アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

878 あちゃこの京都日誌  新シリーズ 新天皇の国紀 ㉑

2021-09-02 10:52:21 | 日記

その2 後三条天皇の登場 「院政の始まり」

後三条天皇の政治を覚える - 替え歌で覚える日本史

 壮年期になって満を持して登場した後三条天皇は、次世代を切り開くように次々と親政により政治の実績を積み上げた。代表的なものは、荘園整理令だ。藤原頼通の政権時代に急激に拡大した摂関家所属の荘園は、タックスヘブンの様相を呈していた。これは正に摂関家を外戚に持たない天皇にしかできない改革である。次は、焼失したままの大極殿の再建だった。三条天皇時代に内裏が焼けたことで、道長が天皇の徳の無さといじめたことは書いたが、当時はどの天皇の時代も、必ずと言って良いほど内裏が罹災した。徳の無さというより、落雷への知識不足であり、むしろ官僚貴族たちの管理面の甘さだった。後三条天皇は、大極殿の復活のみならず大規模に内裏全体の再建を命じた。その財政基盤を確立する為に、宣旨枡を制定し全国ばらばらだった枡を統一し徴税の安定を図った。荘園例とともに高度な判断力と摂関家から解放された政治権力の強さがうかがえる。当然、※大江匡房などの門閥に拘らない助言者を抜擢登用したことも大きい。

 さて、院政の始まりを後三条と見るか、次の白河天皇と見るかだが、そこには皇位継承の思惑が深く関わっていることは無視できない。そもそも摂関政治という天皇をないがしろにする政治形態に対して、院政というある種同じような政治形態を望む道理がない。後三条天皇の場合真相は、子の白河天皇の後に弟の実仁親王に継がせようと、早々に譲位しその後の継承を意図通りにしたかったようだ。白河天皇の中宮に摂関家出身者がいて、その中宮を白河が深く寵愛していたから、もしその間に子が出来たら将来また摂関政治の復活になるとの懸念だ。そこには、道長を祖父に持ちながら摂関家に反発する後三条の母の※陽明門院(禎子)が深く希望したと思われる。当時相当な高齢であったはずだが、並々ならぬ執念とも言える。結果、実仁親王の早世でそのことは実現せず、しかも白河天皇は父への反抗もあり子の輔仁(堀河天皇、母は藤原賢子)へと継承していく。このように皇位継承の経緯を見ると、後三条天皇母子の藤原摂関家への恨みは相当強いものであったことがうかがえる。一方、摂関家側も以前のような影響力を発揮する力もなくなっていたことは間違いいない。 従って、本格的院政の始まりは、やはり白河天皇の時代になるとされる。

 

※大江匡房 平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。後三条天皇治世下では、天皇が進めた新政(延久の善政)の推進にあたって、ブレーン役の近臣として重要な役割を果たした。

※陽明門院(禎子内親王) その誕生時、祖父道長と父三条天皇の間がしっくりいかない最中のことであり、道長は男子でなく皇女の誕生に不機嫌であった。従って、その後禎子と摂関家の関係は悪化していく。


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