37番 粟生光明寺
長岡京市粟生西条ノ内26-1
山号 報国山
宗派 西山浄土宗
開基 蓮生
開山 法然
本尊 阿弥陀如来
光明寺阿弥陀堂に抱かれ眠りたい。贅沢な静寂を与えてくれる寺。
三鈷寺から山を下ればすぐに丹波街道との交差点を南に入れると大きな駐車場が見えて来る。阪急長岡京市駅からはタクシーで15分ほどだ。特に紅葉の名所なので、その季節にはシャトルバスが出る。
光明寺という寺名は多いので、粟生の里にあることから「粟生光明寺」という。法然の念仏根本根元の地である。熊谷直実が源平合戦の折り、源氏の大将として参戦、一の谷の合戦の時、平家の公達の兜首を取るが、見るとまだ少年と見える若い敦盛であった。人の無常を知った直実は、金戒光明寺で出家しこの地に入って、念仏三昧堂を建立した。光明寺の実質の始まりである。
大きな山門をくぐるとまっすぐ石段の表参道があり、左に曲がると紅葉坂というなだらかな参道と二通りある。いずれも紅葉の季節には絶景の赤いトンネルが出来る。
このお寺の魅力は、阿弥陀堂・御影堂共に自由に上がれて観光シーズンを避けて行けば静かな堂内でゆっくりひと時を過ごせる。夏の昼下がり広い阿弥陀堂の高縁にしばらくマッタリとした事がある。筆者の大学時代の唯一無二の親友は、「光明寺阿弥陀堂に抱かれて眠りたい。」と、書き残している。そして、何とその通り今ここに永遠に眠っているのだ。
法然の念仏への信念を込めた「張り子の御影」37bann
法然の愛弟子に、住連坊・安楽坊という美声・美男子の僧がいた。そこに後鳥羽上皇の女官の鈴虫姫・松虫姫二人が、上皇の留守中に出家するという事件が起こった。怒った上皇は僧二人を死罪にし関係者の処分を行う事となった。事件は仏教界旧勢力が法然の専修念仏へ反発した為もあったのだ。法然自身は四国への流罪が決まった。その際弟子から「何か形見になるものを、」と所望された時、懐から自分の母からもらった手紙を出し、それを水に浸し自分の姿に似せて御影を作ったという。13歳で出家した時の手紙をその時75歳であった法然は、大切に肌身離さずもっていたものである。それを弟子に託し、専修念仏への強い信念を示したのであろう。長く嵯峨の二尊院にあったものを現在ここに安置されている。
この事件は後世、「建永の法難」と呼んでいる。
その「張り子の御影」が、御影堂奥に安置されている。それを遠目に拝むのである。
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