アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

667 アチャコの京都日誌  令和に巡る 100寺巡礼 81番~90番を一挙掲載

2019-11-28 19:24:09 | 日記

81番 勝林院

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左京区大原勝林院町187

山号  魚山

宗派  天台宗

本尊  阿弥陀如来

開山  円仁

別称  問答寺 

正式名 魚山大原寺勝林院

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

宝泉院の隣の勝林院は、三千院の山門前に立つと左方向に受付の建屋と中庭を通じて立派な本堂が見える。シンプルな配置のお寺で、手入れの行き届いた庭から本堂内の本尊阿弥陀如来のお顔が見える。

ここは、有名な「大原問答」のお寺だが、「大原談義」と混同していたので整理する。

大原談義

1020年

寂源が法華八講を開く

本尊から光が出て阿弥陀が意を示す

証拠の阿弥陀と呼ばれる

大原問答

1186年

法然が顕真に念仏の意味を説く

本尊が光を放ち念仏の本意を示す

本堂が「証拠堂」と言われる

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いずれも仏教界の論争がここで行われ本尊の阿弥陀如来が意向を示したのである。特に大原問答では法然に対して9つの難問が顕真より出されたが、法然がすべて回答し念仏の正しさを説いた。民衆はみんなが極楽に導かれると大喜びしたと言う。そして3日3晩念仏を唱えた。

今でも「声明の会」が毎年行われるが、筆者は特別な計らいで数年前参加した。本堂内に数十名の僧侶がお経を唱えるその響きは見事な協和音を響かせる。その昔は特に声の良い僧侶には民衆の人気が集まったらしい。筆者もその日はその美声に導かれ極楽に連れてもらえるような気がした。

寺の創建は、平安時代初期の天台座主円仁の時で魚山大原寺と言い、往生極楽院・勝林院・来迎院の3寺の総称でありそれぞれが子院である。なお本尊の「証拠の阿弥陀」は平安時代中期の仏師康尚の作品だが、その後の災害などで何度も修復を行っている。残念ながらお顔(頭部)は室町後期の補作である。

声明の旋律を現わす「呂」「律」に因み、周辺の二本の川には呂川・律川と命名されている。「呂律が回らない。」という「呂律」の語源となっている。

 

82番 曼殊院

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京都市左京区一乗寺竹ノ内町42

宗派  天台宗

山号  なし

本尊  阿弥陀如来

開基  是算

別称  竹内門跡

 

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

左京区一乗寺方面にも良いお寺が多い。曼殊院には数回訪ねている。受付のある「勅使門」の壁には最高の寺格を現わす5本の線が入っている。そして庫裏に直結する玄関先には、「竈媚」と書いた額を掲げている。これが大好きだ。「竈に媚びよ」と読む。上役や上司など権力者に媚びるくらいならば普段一番世話になっている飯を炊く「竈」に媚びなさい。つまり感謝すべき対象を間違うなという事か。あるいはそもそも何事にも媚びることなく堂々としろとも考えられる。その扁額の下を堂内に入る。

ここは曼殊院道を比叡山方向に数キロ入るので人里離れて、周辺は静かな佇まいだ。長く門跡寺院の歴史を踏まえて来たので見どころやお宝が多い寺だ。

創建は、天台宗創始者最澄までさかのぼるが、弟子の是算上人を創設者としている。是算は菅原氏出身で北野天満宮の別当も兼ねていたと言う。中興は、室町時代の後土御門天皇の猶子で貞恒親王の実子である慈運法親王が門主となってからだ。その後代々皇族が門主を務めるようになった。現在地には江戸時代初期に良尚法親王が入山し寺を整えた。因みに良尚法親王は桂離宮を作った八条宮智仁親王の実子である。

庭園が素晴らしく「鶴島亀島の庭」は、小堀遠州作庭とされているが、没年と作庭年代が微妙であり信ぴょう性は薄い。しかし茶室「八窓軒」などには遠州好みのこだわりが随所に見られる。  

