アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

938回 あちゃこの京都日誌  光格天皇研究 ④

2023-01-08 08:58:00 | 日記

第3章 の ② 尊号一件の経緯

☆定信と輔平の関係・尊号一件の決着

 寛政4年の尊号一件の真っただ中の10月にも定信は、輔平に対して京都の情勢について、「いかがの御模様にてあらせられ候事か、」と、訪ねる書状を送っていて、輔平は、

  •  天皇においては是非に行われたしと思っている訳でもない。 
  •  正親町前大納言と広橋前大納言の両名は雷同。
  •  帳本人は中山前大納言でことのほか強く勧めている。
  •  仙洞御所にも余り預かり聞かず。

という返書を送っている。ただし蘇峰は、「輔平の言い分は、江戸に配慮したもので、主上の思し召しは一番強く、このような仕儀になったのは、中山一人の責任ではない。」と述べている。

そして決着は、10月22日の所司代より定信への書状の中に、「追々禁裏へ仙洞より御幸これ有る御沙汰(中略)尊号の御事は、いよいよ御延引相成り申すべき御事のやうに、」と伝えている。また、別の京都からの書状には、「叡慮 仙洞の思し召しを以て仰せ出され候間、」『正親町公明紀』とあり後桜町上皇との会談が決め手であった事がうかがえる。

 

☆徳富蘇峰の見解

徳富蘇峰 戦時下の国民の心表現: 日本経済新聞蘇峰

 蘇峰の尊号一件の研究は、松平定信が執拗に拒否したのは、「幕府の都合上、反対したといわんよりも、むしろ反対すべき理由があった。」とか、「功利上の打算でなく、主義上信念の問題」として全力で対応したと言い、「将軍対一橋治済の問題(大御所問題)のみでなく、(中略)一個の確信をもって」対応したと賞賛している。一方で、蘇峰は定信が、この問題を処理するに当たり、「同僚の意見を尋酌して、評議一決」している上に、尾張水戸両家や、時には一橋治済にも根回ししていること、そして鷹司輔平との往復書簡も示していて、その事は、「恐らくは尊号問題の裏面には、江戸における大御所問題が、潜在するを感知した。」とも書いている。

 さらに、「定信と輔平とは、内縁もあり、面識もあり、かたがたこの事件についても、互いに諒解するところ」とし、輔平の辞職については、「尊号問題が、彼の進退に関係あるは、言うまでもない。」と言い、さらに、関白が一条輝良になって、「彼は尊号賛成者の統領」で、以前より交渉が「円滑を欠くべきは、必然の事と判断せねばならぬ。」と断定した。

 結果、尊号事件については、要は朝幕関係の問題で、万一朝廷が、「尊号宣下あらせられんか、定信の尊王心に富む、まさか承久の故事を想起すべきでなしとするも、遮二無二反対意見を徹底する為には、随分思いきりたる無理を強行せねばならぬことに、立ち至るべきであったろう。」と、幕府の許可を得ず、尊号宣下を強行すれば、皇室への尊敬心の極めて篤い定信であっても、承久の変で後鳥羽上皇を処分したような最悪の事態も致し方ないと、あくまでも定信の尊王心を強調したものであった。

 

☆藤田氏の研究

江戸幕府の情報組織と政治 | 横浜教室 | 朝日カルチャーセンター藤田覚

 一方、藤田氏は、『松平定信』(中公新書1993年)の冒頭「はしがき」に、自叙伝である『宇下一言』や伝記『樂翁公伝』(渋沢栄一)に頼らず惑わされず、なるたけ生の史料を使って見ていきたいと述べている。生の史料とは、定信が在職中に関わった政治案件に関する機密に属するような資料を書き留めたものである。

