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明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



9月に写真の古典技法による4人展が決まった。先のことなので、まだ何を出品するか決まっていない。 古本街に通って主に大正時代の文献を集め、廃れていた『オイルプリント』の制作を始めたのが1991年である。当初まったく画が現れず、テキストに欠けたページがあるのでは、と本気に考えたものだが、それでもなんとか解明し、たった一日であったが、初披露が99年。そこから06年の丸善オアゾの『人・形』展に出品したのが最後で、『乱歩 夜の夢こそまこ』の制作を境に休止することとなった。それでもその後制作したデータは、すべてオイルプリント化を前提に常に考えていた。PICTORIALISMは『クラシックカメラ専科』に掲載された一文であるが、世の中のデジタル化がこれほど急激に進むとは思わず書いている。 もともと野島康三の作品に魅かれたのがきっかけであったが、まことを写す、という意味の写真という言葉を嫌い、マコトなどできるだけ画面から排除したい体質の私にとって、好都合な技法であることにすぐ気づいた。制作した人物像をオイルプリント化すれば、ウソも本当もなくなってしまう。さらにこの超がつくアナログ技法は、対極ゆえにデジタルと相性が良いことも判った。 しかし一方、発表して判ったこともある。日本では始めて目にする物に対して、まずこれはなんだ?ということになってしまい、ぱっと見てすぐに反応してくれないということである。それは作品の力不足にもよるだろうが、当HP制作の動機の一つもそこにあった。試みる人も増やしたいし、同じ説明を繰り返したくもない。 人形は粘土の質感丸出しで作っているのに、実写と間違われるくらいなので、人形作品をオイルプリント化するに際し、できるだけ暴走先走りは抑えた。だがしかし、時代は代わり、古典技法を手掛ける人も増えた。冷え冷えとした部屋に暖房が効いてきた感じである。もう余計なことを考える必用はないであろう。この4人展、私以外は女性だ、というから長生きはしたほうが良い。

世田谷文学館に出品の寺山登場『寺山修司の世界』

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古いアナログ用写真機材を扱う代官山のフォトシャトンが閉店だそうである。大判用機材はすでに揃っているし、眼に毒ということもあり、開店のお祝いにでかけて以来、一度も顔を出さずじまいになってしまった。代官山苦手だし。 店主の井上さんは、プリンターの田村さんの紹介で知り合ったが、もともとは井上さんが書いたクラシックカメラ雑誌の記事の作例写真の被写体が田村さんで、私が某所で田村さんを“発見”したことがきっかけであった。古典レンズに詳しい田村さんであったが、もっと詳しい人がいる、というので、当時井上さんが勤務する国立のカメラ店に、オイルプリントの試作を持って会いにいったのが90年代の始め頃である。井上さんには「いつか写真店じゃなく、薬品問屋で材料を買って写真をやるような人が現れると思った。」といわれた。井上さんから薦められた、製造から百数十年経っているアプラナートレンズは、私の古典レンズのイメージの原点となっている。 その頃、田村さんが勤めていたラボの暗室によくお邪魔したものであるが、そのプリントテクニックを真近で見て、全部自分でやった、といいたがりの私が、にもかかわらず、我流でやっていたモノクロプリントを止めた。こんなところまでやるには人生はあまりにも短い。以来プリントは田村さんにお願いし、おかげで無駄な時間を費やさずに済んだわけである。 一方、私が古典技法のオイルプリントを始めたのは、野島康三の作品に一目ぼれしたことがきっかけであったが、当時は写真展を開こうなどとは夢にも思わず、人形作りを放って何をしている、と思いながら熱中した。当時まったく気付いていなかったが、やり方によってこの技法は、嘘もホントもホントも嘘も区別がつかない。実はこの点が、江戸川乱歩同様“現世は夢 夜の夢こそまこと”な私には色々やり様があることになる。もう一つ。数ある写真技法が基本となる暗室技術、教養が肝心であることに対し、オイルプリントはむしろ“祈る力”が物をいう。そもそも私の人形制作法も、ただひたすら完成を祈る。という作り方なのである。

