何度か書いたが子供の頃、頭に浮かんだ物は何処へ行ってしまうんだろう、と不思議に思っていた。子供に幽霊が見える話があるが、子供には異界との区別などない。私も頭に在る物だけが何処へ行っていまうのだ、と思っていた。それを取り出してやっぱり在ったな。と確認したい、というのがそもそも私の作る動機である。つまり頭の中にあったのはこういう物だ、というのは前もっておおよそ知っているはずだが、拡大したプリントを前に、間違いなく私が作ったはずなのに、何故か眼を見て話せないような、初めまして的なあの気分は何だったのだろうか。 非常に不味いたとえであるが、私が口にした物に由来しているのは間違いない、しかも私の◯◯の穴はそれほどではないはずなのに、今朝のこれはいったいどういうわけだ?という感じに近いかもしれない。つまりそこにあったのは普段意識したことのない“腹圧”から解放された私のイメージだったのではないか。 漱石像を展示中の神奈川近代文学館。22日までだが、こんな愚にもつかないことをボンヤリ考えているようでは行きそびれてしまうだろう。
石塚公昭HP
『タウン誌深川』“常連席にて日が暮れる”第5回