 経緯の概要は、蘇峰研究と同様だが、藤田氏は、寛政3年に関白鷹司輔平が罷免され、幕府に反発する一条輝良が後任となり、参議以上の公卿に光格天皇が諮問を行った時でも、定信は「1,2年(返事を)引き伸ばせば、朝廷も嫌気がさして、(中略)閑院宮家領の増加など待遇の改善を実行し」その後初めて明確に尊号一件は「無用と宣言」すれば良いと述べていることに注目し、相手側の反応を読んで先の先の対応を立てると言う政治的な手法を「なかなか深く鋭い」と、定信の尊王心よりもむしろ政治手腕に注目している。

 さらに、御所造営問題の時の、今後の朝廷側からの新規の要求は拒否するよう指示したのは、「不本意ながら譲歩した」定信が、尊号問題では、今後は絶対に譲歩しないという決意表明でもあったこととし、加えて、この前年、御所「神嘉殿」を朝廷自身が勝手に造営したことが、従来の朝廷(天皇の内慮)が幕府の内諾を得て後に、正式に要請し幕府が正式に朝廷に対して許可し実現するという手順を逸脱したことが影響していると言い、さらに、幕府が認めないと言っている尊号宣下を11月上旬という期限を区切って強行するという一連のルール違反を「重大視」したものだとした。その結果、定信は、朝廷に対し「断固とした姿勢と処置」を取る決断したと解釈した。この点、蘇峰が「尊王心」を強調した論調と大きく違った。

 また、『光格天皇』(同氏 ミネルブァ書房2018年)には、鷹司輔平との関係性について、寛政2年の円珍900回忌の折りに「関白に於いては一向一慮なきも、甚だ迷惑なことに存じ候。」『宸翰英華』と深刻な事態だと言い、尊号問題でも定信との交渉についての不満・批判を天皇の書状を引用して紹介している。

 さらに、寛政4年に再び尊号宣下の承認を要求する光格天皇の「御内慮書」には、大多数の公卿の賛成が背景にあったこともあり、「このうえ深き思召しも在らさせられ候あいだ」と幕府に迫った。また、尊号宣下後の閑院宮邸については「新御所」ではなく増築でも良いと譲歩を示すなど、光格天皇の交渉スタイルを御所造営の時と同様「強固」なものとした。

 また、『近世政治史と天皇』(同氏 吉川弘文館1999年 第3章朝幕関係の転換)で、幕府が尊号一件における公式回答を送る際の「大意書」において、天皇の地位を「天皇は人民の親であり、国家と国民の興廃に関する地位である。」としたことや、定信が将軍家斉へ示した「御心得の箇条」に「将軍は人民の生活する国土を天皇から預かり征夷大将軍として統治している」としたことなどを取り上げて、幕府が天皇こそが国土と国民の真の支配者だと解釈したことを重視した。さらには、尊号一件のことで公卿に処罰を与える時に「解官」(※)の手続きをせず処罰した時の、「天下の人は皆王臣、武家も公家も同様である。」という考え方が、天皇と大名の間の君臣関係を幕府自らが認めたとし、以降幕府は「最大限に朝廷を崇拝」する必要があり、一方で「幕府の威光・威信を維持せねばならないこと」となったという側面を強調している。

 このように、尊号一件を通じて朝幕関係の複雑で微妙な変化を、鋭く解明した。

※現職の官人が解任されることだが、高級公卿の場合処分を下す前に、朝廷による解官の手続きを経たうえで、平民として処分するのが慣例であった。

 なお、最終的には、中山愛親が「閉門」正親町公明は、「逼塞」という重い処分となった。しかし、その後、「中山大納言物」という史実とは違って、中山愛親が将軍の前で自説を述べて論破するという読み物が出回った。幕府と言う権力者の鼻を明かすという読者には痛快な読み物であるが、当時の朝廷への庶民感情が伝わる。

 

歴代天皇表にない慶光天皇とは?~尊号一件: 今日は何の日?徒然日記慶光天皇陵(蘆山寺内)上京区

明治になって 慶光天皇と、尊号が与えられた。

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