堂内では国宝「黄不動」(絵画)の軸が拝める。おそらくレプリカだろうが憤怒の形相が目前に迫る。またおみくじの創始者である元三大師の等身大の木造がありその仏前にはシンプルなおみくじが置いてあった。その他書院内には宝物が多く見どころが多い。そして庭園をじっくりと眺めていれば時間を忘れる。曼殊院はたっぷり時間をかけて出かけたい。

 

因みに京都天台宗5箇室門跡寺院を整理しておく

 

三千院

梶井門跡

左京区大原

初代 堀川天皇皇子 最雲法親王

青蓮院

粟田御所

東山区粟田口

初代 藤原師実の子 行玄

妙法院

 

東山区妙法院前

初代 後高倉院の皇子 尊性法親王

曼殊院

竹内門跡

左京区一乗寺

初代 慈運大僧正

毘沙門堂

 

山科区安朱稲荷山町

初代 後西天皇皇子 公弁法親王

 

 

83番 狸谷不動院  極寒の初不動に訪ねる。

 

京都市左京区一乗寺松原町6

山号  狸谷山

宗派  真言宗

本尊  不動明王

開基  桓武天皇

中興  木食禅正人

別称  狸谷のお不動さん

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

狸谷不動院は、桓武天皇が都を開くに当たり鬼門のこの地に、不動明王を安置した事に始まる。その不動院の開祖は木食正禅で、木食とは苦行の一つである「十穀絶ち」を行った僧のことを言う。当然米や麦、粟稗など十穀を食べないだけではなく、その上で比叡山を走って巡る難行・苦行を行うのである。食するのは木の根や実などしかなく「木食」とはまさに断食に近い。中には即身仏(ミイラ)になる為に自分の体から脂肪分を完全に取り去る目的で行うものもあった。死後腐敗しにくくする為だ。そこまで行かなくても断食行を達成した修験僧を特に「木食上人」と呼ぶ。その一人木食禅正が、江戸時代に狸谷不動院として創建した。左京区修学院の奥、瓜生山の山沿いにある。詩仙堂の門前をかすめるように急な坂道を登り本堂まで20~30分かけて登る。本堂は崖造り(舞台造り)で、清水寺の本堂と同じ構造だ。見上げるような本堂に向かい最後の階段を登る。7月の火渡り祭は、夕刻巨大な護摩壇に火を付けて修験僧が数々の秘法を施し、最後にその上を火伏のまじないを行い素足で渡る。願うは無病息災だ。その後1000名を超える一般人が次々に火渡りを行う。

 

御所の鬼門に当たるこの界隈には、霊験強力な寺院が多く鬼門封じを担当してる。狸谷山修験道の起源である。確かに、山の奥には岩が迫り、ふもとから本堂にたどり着くのにはハイキング気分では行けない。

本殿は、懸崖造り。清水の舞台と同じ構造だ。こちらは飛び落ちると確実に死ぬ。

 

なお、1月28日は初不動の日。がん封じに「笹酒」がふるまわれる。運転者には持ち帰りが用意されていた。

 

京都3初参り

初天神・初弘法・初午大祭・初庚申・初恵比寿・初阿弥陀?これはあったかなあ?

 

 

84番 霊鑑寺  手入れの行き届いた庭園のある尼門跡寺

京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12

山号  円成山

宗派  臨済宗南禅寺派

開基  後水尾天皇皇女 多利宮

本尊  如意輪観音

別称  鹿ケ谷比丘尼御所・谷御所

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京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ

 

霊鑑寺は、京都観光スポットのメッカである「哲学の道」沿いにある。琵琶湖疎水をたどりながら永観堂から銀閣寺に至る数キロの散策道は季節ごとの草花や近隣の寺院を楽しめる。若王子神社・安楽寺・法然院など見どころが続く。霊鑑寺はその中では地味な存在だが、知る人ぞ知る名刹である。大文字山の麓の鹿ケ谷の斜面にひっそりと建つ門跡寺院だ。