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写真の古典技法の一つである『オイルプリント』は紙にゼラチンを塗布したゼラチンペーパーを自製しなければならない。逆にいえば、和紙であろうとなんであろうと、好きな紙を選んで使える、ということでもある。この難関を突破さえすれば、扱いに注意を要する薬品を使用する点を別にすれば、ブラシで油性絵の具を叩いて画像を出す点など、子供でも面白いに違いない。 私は古書店で買い集めた技術書を元に制作を始めたが、テキスト通りにやっているつもりでも、一向に画があらわれない。欠けたページがあるのではないか、と何度ページを確認したことであろうか。当時、オルタナネイティブ・プロセスなどという言葉も一般的でなく、相談する人もいない。結局は用紙に塗布するゼラチンの具合がまずは肝心なことが判ってくる。精製されたゼラチン、菓子用のゼラチン、色々試したが、それぞれ使えることは判ったが、問題は気温が高いとゼラチンが硬化せず、厚くひくことが困難なことであった。ゼラチン層が薄いと満足する諧調が出ない。よって一年分の用紙を冬の間に作りためなければならなかった。西武百貨店と京都造形芸術大での過去二回のワークショップでも、可哀そうなことに、冬に暖房を切った中でゼラチン紙の制作を行った。 当時のテキストには特に気温に触れられていないのが不思議であったが、現在写真用とされるゼラチンは、その他のゼラチンに比べ硬化しやすいことが判った。何しろ普通にゼラチンペーパーが販売されていた時代から考えれば常識も違う。顔料を使う写真でなければ芸術にあらず、などという今となっては考えられない論もあったのが大正から昭和の始め頃の時代である。 最近は湿版写真にまい進中の田村写真の田村さんに、近日中のゼラチンペーパー試作をお願いした。ゼラチン紙はオイルプリントにとどまらず、その他のオルタナネイティブ・プロセスに使用できる。田村印のゼラチンペーパーがあれば、色々試みる人も現れることであろう。ばらつきのないゼラチンペーパーは三色分解によるオイルプリントのカラー化にも不可欠である。

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一日  


過去の写真データをひっくり返して選んでいる。代表的な物を、来年はオイルプリント化してみたい。廃れていた古典技法だが、91年当時、写真家でもないのに、人形も作らず何をやっているのだ、と内心ハラハラしながら熱中した。昔は道具など既製品があったという面では不利であったが、昔の連中にできて私にできないはずがない、と鼻息だけは荒かった。素人ということもあったが、過去の作家を倒す、という敵愾心みたいなものまであったのを覚えている。仕事をしないで余計なことをしている、という後ろめたさに打ち勝つためには、そんな物も必要だったのであろう。実際、発表しようなどと思っていなかったので画がようやく出たところで中止した。しかしその後写真を発表するようになり、そういうことなら、とオイルプリントを再開したのだが、以来、自分の直感を優先することに決めた。なんでこんなことをしたいか判らなくても理由は後で考えれば良い。辻褄は必ず合う。 K本へ行き母からMさんへ、と預かっていたくさやを「この程度の物が食えないような奴に娘はやらないとか嫌がらせにでも使ってください。」と渡す。Mさん本日も問題の件についてひとくさり。今日始めて訊いたという顔ができただろろうか。是非本人に直接いってください。でないと5回目を聴かされそうである。 俳優の今拓哉さん来る。気になっていたことが判った。今さん黒目が大きい。訊くと眼球自体が大きく、普通のコンタクトでは曲率が合わないそうである。本来“黒目がちな瞳”というのは美少女専用の表現であるが。

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オイルプリントは用紙にゼラチンを塗布したものを使用する。大正時代は市販のゼラチン紙が販売されていたが、現在は自分で制作しなければならない。塗布したゼラチン層が薄いと諧調の幅も薄く、朦朧とした粒子の粗い画は出るが、私が目標とした野島康三の濃厚な画面は得られない。しかし薬品問屋で入手したゼラチンは、室温が高いといつまでも固まらず、厚みのあるゼラチン紙を作るために寒い季節に作りだめをした。これはなかなか厄介な作業で、京都造形大と西武百貨店でおこなったワークショップでも、冬に室内の暖房を切っておこなった。 当時のオイルプリント紙はそれほどゼラチン層は厚くない。そのため、それを転写ししてプリントとする、『オイルプリントトランスファー』に移行していったものと思われる。暗部、中間部、明部と転写して、諧調の不足を補う。しかし、かつて一打一打祈るようにプリントしたことから(絵の具をブラシで叩くようにしてプリントする) 集中力を持って一回で完成させる方法にもこだわってみたい。 田村写真の田村さんによると写真用ゼラチンを使用することにより、室温に関係なくゼラチンを塗布することが出来るということで、さっそくゼラチン紙の試作をお願いした。いずれは号数によりゼラチン層の厚みを選べるようになれば、オイルにとどまらず、様々な古典技法に使用が可能であろう。 写真の一大欠点は製品に依存せざるを得ないところであろう。ああだこうだいっても製造中止になれば終わりである。その点オイルプリントなどのある種の古典技法は、会社員が会議で決めることにあまり左右されない。

