アチャコちゃんの京都日誌

あちゃこが巡る京都の古刹巡礼

第931回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉 ④ 上醍醐

2022-12-18 16:48:42 | 日記

上醍醐を10年振りに行って見た。

結論は、「なかった」 のである。10年以上前に西国33か所巡りの番所として訪ねた。最初の1度は下醍醐(国宝五重塔がある場所)から果敢に登山をしたこともある。前回は、醍醐山の後方、山科方面から迂回をし横峯峠まで車でショートカットしラストの数百メーターを登って行った。

そのルートを目指したが、建造物は無かった。しかし後日ネットで検索したら近年登山した人たちのブログを複数発見した。建造物は存在するのである。30分ほど山中をさまよった小生は何をしていたのか。クマやイノシシの襲撃リスクを感じながらの恐怖体験だった。

看板に従い上醍醐方面に登山道を登る。

この先は、ロープを頼りに急激な勾配の場所もあり10分ほどで息が上がる。行きつ戻りつ結局もとに戻り出直すことにした。

実際はこのような伽藍の配置となっている。

上醍醐には、国宝の薬師堂や清瀧宮拝殿、豊臣秀吉が慶長11年(1606)に再建した開山堂(重文)と如意輪堂(重文)や五大堂などの諸堂が点在しており、醍醐の花見の1年前の慶長2年(1597)には、豊臣秀吉と徳川家康が下見のために上醍醐へ登山したこともある。また醍醐寺の開祖、聖宝・理源大師をお祀りした開山堂と如意輪堂があり大阪の街や大阪城を一望できる。ここ上醍醐は修験道の道場である。

このうち、清龍宮拝殿は時代が平安時代で国宝建造物である。

写真は他のブログからの引用。

上醍醐・下醍醐の関係は単に「奥の院」というものではなく。修行の場と一般の参詣の場を分けたものと解釈できる。従って、上醍醐が本来の醍醐寺であり修行することのない一般人は山のふもとで祈りを捧げたのである。その場に伽藍配置を豪華にしその宗派の拡大を目論んだのだろう。

体が元気なうちに再挑戦し当ブログにアップする。


第930回 あちゃこの京都日誌 京都の紅葉③ 日向大神宮

2022-12-18 14:45:06 | 日記

京都検定の1級を保有しながら再度の合格(マイスター)を目指して受験しました。超難問が10ほどあって、15の不正解が許容される1級ですが、過去問とテキスト掲載の問題は落とせません。小生のように分かっていても不注意が多い軽薄な受験者には合格は難しい。

案の定、答え合わせの結果、不合格が判明。しかもテキスト範囲からも多く不正解となり絶望しました。超難問は捨てると、7~8は捨てることになる。あと、7~8のテキスト範囲か過去問を漢字を正確に書けるかが条件だ。

年齢による老化を考えると限界か。引退の危機だ。

趣きのある参道

さて、日向大神宮へ行って来た。5条通りの大谷廟越えてバイパスの将軍塚への入り口を見逃し、山科の蹴上から逆走し進入した。以前、車で探ったが辿り着かず断念したことがある。やっと見つけたが、霊気漂う山肌にそれは鎮座していた。

岩の入り口は何か女性器に似て胎内へ向かうような感じ

注目の「抜け参り」は、天の岩戸の中をくぐるお参りである。暗闇の中、途中の社に祈祷する厄払いの儀式である。いつでもだれでも出来るが、節分は1年の節目。最も厄の多い日でありそれを祓う重要行事である。見たところ真っ暗闇に入る勇気は必要だ。すぐに目は慣れるが厳かな気分にはなる。

神明造の社殿

日向大神宮は、創建は、顕宗天皇と言うから神代の時代と歴史の時代の狭間、大和朝廷の前段階の時代である。西暦480年ごろである。天智天皇がこの地を日山(かみやま)と命名。清和天皇が「日向宮」の勅額を与え、醍醐天皇は官幣社に列せられた。南北朝時代には新田義貞が戦勝祈願した。例によって応仁の乱で一旦焼失する。いつもながら思うがこのような山間の祠を焼いて何の意味があろうか?その後、後奈良天皇、後陽成・後水尾天皇親子で充実させた。外宮・内宮遷宮に際しては光格天皇も御宝物を御寄進している。昭和天皇御大典でその格式は確たるものとした。

紅葉が残る

元旦の「若水祭」は、元旦の朝汲んだ清泉の水を庶民に与える儀式だ。泉は「朝日泉」という。節分の厄除大祭が重要祭儀で、境内にある天の岩戸(戸隠神社)の御神体である大岩をくぐる日本唯一の神事である。厄除けの御利益は間違いない。10月16日には新嘗祭にあたる神嘗祭が行われ「人長の舞」が奉納される。「京の伊勢」と言われ、東山36峯神明山が御神体である。

境内は京都トレイルのコースにあたり訪れた日も寒い中多くの人が、神社に似合わない派手な格好で足早に駆け抜けて行った。南禅寺境内迄30分ほどと聞くと小生でも出来るかと思ったが、充分な準備がないと思わぬ怪我をすると断念した。その分、抜け参りで心を込めて祈った。その内容は秘密。