㊲ 平安京 37代 通算86代 後堀河天皇
在位 1221年~1232年
業績(事件) 皇室衰退の始まり
父 守貞親王
別称 別になし
死因 病死
御陵 観音寺陵
宝算 22歳
承久の変の事件処理の真っただ中の即位であった。当代の天皇始め3人の上皇が揃って「謀反」を起こしたのだから異常な事態であった。
ここでも天皇を空位には出来ない。後白河上皇の皇子である高倉天皇のそのまた皇子の中で、皇位につけなかった守貞親王が唯一存在していた。結果的に、その子後堀河天皇の登場だ。
母は、持明院棟子。その母は、頼朝の命を救った池禅尼の娘だ。つまり幕府の恩人の子孫なのだ。父も頼朝の姻戚関係者だ。多少無理はあるが、血統の中でも比較的親幕府派の天皇であった。また鎌倉幕府の執権は、得宗家北条泰時で最も安定した時代だ。残念ながらこの天皇も後世に継がれるような功績はない。すぐ四条天皇に譲位するが、院政も2年足らず、窮屈な一生を送ったに違いない。諡号を後堀河、父(守貞親王)には後高倉の追号を贈る。
神皇正統記には、天皇にならなかったがその子が即位した事で、追号を贈られた例を列挙している。文武天皇の父草壁に長岡天皇。淳仁天皇(淡路廃帝)の父(舎人親王)に儘敬天皇。光仁帝の父には田原天皇。また、早良親王には怨霊を恐れてご自身に崇道天皇を贈っている。いずれも事情があり歴代天皇には入らない。後堀川天皇については残念ながら神皇正統記にも功績は書かれていない。
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