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『コクリコ坂から』のCMはの少女のセリフは正確には「返事してるみたい」のようである。 
今年になり某書店で個展を、という話があるのだが、三島のことで頭が一杯で何をしてよいか浮かばず、そう答えていたのだが、本日も打診を受け、相変わらずの答えをしたのだが、せっかくの事でもあるし、と考えていて、ふと『ピクトリアリズム展2』はどうか、と思いついた。 すでに廃れて久しい『オイル“ピグメント”プリント』つまり油性顔料を使う写真の古典技法を主に大正時代の文献を元に、試作を開始したのが91年。一日だけの個展であったが初披露が99年。『ピクトリアリズム展』が00年。ジャズ・ブルースシリーズによる個展が01年。芥川龍之介の写真をスキャンしオイル化した作品が書籍の表紙にも使われた。ジャン・コクトー、ニジンスキー、ディアギレフによる個展が02年。京都造形大でのワークショップ及び展示が03年。そして04年の中井英夫のオマージュ展が最後の出品であったろう。再現に成功し、ある程度自分の物にしたと感じた時点で満足したところがあり、それきりになってしまったが、私としては人物像を制作し、撮影、オイルプリント化、というのはいずれの時代にも、そのような表現をしてきた人物はおらず、荒野にただ1人になれる状態。つまり私の望む“こんな馬鹿々しいことをやっているのは今時地球上に私一人であろう”という状態になれる、という気持ちは常に持っていた。当時、国内に話し相手がおらず、ネットを始めたことで海外の作家が集まるサイトにも一時出入りしたが、懐かしの故郷的な、懐古表現ばかりで嫌になって止めてしまった。 そんなわけでいずれ機会があれば、と考えていた。昨今の写真技術のデジタル化のためであろう、古典技法は世界的にも動きがあるようで、国内でも試みる人が増えてきたようである。今年も写真美術館で『芸術写真の精華 日本のピクトリアリズム 珠玉の名品展』があったばかりである。もっとも今日思いついたことなので、色々クリアーしないとならないこともあり、決定というわけにはいかないのであるが。なにしろ初江ちゃんが履く藁草履が届いて喜んだばかりである。

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ライターの妹尾美恵さんからジョニー・ウィンターのチケットがあるので、とお誘いいただいた。最近の映像を見た知人から話しを聞いて一度は断念したのだが、ボクシングも中止だし、せっかくなので行くことにした。CMでは元気な頃のライブ映像しか流さないが、いいのかそれで?
ここのところ二・二六事件の朝の再現を試みている。青年将校役の三島由紀夫が、様々な状態で配される予定である。先日のブログに書いたように、オイルプリント化して発表の可能性もでてきたが、二・二六でオイルプリントといえば想い出すことがある。  2000年に九段にあった画廊でオイルプリントの個展を開いた。99年に1日だけという特殊な形では初披露しているが、ちゃんとした個展としては始めてである。観に来ていただいた方々は、始めて眼にする技法であったろう。これはいったい何なんだろう、ということに終始し、絵の具を使う技法は、現代においては、いっそ版画の一技法だという方が判りやすいと思われた。しかし歴史的には写真という分類であるから、私が勝手に解釈を加えることは避けた。画廊主自体が最後までこの技法を把握することができずに終ったが、画廊としては限定何部、という写真、版画的な表記を求められたが、この場合、何部同じものがあるというのが前提だが、用紙を手作りし、ブラシで叩いて印画するこの技法では、データがあれば同じものが出来る他の写真技法と違い、このネガを使って今後何部しか作らない、という意味になる。 この前年、後に画像加工などすることなど考えもせず、HPを作るためウィンドウズを入手していたが、オイルプリントを広めるためにもホームページを作る必要を感じ、翌年このサイトを開設したのであった。 二・二六というのは、この画廊は千鳥ヶ淵と目と鼻、通りを隔てて靖国神社があり、事件当日戒厳司令部となった九段会館も近い。画廊のビルの地下では、決起軍将校がビラを印刷したと聞いていた。以前紹介したことがあるが、そこで撮ったのが、この1カットである。ネガフィルムには妙な物が蠢いている様子がハッキリ写っており、物によっては、尾をひいて、あきらかにホップしている。詳細に見ると床などにもかなりの数である。入ってきた方といきなり眼があうのも、と私は柱の陰に坐っており、回ってきた所で挨拶することにしていたが、室内に入ってきた気配があるのに誰もいない、ということが2回あった。私は基本的に、“そんなもの”があったら大空襲のあった東京なんかで暮らせるもんか、という立場である。それはそうだろう、どこぞのトンネル、どこぞの病院などというセコイレベルではないのだから。しかし“そんなもの”が人一倍好きだということは別な話しで、よって待望の1カットなのである。

