別格の存在感があると思っている。特に、後桜町天皇は現在で最も最近の女帝であるが、献身的な指導・訓育を光格天皇に対して行っている。現代にいたる日本の皇室の最大の功労者と称えて良いと思う。

  • 閑院宮典仁親王

800px-Prince_Naohito_2.jpgの画像典仁親王

 光格天皇の実父である閑院宮典仁親王については、「典仁親王」若松正志 (『歴史読本』819号2007年)と、「閑院宮家の創設」若松正志(『日本の宮家と女性宮家』所功編 新人物往来社 2012年)から見て行く。親王は、享保18年(1733年)に、閑院宮初代直仁親王の第2王子として生まれた。異母兄弟は多いが、そのうち7歳下の異母弟淳宮は、五摂家の一つ鷹司家を相続した関白鷹司輔平であり、光格天皇の即位後、重要な役回りを演じる。

 また、典仁親王は、9歳で桜町天皇の猶子となり正式に親王宣下を受けている。実子の光格天皇が即位した後には、一品(※)に進んでいる。妃である中御門天皇皇女成子(ふさこ)内親王以外に多くの女房(大江磐代君もその一人)がいて、王子・王女を多く残した結果、門跡寺院の後継者の供給に貢献し、そして何より皇統への備えに応えた。そこから考えると、閑院宮2代目として、十分な役割を果たしたと言える。(若松氏)そして、寛政6年(1794年)62歳で亡くなり蘆山寺の御陵墓に眠っている。そして、明治になって「慶光天皇」と、追号が贈られた。

 一方、光格天皇の即位の経緯に於いて典仁親王の関与や、即位後の天皇への助言については和歌の指導以外にはその具体的なかかわりは不明であるとされている。さらに、尊号一件についても、当事者でありながら残念ながら本人の考えなども不明である。しかし、和歌については、自身有栖川宮職仁(よりひと)親王から学び、後桜町上皇からは御所伝授を授かり、光格天皇に和歌を教えた言われている。そして、近年の研究で、若松氏は「親王が光格天皇の和歌教育や、さらには宮廷歌壇の隆盛にいくらかの影響を与えたものと思う。」と述べている。筆者はそのことを通じて政治的なアドバイスもあったと考える。しかし、一方で様々な政治的事情から天皇への影響力が表面化しないように深く配慮したとも考える。

 若松氏の論文において、最後に、「親王の和歌や書道などの文化的活動(中略)すなわち、親王の宗教的・文化的な役割の解明は、これからの課題である。」と締めくくっている。

 

※品位とは天皇と皇太子を除く皇親の序列を示すものであり、一品親王は皇親の筆頭的な地位にあった。ただし、品位そのものは天皇との親疎は勿論のこと当該皇親の母親の出自や年齢、経歴、その他社会的評価に基づいて叙せられる場合が多く、一品親王と皇位継承との関連性は全く無い。立場的には、正一位・従一位と同等である。(フリー百科事典ウィキペディアより引用)

 

  • 鷹司輔平

鷹司輔平 - YouTube

系図を見ると、摂関家の鷹司家の後継として養子となるが、輔平は光格天皇の叔父にあたり皇位継承者でもおかしくない血統に位置する。くしくも「尊号一件」に奔走するが、関白である為、弟でありながら実兄の典仁親王よりも上位に位置することになっていたわけである。まことに皮肉な状況にあったのだが、「寛政度御所再建」までは光格天皇の意向を受けて誠心誠意交渉していた。しかし、尊号一件の途中から、天皇の勅問に対して婉曲ではあるが反対に転じたり、松平定信への書状で朝廷内部の情報を積極的に伝えるなど変心したように見受けられる。若い天皇の暴走を、関白として叔父として諫めるつもりだったのが、いつの間にか守旧派として反対勢力になってしまうのは、歴史上よく見受ける事であるが、輔平がどのような心の変遷を経たのかは今後の研究の課題としたい。

ただ、光格天皇の鷹司輔平についての御心持は、『光格天皇』(藤田覚 2018年)の「天皇の関白への不満」で、「関白においては一向一慮なきも、甚だ迷惑の事に存じ候」(『宸翰英華』から)と、深刻な関係性を紹介している。また、尊号一件についても、「所詮先例のみに拘泥候ては、一向何ごとも裁決つかまつり難く候あいだ、」という輔平への批判・不満とも取れる天皇の心情を紹介している。

 

 

  • 松平定信

 日本史から学べる教訓 vol.23 松平定信【リーダーが ...