江戸初期の天皇である後水尾天皇は多くの皇子・皇女をたくさんの京都の寺院に門跡として送り込んだ。特にこちらは尼門跡寺院として明治維新まで続いていた。筆者は特に思い入れがある。先代の門跡様と何度もお会いしているのだ。寺の財産管理の件で関わった訳だが、ご門跡自身は全くの世間知らずで、それでいて気品と教養の漂う可愛らしいご老人であった。つるつるで真っ白な小さなお顔はまさに深窓のお人だった。

寺院の見所は、庭園と御所人形である。狭いけれど手入れの行き届いた回遊式庭園は如意が岳に続く斜面を生かした見事なものである。般若寺型の灯籠やこの寺でしか見られない日光椿(じっこうつばき)は、是非鑑賞したい。本堂や方丈内は非公開で、庭から覗いて見たが歴史的な文化財や御所人形などを多く所蔵していると聞いている。以前親しくお伺いした若い頃、その様な興味があればしっかり見せてもらえたかも知れないのに悔やまれる。

 

85番 赤山禅院 へちま加持のお寺

 

京都市左京区修学院開根坊町18

宗派 天台宗

本尊 泰山府君

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東山三十六峰第3番の「赤山」のふもと修学院離宮の近くに赤山禅院はある。白川通りから修学院道を15分ほど歩く。中国道教の神様である「泰山府君」を本尊にしているので境内の雰囲気はやや唐風だ。僧円仁が中国から帰国後、泰山府君に因んだ禅院を発願したが果たせず、その後弟子がこの地に赤山大明神として勧請し創建した。寺のパンフレットには、①都の表鬼門を守護する方除けのお寺。②日本最古の都七福神のお寺。③比叡山千日回峰行のうち「赤山苦行(800日)」のお寺。④中秋の名月のへちま加持(喘息封じ)のお寺。⑤数珠供養のお寺。と書いている。

鬼門封じとしての役割は重要で、御所の東北角の「猿が辻」の延長線上にある。そしてこのお寺の拝殿の屋根の上には猿が安置されている。丑寅の方向である鬼門封じの為に、その裏方向(裏鬼門の未申)の猿を置くのである。また、都七福神では泰山府君が寿命をつかさどる神様である事からか、福禄寿をまつる。因みにその他は、東山区の恵比寿神社が恵比寿さま・左京区の松ヶ崎では大黒さま・南区東寺では毘沙門天・六波羅蜜寺には弁財天・中京の革堂には寿老人・そして宇治萬福寺に布袋尊がまつられる。因みに申の日の5日にお参りすると金運に恵まれるとして「5日講」と称して今でも商売人がお詣りに来る。五十払い(ごとばらい)の風習はこれに由来する。

 

 

86番 本法寺 鍋かむり日親が創建

 

京都市上京区小川通寺之内上る本法寺前町617

山号  叡昌山

宗派  日蓮宗

本尊  三尊像

開基  日親

洛中法華21か寺

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上京区堀川通寺の内を中心に200m以内に、茶道三千家と日蓮宗の重要寺院が集中する。京都駅から堀川通りをまっすぐ北に30分ほどバスに揺られると着く。堀川通りからも入山できるが、一旦寺の内通りを東に一筋歩き、小川通りを北に曲がると、通りの雰囲気は令和の時代から江戸時代に一気にさかのぼる。右手に裏千家の茶室「今日庵」の玄関があり常に打ち水が打たれたような清潔感が漂う。心なしか会話の声も小さくなる。その向かい側に本法寺の山門がある。

洛中法華本山21ケ寺の中でも有力寺院である。開山の日親は、「鍋かむり日親」と呼ばれた。室町将軍足利義教に、「立正治国論」をもって直訴した。要は、法華宗を採用しないから世の乱れが治まらないのだと主張したのだ。現代でも他宗教批判の多い日蓮宗だが、当時は一層過激であったようで、その後「天文法華の乱」において洛中から日蓮宗は一時消える事になる。日親は焼けた鉄鍋を頭にかぶる酷刑を受けたこともあると伝わる。それでも主張を曲げず「鍋かむり日親」と言われた。寺の見所は、本阿弥光悦の庭園と長谷川等伯の絵画である。