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午後、田村写真の田村さんから朗報が届く。 91年、私は本業を脇に置いて、忘れられ廃れて久しい写真の古典技法『オイルプリント』の再現に挑んでいた。神田の古本街に通っては、当時の文献を集め、実験をくりかえしていた。市販のペーパーなどないので、工業用ゼラチンを溶かして紙に塗る。ところが当時の文献どおりにやっても紙に厚塗りが出来ない。ゼラチン層が薄いと諧調が出ないので、独自で厚塗りの工夫をしていった。室温が高いとゼラチンがいつまでも固まらず、よってペーパー作りは冬の寒い時期に限られていたが、文献には特に季節のことなど書かれておらず、このままでは厚塗りができないはずで、不思議であった。田村さんからの連絡は、アメリカより購入した写真用ゼラチンを使った所、工業用ゼラチンとは粘度が違っており、むしろ室温が高くないと、すぐに固まってしまうということであった。昔使われていたゼラチンと同質のゼラチンであろう。 オイルプリントに関してネットの情報といっても私のサイトくらいしかなく、けっこう参考にしてチャレンジしている人がいると聞く。これで私のオイルプリントのページも改訂版を制作しなければならないだろう。過去に京都造形大学、西武百貨店でオイルプリントのワー^クショップを行ったが、最初のペーパー作りのハードルが高かった。田村さんは将来的に、ゼラチンペーパーの制作販売も考えているという。事前にペーパーが用意されていれば、こんな面白い技法はないだろう。(おそらく子供にやらせて、もっとも喜びそうな写真技法でもある) 私は一人再現に挑み、個展まで開いたこの技法に愛着があり、人物像を作り写真を撮り、それをオイルにするという、これが私の作品の最終形態だと考えてきた。作りためたデータも、すべてオイルプリント化可能である。あの頃、写真家でもないのに、私は何をやっているのだ、と内心ハラハラしながら止められなかった。頭で止めても止まらない時は、それに従うほうが結果が良いと思ったのは10年後にオイルプリントの個展を開いた時である。私はこういうことをやろうとしていたのか、と。出来がもう一つの表層の脳よりマシななにかが私の中にある。以来“それ”に従ってきた。 次回の個展には紙を作ってオイルまで手が回らないと思っていたが、これで久しぶりにオイルプリントを披露することになるかもしれない。

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先日ホームページのカウンターが20万を越えた。有り難いものである。私がインターネットに興味を持ったのは1999年に、一人一日、1ヶ月間の個展というものがあり、その様子をネットで配信するということで、会場に置いてあったパソコンを見たのが最初であった。91年から独学でオイルプリントを始め、8年かかって、なんとか人前に出せるようになったか、ということで、その時はオイルプリントを1日だけ披露したのである。(一技術に10年かかると思い知った)今でこそ古典技法に興味をもつ人が増えたが、当時は惨憺たるものであった。日本人は未知のものを前に、まず感じるという運動神経が鈍く、どんな成分で出来ているのか知るまでは感じてなるものか、と無表情である。そして同じことばかり聞かれるので、ホームページを作り、オイルプリントがどういうものか載せたら良いのではと考えたわけである。だいたい人形作って写真に撮ってます、と口に出すたびいってる私がつまらなそうだとウンザリしていたので、説明しないで済まそうとも考えた。 イメージがすべてであり、ホントのことなどどうでも良く、マコトを写す写真という言葉を、蛇蝎のごとく嫌う私は、人形作って写真に撮り、デジタル加工してオイルプリントにするという、ウソの上塗りともいうべき行為に、もっとも愛着がある。そのわりにオイルプリントの新作を発表していないし、オイルプリントで検索しても私のことくらいしか出てこない。これはまったく問題であり、そろそろ再開も考えなければならない。乱歩から漱石までネタは随分たまっている。

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海外のオイルプリントのサイトを教わったので見てみると、その人物は紙にゼラチンを3回塗布している。気持ちは大変良く解る。 オイルプリントは、用紙にゼラチンを自身で塗布するところから始めるのだが、発明されて数年後、既成の印画紙を使用したブロムオイルに取って代わられていく。私が知る範囲では、満足する出来を見せているのは、繰り返し転写し、諧調の深みを加えたブロムオイルトランスファーのように思えるのだが、オイルプリントの場合は、ゼラチンの厚みを自分で工夫できるので、満足いく諧調を得るべく、私は過去のテキストを無視して、ゼラチンの量を増やし、厚み増して行ったのだが、この人物も同じことを考え、3回も塗ることにしたらしい。 爪の先ほどのことだからこそ、地球のどこかで同じ事を考えた人物がいることを知るのは、インターネットの面白さである。言葉さえ判れば会ってみたいくらいだが、こんな人物に限って、実際会ってみたら嫌な野朗だったりして。などと空想することも楽しい。

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