定信は、御三卿のうち田安家宗武の七男として生まれ、8歳で早くも「輔位の賢相」(将軍を補佐する賢明な宰相)になりたいと心願していたという。兄の治察が田安家を相続した為、定信は17歳で陸奥白河藩主松平家の養子となった。ところが、その年に兄が死去した。まだ田安家に居住していた定信に、松平家から戻って田安家を相続することを幕府に要請したが認められなかった。後世、『宇下一言』で定信は、政敵田沼意次の横やりだったと指摘している。もしかしたら将軍に就くかも知れない田安家なので、定信の才能を見抜いていた意次の考えとも言われている。その為、定信は終生意次を憎しみ続けることになる。事実、御三卿の一橋家から家斉を将軍に迎えることになるので、定信が将軍になる可能性は十分にあった。

さて、尊号一件のところで、定信については徳富蘇峰氏から藤田覚氏への研究の変遷を見て来たが、さらに詳しく、『松平定信』(高澤憲治 吉川弘文館 2012年)で見ると、高澤氏ははしがきで、「おそらく、彼ほど死後にいたるまでの世間の評価を意識して、イメージ作りに努め、それが成功した人物は、いないのではないでしょうか。」と、断じている。「御所再建」についても、約81万両の造営費のうち約半分のみを負担したに過ぎず、残りは大名に転嫁したのである。それでも、天皇・上皇から功を賞されると、すぐに自家の家譜に記載させ、後には自伝である『宇下一言』に記し、「自らの栄誉を藩内に誇示している。」と指摘している。また、「尊号一件」の時も、事後、将軍が「首尾よく取り扱ったことは、越中守(定信)の功績であると伝えるよう。」に別の老中に申し渡しているが、これは、定信が、将軍に要請した結果であろうと、している。(同 122頁)このように『樂翁自伝』や『宇下一言』を主体とした先行研究にさらに踏み込んでいる。また、定信が老中就任以来頻繁に出した「辞任届」も、本心ではなくそれが慰留されることで将軍の信頼を確認したり、引き換えに人事を存分に行うなど、政治的に利用して来たと見抜いた。しかし、その後、彼の独裁的政治手法に反発が強まり、定信36歳の寛政5年、自分ではあわよくば大老昇進も予想していた定信に、老中と将軍補佐の解任の内意が伝えられた。憤慨した定信の求めに応じ少将への昇進などは認められたが、将軍補佐は解任される。その折、三奉行や目付たちに挨拶した時の弁明で、

  • 何度も辞任を願い出ていて慰留されてきた。
  • 将軍の御意向にもとづいて職責を果たしたにすぎない。
  • また機会があれば相応の御用を勤めたい。

などと語ったことも、「辞任の真相を隠蔽しているが、ここからは未練がましさがうかがえる。」とかなり厳しく論じている。

確かに、幼少の将軍を補佐していると、自らの考えをあたかも将軍の意向から発したこととして政治をすすめたこともあったと思う。しかし、将軍家斉もこの年20歳をむかえている。15歳で将軍に就任し、その直後から訓育を含めて接して来た定信からすれば、自ら政治判断欲求が芽生えて来た青年将軍との軋轢に悩んだに違いない。優秀な補佐役が身を引くタイミングは、極めて難しいと、現代の会社組織でもよく聞く話だ。光格天皇における鷹司輔平との関係も同様だと推察する。(筆者感想)

 

  • 後桜町女帝

 皇室史上、最後の女帝・後桜町天皇にまつわる聡明で慈悲深き ...

後桜町女帝については、所京子氏の研究から「譲位後の後桜町女帝に関する『実録』抄(上)」(『藝林』180頁~193頁平成29年)と、「後桜町天皇(女帝・上皇)の御生涯と御事績」(『藝林』63巻2号71頁~107頁平成26年)を参考に、その功績の一端を書く。

論文冒頭の「要旨」には、「歴史上、女帝は10代8人いらっしゃり、中継ぎ役を果たされた。しかし、在位中の大任を果たされた上に、その実体験を後継者に伝えておられた。その代表的具体例が後桜町天皇である。」として、「弟の桃園天皇の崩御に際し、幼い遺児の英仁親王の成長まで約8年間天皇として努められながら、英仁親王の養育にも努力された。成長した親王(後桃園天皇)に譲位されるが、その天皇も早世され、後桜町上皇40歳で、傍系からの光格天皇の訓育にも努力されることになる。人君としての御心得を『論語』を通じて示されるとともに和歌のご指導を通しても行われた。」と紹介した。

本文には、元文5年(1740年)に、桜町天皇の第2皇女として誕生した後の後桜町天皇(以茶宮いさのみや)の御幼少期の様子が詳しく書かれていて、内親王としての宮廷の生活の様子がよく分かる。また、緋宮(ひのみや)、智子(さとこ)と名前を変える後桜町天皇の、温和な人柄がエピソードを交え書かれている。

