逆順でたどる平安京の天皇たち
88代 後嵯峨天皇
在位 |
1242年~1246年 |
生没 |
1220年~1272年 |
在位中年号 |
仁治・寛元 |
先代・次代 |
四条天皇→当代→(子)後深草天皇 |
御陵 |
嵯峨南陵 |
父・母 |
土御門天皇・源通子 |
中宮 |
西園寺姞子(大宮院) |
81安徳天皇 ― 守貞親王 ― 82後鳥羽天皇
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86後堀河天皇 ― 83土御門天皇 ― 84順徳天皇
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87 四条天皇 ― 88後嵯峨天皇 ― 85仲恭天皇
直前の系統を書いて見た。時代は平家滅亡から、鎌倉幕府、承久の変(後鳥羽上皇が鎌倉幕府転覆を企て「お上、ご謀反」と言われた。謀反とは本来天皇に対して行う行為だったのに・・・・。)という激動の時代が見えて来る。後鳥羽・土御門・順徳の3人が、遠島となった。さらに仲恭天皇は即位の形跡が不確かだ。(明治になって正式に皇統に加わった。)
ここで、ポイントは幕府は、長く後鳥羽の血統に皇位を継がさなかった事だ。当然だ、それがやっとその正統に戻ったのである。
今回は、「神皇正統記」(北畠親房公)の記載に基づき書く。言うまでもなく南朝の論客である北畠親房は、この経緯をどのように見ていたか。
まず、後醍醐の「建武の親政」は、後鳥羽の「承久の変」で、実現できなかったことを遂に実現した快挙という結論である。従って、後嵯峨天皇の即位は、「神意に従い。」と言っている。天命であり、正理であるとも言っている。そして、その決定を決断した執権北条泰時を絶賛している。父の義時を酷評する一方、後嵯峨天皇を実現した泰時に対しては、「心が正しく、政治は質素を旨とし他人を大切にして驕ることなく、公家の御ことを重く考え、荘園領主の悩みを無くし、風の前に塵が無いように世の中はすっかり落ち着いた。」と、書いている。
北条政権は、この泰時の「徳」をピークにして最後の高時に至って滅ぶべくして滅んだと言っている。南朝の正当性を書いたものなので当然だが・・・・・。
後嵯峨天皇の業績もさることながら、「天皇の皇位というものは、天皇の御譲位に任せるものである。」「臣下のものとしては、帝を尊敬し、民を慈しみ、天地を恐れ謹んで、月日の照らすのを仰ぐについても心が不浄であることを恥ずかしく思い、・・・。」「我が国は、神明の誓いがあらたかで、上下のわきまえも定まっている。」などと、皇統の正統を謳っている。
この後嵯峨天皇の章で、神皇正統記の本筋を現わしている最も重要な章なのであろう。また、後嵯峨天皇の即位にあたっては多くの奇瑞があったと、その神秘性も書いている。因みに、息子後深草が病気なので、仕方なく亀山に譲位したのだと、大覚寺統(南朝)の正当性を強調している。
歴史とは、見る立場によってこれほど違うのか?次は、四条天皇。
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