暇人おじさんのにゃんにゃんブログ

飲水思源、水を飲みて源を思う、今日も本物を求めて一万歩

馬頭観音

2015-02-05 11:23:07 | 日記
昨日は名古屋市千種区春岡の塩付街道から川名辺りの飯田街道へ。

この辺りから御器所にかけては古いのあったところで、御器所は奈良時代の地図(当時のものか後世に書かれたものか不明のようですが)に既にこの地名が出ています。
またこの辺りから東部、北部は丘陵地帯でしたので、良い粘土や薪が採れたからでしょうか、
5世紀頃から須恵器の生産が始まっており、既にこの時代からあちこちにが点在していたのでしょうか、
末盛とか唐山とか、焼き物に携わっていた人たちを想わす地名が残っています。
昭和20年代頃は、まだその窯跡があちこちに相当数残されていたようです。
後世ここから東部の猿投、さらに瀬戸地方へ移って行き、愛知県が瀬戸物の一大産地になるのですが、その発祥の地です。

そんな訳で、記録が残るようになった江戸時代にかけては、
川名の他ここから北部にかけては丸山、古井等あちこちにが点在していました。
そしてこれらを結んでいた街道が、飯田街道、塩付街道、四観音道等です。

そして当時は馬が交通手段として使われていたこともあり、
街道の道標だとか、道中死んでしまった馬を弔って、馬頭観音として道端に祀られていたようです。

私の実家近くの春岡の塩付街道沿いにも一つあります。今は宅地化が進んで街道の趣は全くありませんが、
60年ほど昔昭和30年前後の頃、まだ私が小学校へ行くかどうかという頃ですが、観音さんは今の場所の隣の土地にあり、
そこは当時は雑木林が茂る小さな神社と広場になっており、観音さんはその神社のような中に祀られていました。
広場にはたまに紙芝居屋さんが来て、紙芝居の見世物をやっておりました。
当時はまだテレビのない時代で、紙芝居のおじさんが来ると、子供たちが自然と寄って来て楽しんだものです。

この観音さんは、道標の役目をしていたのでしょうか。
左には御器所、古井、右には川名、丸山と近辺の名が記されています。



ここから塩付街道を南へ行くと、飯田街道と交わります。
右側の写真の中央の細い道が塩付街道です。これを真っ直ぐ行くと瑞穂から笠寺の方へ行きます。
江戸時代には笠寺方面で採れた塩を馬に乗せてこの道を通って山の方へ運んだので、塩付街道と言われたと小学校の時教わりました。
私の通った小学校の裏手に沿ってこの道が通っています。



左に折れて飯田街道を行くと、川原神社に行きます。
この神社の手前の道沿いにも、馬頭観音が祀られています。
先程の春岡のと似た感じのものです。右側にこの地の名の川名という文字が見えます。左は馬何とかと彫られていますね。



そしてこちらが川原神社。
古い土地に違わず、古くからいわれのある神社のようです。








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