その中で、宝暦9年内親王17歳の時、皇族最高の一品が宣下されている。この事について、所氏は「当今の御姉」であるのみならず、それ以上の期待が込められていたからではないかと、重要な示唆をしている。その後、桃園天皇が崩御し、「遺詔」に従い速やかに、子の英仁親王(後の後桃園天皇)の成長までの中継ぎの天皇として23歳での践祚となった。この経緯について、所氏は、当時の内親王は、十代後半までに宮家や摂家に嫁ぐか、尼門跡寺院に入られるケースが多い中、独身のまま最高の一品を授けられ、新造の御殿に住まわれていたことを紹介し、この様な特別な待遇を受けられていたのは、万一を憂いて皇室に留め置かれたのであろうとしている。(第4節 践祚前後の御見識)しかも、寛延3年(1750年)には幕府から300石の進献をされている事から、朝廷が門跡寺院への入山を考えていなかったことを幕府も知っていたと、巻末補注で久保貴子氏の研究を紹介している。

この辺り、若松氏の2019年11月21日の講演で、筆者質問に対して氏は「後桜町天皇の即位式などの発言やその後の幼少天皇や傍系からの天皇への指導、ご自身の和歌など文化的素養から見ると、深く教育されていた。」との見解を示された。

そして、「第8節光格天皇の御後見」では、後桃園天皇も22歳で崩御された非常事態に、傍系の天皇に皇統を繋ぐに際し、「それを迅速に運び成功せしめられたのは、後桜町上皇の御人徳と指導力によるところが大きい。」と述べて絶賛している。後桜町上皇の幼少からの人格と知力・品格は別格なものであったのだろう。

 

  • 生母大江磐代

 

 光格天皇の実母は、延享元年(1744年)倉吉で誕生後、9歳の時、父に連れられ上京し、数奇な運命により明和3年23歳で閑院宮家に奉公する。幼名「つる」から、典仁親王の寵愛を受け28歳で祐宮(後の光格天皇)を産んだ時は「とめ」、その後「かく」「交野」そして「磐代」と改名を繰り返し、親王崩御後落飾し蓮上院となって69歳で亡くなり、親王の墓と同じ蘆山寺に眠る。 

その大江磐代については、『大江磐代君顕彰展図録』(倉吉博物館2012年)を参考に見て行く。

それには、いくつかの直筆の書状が掲載されているが、館長である根鈴輝雄氏が、「大江磐代君の書状について~手紙にしたためられた心情~」という文章を寄せている。それによると、閑院宮典仁親王の子を産んだことを、母には、「おそれ多御事」と書き、自分のような身分の低いものが皇族につながるお子を産んだことを受け止められない気持ちを表現している。わが子が皇統を継ぐことになった時も、身辺に起こった事柄は伝えず、「細々と話したいことがあるが、人目があるので差し控える。」と、言いたい気持ちはありながら口をつぐんでいる。「細々」とは、祐宮が践祚したことだけでなく、何人かの子の死亡の悲しみもあったとも思われる。しかし、伝えることは叶わないと諦観していた。また、「結構な暮らし」だが外出は叶わず「窮屈」だとも書いている。庶民の生活を知っている磐代君の本音であるが、「近くであればもっと援助が出来るのに」と書いていて、あくまでも慎ましく、若くして分かれた母への孝行心が伝わるものである。

 根鈴氏は、その篤い孝行心は、子の光格天皇に受け継がれたものと考えた。尊号一件もその孝行心から出たものであるとした。さらに、弟の聖護院法親王が、晩年母(磐代君)をしばしば訪れ見舞っていることや、そして、光格天皇自身も、母と呼び交わすことも出来なかった事を残念に思っていて「(せめて)死後は親孝行をさせて欲しい。」と遺言し、位牌は崩御後、妃の欣子内親王(新清和門院)によって、蘆山寺に安置されている事などを記している。それもまた、母磐代君の人柄によるものとした。

 大江磐代君は、地元倉吉市では、「国母様」と仰がれていたが、公式には天皇の生母でありながら、長く「隠晦」(※)に属することとされ、顕彰活動の形跡はなかった。明治11年に、かろうじて正四位を贈位されたが、他の生母に比べ一段低い位置に置かれていた、明治35年になって従一位を贈与されたのをきっかけに顕彰活動が本格化した。そして、明治44年百年忌には、地元倉吉市に、関係者の悲願であった「大江神社」が創建された。平成9年には、老朽化した大江神社は一旦解体され、同11年に再建されている。『大江磐代君顕彰展図録』

 

※隠れくらますこと。秘められてあること。(精選版 日本国語大辞典)

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