蝦蟇仙人に再び着手。一体目は予定と違って福々しく穏やかな表情になってしまって、これは何かのおりに他の場面に流用しようとキープ。 今回もアドリブで作るうち、フト犬は飼い主に似るだか、飼い主は犬に似るだか聞いたことがあるな、と思い付いて蝦蟇仙人を検索してみると古今の作品がいくらでも出てくるのだが、蝦蟇仙人だからといって、ことさら蝦蟇蛙みたいな仙人は見つからなかった。もっとも蝦蟇の化け物や生まれ変わりではないので当然ではある。しかしそれならば、と私の蝦蟇仙人は蝦蟇蛙じみた人物に決め方向転換。 それにしても一から作家を作った場合、年に六体がせいぜいであり、そのうち頭部の制作に七割近い時間がかかっていた。それを思うと、長いお務めを果たし、娑婆に放たれ暴れまわる菅原文太の如き勢いである。当たるを幸いも良いところで、陶淵明に一休さん~挙げ句に蝦蟇仙人という始末である。しかし頭では何をやっている、と呆れながら、生き物としての私の判断はいつも通り正しいようである。暴走しているようで、そのせいで寒山と拾得の背中が見えてきた気がするからである。しかしまだ寒山と拾得には取りかかるな。理由は知らないが、へそ下三寸の私がそういっている。