逆順でたどる平安京の天皇たち
96代 後醍醐天皇 建武の親政
落書きの復古イメージ
後醍醐天皇は、親政の最中、有名な「二条河原の落書き」で、公然?と批判された。
その後、北条氏の遺児を盟主に鎌倉に反乱がおこる。尊氏が鎮圧に向かうが、その後独自の政権を樹立することを表明する。
一旦九州まで落ちるが、湊川の戦いで楠木正成と壮絶な戦いの後、都を奪取しそこから尊氏の戴く光明天皇(北朝)と後醍醐の吉野朝(南朝)の時代に突入する。
後醍醐天皇は、吉野金輪王寺で52歳で崩御する。辞世の句はなく「玉骨は縦南山の苔に埋まるとも、魂魄は常に北闕の天を望まん」と壮絶な遺言を残した。通常天子の陵は南面するものだが、後醍醐陵は、北方(京都御所)に向いている。なお、北朝方は、元徳院という院号を用意したという。「徳」のつく院号は、安徳や崇徳、順徳など不幸な亡くなり方の天皇に多いまさに「怨霊天皇」につける院号だ。
天龍寺 曹源池銀閣寺(東求堂)
後に、尊氏が「天龍寺」を創建し鎮魂する。さらに義政に至っても銀閣寺の東求堂に後醍醐の「位牌」を安置して礼拝している。
さて、魂は鎮まっただろうか?
次回は、花園天皇へ
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