明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



蘭渓道隆、無学祖元が、着彩残してほぼ完成した。あとは一休宗純の仕上げ。つまり作業的なことを残すのみで、ようやく寒山拾得で始まった一連の制作が、ふたたび寒山拾得で一巡り、ということになる。こうやって寒山拾得を軸に何回転か繰り返し、寿命を迎えるのも満更悪くはない。そもそも寒山拾得など、陰影がないからこそやれている訳で、この手法あってのモチーフである。 私が小学校の図画工作の時間、写生になるとガッカリ。目の前に在るものを、在るのに。それを描いてどうするのだ?まったく面白さを見出せず。それがしいては写真に興味が持てなかった事につながった。しかし自分の作品を撮ることにより可能性を見出だし、さらに陰影を無くしたことにより、ようやく〝念写”が可能になり、中国にも行かず、居もしない寒山と拾得を、比喩でなく撮る事ができた。 鍵っ子だった幼い私の疑問〝頭に浮かんだことはどこへ消えて行ってしまうんだろう?”は結論がようやく出た。〝どこへも行かず消えてもいない”。そして写真はちゃんとまことを写せるんじゃないか、というオチまでついた。



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