山門は東に向いて立つが、本堂は南面している。その前を通り庫裏に受付がありそこから方丈内を順路に従い見学する。まず、京都三大涅槃図の一つ等伯の「佛涅槃図」を見る。当日は実物を拝見できると言うので来てみたのだが、幅6m高さ10mの大作だった。2階部分が吹き抜けになっていて2階から全体を眺める。長男の久蔵が狩野派に所属し修行していたものの原因不明の急死をする。その悲しみの中、一心に描いたのがこの作品だ。涅槃図には定番の釈迦の母、摩耶夫人(まやぶにん)が描かれていないのが切ない。大作にも関わらず微妙な遠近法など細かい技法が駆使されている。

また、「巴の庭」とよぶ本阿弥光悦作の庭園は、日親に深く帰依した光悦の父親の縁から本法寺の伽藍整備の支援を行い光悦が庭園を造った。庭の解説がパンフレットに書いてあるが、年数を経て分かりにくくなっている。ただ、手入れの行き届いた優美な庭を眺めるだけで心が洗われる。方丈正面には「十(つなし)の庭」があり白砂に九つの石が配置されている。十ではなく九の石だが、あと一つは心の中の「意思」だと言う。奥深い。

日蓮宗の苦難の歴史と等伯や光悦の芸術性を感じながら堀川通りに出て、妙覚寺に向かう。

 

87番 妙覚寺  日蓮宗寺院の厳しい変遷が分かる。

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京都市上京区上御霊前通小川東入下清蔵口町135

山号  具足山

開基  日実

本尊  十界曼荼羅

洛中法華21ケ寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

 

秀吉が寺院を集中させたのは寺町通だけではない。寺の内通にも多くの寺院を集めた。(勿論通り名はそれ以降つけられた。)今出川通りの北、紫竹通りのすぐ南の東西の通りだが、東は烏丸通から西は御前通までの数キロで、主に西陣辺りを中心にして、特に日蓮宗の寺院が多い。妙覚寺は寺の内から一本北へ堀川通りから東に一筋の小川通りとの交差点にある。本法寺からは歩いて数分である。

日蓮宗の日実が鎌倉初期に四条大宮あたりに創建し、後に足利将軍の命により二条衣棚に移転する。日蓮宗の法難である「天文法華の乱」で、洛中を追放され堺にのがれた。約10年後、当時の後奈良天皇の綸旨により二条衣棚の旧知に復帰した。そして秀吉の寺の内への移転命令で現在地に移る。以上のような経緯は近辺の日蓮宗寺院に共通する典型的な例である。上御霊前通りに面した山門の前の枝垂れ桜が見事な枝ぶりだ。広大な境内は月ぎめ駐車場になっていてやや興ざめだが、日蓮寺院の特徴だろうか重厚な本堂が正面に配置されている。因みに、山号の具足山は立本寺と妙顕寺と合わせて「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」という。

本能寺の変の時に、妙覚寺が登場する。信長が光秀の謀反により本能寺内で応戦の後自害する。そして長男信忠は、宿泊先の妙覚寺でその報告を受け本能寺に向かうが、光秀軍に殺される。しかし、本能寺も妙覚寺も現在地ではない。本能寺は、蛸薬師通り堀川から四条通の間の現在の堀川高校辺りである。妙覚寺は当時は衣棚二条だったから、現在地のイメージより近い。光秀軍はほぼ同時に攻撃したと思われる。信長の謡曲「敦盛」の舞とか、信忠の「父の危機!馬引け。」というくだりは後世の脚色としか思えない。しばらく法華宗の寺院を巡る。

 

 

88番 妙顕寺  正式名は四海唱導妙顕寺

 

