② 御所千度参り
「お百度を踏む」というと、特定の神仏に「百度」参詣して祈願し「ご利益(ごりやく)」の実現を一層強く願うものだ。平安末期から始まった参詣形態らしく、始めは「毎日百度(百日)」行ったのもが、後には「一日に百度」参る形式になったらしい。一度二度より百度参ることで、「信仰心の篤さ」と「祈願の切実さ」を訴える事で、神仏の加護をさらに確実なものにしたいとの願いである。「御所千度参り」は、それが「御所(天皇)」を神仏に見立てて、「百度参り」よりもさらに強力な「千度参り」として出現した江戸時代後期に突然起こった画期的事件である。
当時、天明の大飢饉を発端にした米の高騰から、「打ちこわし」や「一揆」が全国的な広がりを見せる中、天明7年(1787年)6月頃、どこからともなく、誰が言うともなく当初100人ほどが御所の周りを「お千度参り」と言って巡り始めた。その後京都以外からも年齢・性別・身分の別なく参加するようになり、遂には紫宸殿に面した南門や清涼殿正面の唐門前などに賽銭(投げ銭)する者も現れた。賽銭を包む紙には「願い事」などを書いていた。当初は幕府から差し止めの要求があったが、光格天皇の指導役でもあった女性の後桜町上皇から、「信心でやっているのでそのままに」との指示が出る。さらに朝廷は酷暑の時期なので、御所周辺の溝をさらえてきれいな湧水を流して使わせたりもした。また、公家衆からはお茶の接待などあり、さらに後桜町上皇からはなんとリンゴ3万個などの差し入れが行われる。全国的には打ちこわしなどの騒動が起こっている物騒な中、京都はこのように御所へ粛々と千度参りするという「平和的なのは悦ばしい事だ。」と噂されたという。そのうち、米価も下がって千度参りもおさまったという。
後桜町上皇
以上が、大まかな「御所千度参り」の経緯だが、光格天皇は幕府とどう戦ったか。藤田覚氏『光格天皇』を参考に見て行く。まず、後桜町上皇と相談し関白の鷹司輔平(実の叔父)を通じて京都所司代(幕府)に対し何か対策出来ないか、その交渉をする方法を考えるよう指示している。それに対して、関白は参内した所司代に直接口頭ではなく「書付」として恐る恐る手渡している。幕府はすでに対応していたものの、朝廷の配慮を理解し、さらに「救い米」を放出し不足なら追加するように手当している。実は、この様に窮民救済を朝廷が申し入れて幕府が応えるというのは、「それ以前にない異例の事態。」なのであり、これは当時の統治体系である大政委任論を覆すことであった。
さらに事件の後半には「御所千度参りは天皇への直訴」に変化した。しかも天皇は「不憫のことなので追い散らしもうしまじ」と参加者に深い理解を示した。その事でまた参加者が増えるという事態になっている。このように庶民が「千度参り」という宗教的な形をもって天皇や朝廷に直接行動し、しかもそれを受けて、朝廷・天皇が行動したという事は、江戸時代においては、朝廷は決して政治に一切の口出しをしない原則に反するもので、その時代においては、幕府に対する立派な戦いであった。また、その背景には庶民が一定の親近感をもって御所の存在を容認していた事も重要だ。文献を調べると、大嘗祭や即位式には、御所の中に入って来て、かなり近い距離で式典を見物していたらしいことが最近の研究で明らかになっている。天皇は、決して御簾の中の奥深い存在だけでもなかったのだ。特に、京都では幕府よりも御所(天皇)により崇敬の念をもっていたのかも知れない。
この「御所千度参り」は、注目すべき特異な事件ではあるが、武力も政治的権限も持たない光格天皇の戦いとしてはまだまだ序章に過ぎない。
※ 江戸幕府が国内支配の正当化のために主張した理論で、将軍は天皇より大政(国政)を委任されてその職任として日本国を統治している、とするものである。