京都市上京区寺ノ内通新町西入妙顕寺前町514

宗派  日蓮宗

開基  日像 後醍醐天皇

山号  具足山

本尊  三宝尊

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妙覚寺から一筋南へ、寺の内通りに戻るとすぐにたどり着く。山門は妙覚寺と同じような門だが境内はさらに広い。法華宗の寺院は何故こうも広いのか。日蓮直系の弟子日像の創建で、後醍醐天皇から寺領を賜った。「四海唱導妙顕寺」とよばれ、法華宗の根本寺院となった。所在地は、大宮通上長者⇨綾小路大宮⇨四条櫛笥⇨若狭小浜⇨堀川御池⇨二条西洞院⇨泉州堺⇨二条西洞院⇨現在地と、法華宗の苦難の歴史に重なる。訪ねた時は、内部は公開していなかったので広大な敷地をぶらぶらして帰ったが、拝観時には本堂奥の、尾形光琳の「曲水の庭」や孟宗竹の「坪庭」が見学できる。次は、寺の内通りに戻り堀川角の宝鏡寺に向かう。

 

89番 宝鏡寺 たくさんの貴重な御所人形が見れる。

 

京都市上京区寺之内通堀川東入百々町547

宗派 臨済宗

開基 華林宮惠厳

本尊 聖観音像

別称 人形寺 百々御所

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「百々御所(どどのごしょ)」宝鏡寺という。小川通りには昔、実際小川という川が流れていてこの辺りには、「百々橋」という石橋が架かっていた。その百々橋は応仁の乱の時に戦場となった事が、近くの碑に書かれてある。百々って何?当時の武将の名前に百々氏という名が見つけられるが、百々の意味は分からない。そこに皇室所縁の「小川御所」と言うのがあった。現在の宝鏡寺辺りなので、「百々御所」と通称されるようになった。格式の高い尼門跡寺院を特に何々御所と尊称する。

御寺御所  大聖寺

竹 御所  曇華院

薄雲御所  慈受院

千代野御所 宝慈院

蔵人御所  本光院

常盤御所  光照院

入江御所  三時知恩寺

などが有名だ。いずれも規模は小さいが由緒深い寺院である。いずれ詳しく書く。

宝鏡寺は、その由緒正しさよりは「人形の寺」として有名だ。春と秋の季節の良い時には、特別拝観で多くの御所人形始め歴史的な人形たちを見せてくれる。後水尾上皇の多くの皇女のおひとりが入寺して以来の貴重なお宝だそうだ。後水尾は多くのお子さんを産ませた事で、結果的に京都市内のたくさんの寺院に皇女を送り込み貴重な皇室文化財を残してくれた。

狭い建物の中をひしめくように人形たちが保管されている。武者小路実篤の歌碑のある庭と共に見学できる。

その歌碑には、「人形よ 誰が作りしか 誰に愛されしか 知らねども 愛された事実こそ  汝が成仏の誠なれ」

 

90番 妙蓮寺

京都市上京区寺之内通大宮東入る妙蓮寺前町875

宗派 法華宗

山号 卯木山

開基 柳屋仲興

本尊 十界曼荼羅

洛中法華21ケ寺

 

京都のお寺が大好きだ。おすすめ一番はここだ。

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上京の西陣地区の法華宗寺院を二つ巡る。その前にちょっと脱線する。筆者の証券マンのデビューはこの辺りで「飛び込み営業」でスタートしている。飛び込みとはよく言った言葉で、知らない家にアポントもなしに訪問するのだから、まさに水中に死ぬ気で飛び込むような決心がいる。西陣地区は今でも織機の動く音が界隈に聞こえる地域だ。ガチャガチャと大きな音のする織屋さんの家では、チャイムを鳴らしても聞こえず一日中大声で「ごめん下さーい。」と毎日100件以上訪ね歩く。1000件に3軒ほどの確率で話を聞いてもらえる程度だ。当然、やる気は2日も持たない。一日サボって映画館に行った事もある。そして気候の良い日は、大寺院の境内や縁側で寝そべっていた。この辺りの寺院の本堂は出入り自由で、日当たりのいい高縁を昼寝の場所としていた。何宗かもどんな歴史を持った寺院かも知らず、今思えば罰当たりな事だった。

その様な昼寝場所の一つだった、妙蓮寺は寺の内通りの堀川を西に入るとすぐに大きな山門が見える。「卯木山」と山号が書いてある。開基でその後も資金援助をして来た柳屋の屋号の「柳」を二文字に分解して「卯木山」とした。珍しい山号だ。


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