「蒲団」と「田舎教師」(PART 2 OF 4)
つまり、小百合さんの麦わら帽子の思い出が、回りまわって田山花袋の「田舎教師」に行き着いたと言うことでござ~♪~ますか?
そうですよう。
でも、なぜ今日、「蒲団」を持ち出してきたのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんが異常な関心を示したからですよう。
あたくしが異常な関心を。。。?
そうですよう。卑弥子さんは忘れてしまったようだから、次の対話を読んで思い出してくださいね。
小林秀三は中田遊郭へ
一度も行かなかったのではないか?
デンマンさんは、何が何でも現実の小林秀三さんは中田遊郭へ通わなかったと思い込みたいのでござ~♪~ますわね?
あのねぇ~、何度も言うけれど、小林秀三さんは中田遊郭へ行ったことを日記に一言も書いてないのですよう。
やましい事は日記に書かないものでござ~♪~ますわ。
卑弥子さん!。。。あなたは、何が何でも小林秀三さんを中田遊郭へ行かせたいのですか?
だってぇ~、小説には、そのように書いてあるのでござ~♪~ますわア!そうでしょう?
だから、そこが小説と現実の違うところですよう。
だったら、田山先生はどうして中田遊郭を持ち出したのでござ~♪~ますか?
小説家だからですよう。
でも、それでは、あたくしを説得するような答えになっていませんわ。
あのねぇ~、田山先生は「田舎教師」を書く2年前に、つまり、1907年(明治40年)に『蒲団(ふとん)』という有名な小説を書いたのですよう。
それが中田遊郭と関係あるのでござ~♪~ますか?
直接の関係はありません。でもねぇ、『蒲団』は一大センセーションを巻き起こした小説なのですよう。
どのようにでござ~♪~ますか?
あのねぇ~、中年作家の女弟子に寄せる複雑な感情を田山花袋は小説の中で描いたのですよう。つまり、女弟子に去られた男が、彼女の使用していた蒲団に顔をうずめて匂いを嗅ぐ。。。そして、さめざめと泣くのですよう。
あらっ。。。かなり刺激的な作品なのでござ~♪~ますわねぇ~。おほほほほほ。。。
おほほほじゃないですよう!そうゆう小説を「田舎教師」を書く2年前に書いたのですよう。だから、読者は同じような表現を小説の中に期待する。もし小林秀三さんの清く正しい生活をありのままに小説に書いたら、まるで道徳(修身)の教科書になってしまって、それでは小説が売れないのですよう!
つまり、小説が良く売れるように中田遊郭を持ち出したのでござ~♪~ますか?
違うのですよう。自然主義の小説というのは、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の小説でもなければ、道徳の教科書でもない。つまり、清濁併せ呑(せいだくあわせの)むような小説なのですよう。清く正しいことばかりを書いていたのでは自然主義の小説にならない!
そうでござ~♪~ましょうか?
卑弥子さんは、まだ僕の言葉を疑うのですかァ~?
だってぇ~、小説の中で主人公は中田遊郭に通うのでござ~♪~ますわ。だから、素直に小林秀三さんも中田遊郭に通ったと信じればよろしいではござ~♪~ませんか!
卑弥子さんは、どうして。。。、どうして。。。、中田遊郭にこだわるのですか?
だってぇ~、あたくしは小さな頃に花魁(おいらん)になりたかったのでござ~♪~ますわ。
『「田舎教師」再訪 (2009年9月12日)』より
つまり、あたくしが「かなり刺激的な作品なのでござ~♪~ますわねぇ~」と言ったので、デンマンさんは今日「蒲団」を取り上げる気になったのですか?
そうですよう。。。卑弥子さんが、きっと大喜びすると思ったのですよう。うししししし。。。
デンマンさんは、あたくしがエロい小説を3度のご飯よりも好きだと思い込んでいるのでござ~♪~ますか?
違うのですか?
それほどエロい小説が好きならば、あたくしはとっくの昔に「蒲団」を読んでいますわア~!
あのねぇ~、実は「蒲団」を取り上げたのは、この小説にも小百合さんと僕の不思議な因縁を感じたのですよう。
あらっ。。。エロい小説の中にデンマンさんは小百合さんとの因縁を感じてしまったのでござ~♪~ますか?
そうなのですよう。
あらっ。。。マジで?。。。本当でござ~♪~ますか?
卑弥子さん!。。。ヨダレをたらしながら、そのようにウェブカムに近づかないでくださいよう。
でも。。。、でも。。。、あたくし、とっても気になりますわよう。。。
卑弥子さん!。。。ヨダレをたらしながら、そのようにウェブカムに近づかないでくださいよう。。。近づきすぎですよう!。。。卑弥子さんの鼻の穴が。。。鼻の穴が。。。画面に大写しになっていますよう!。。。んも~♪~!
デンマンさん!。。。いい加減にしてくださいな!。。。どうか真面目に「蒲団」のお話を聞かせてくださいまし。。。
『蒲団』(ふとん)
田山花袋
田山花袋の中編小説。
「新小説」1907年8月号に掲載され、のち易風社から刊行された『花袋集』に収録された。
概要
花袋に師事していた弟子の岡田美知代とのかかわりをもとに描いた小説。
日本における自然主義文学、また私小説の出発点に位置する作品で、末尾において主人公が
女弟子の使っていた蒲団の匂いをかぐ場面など、性を露悪的にまで描き出した内容が当時の文壇とジャーナリズムに大きな反響を巻き起こした。
自分のことを暴露する小説としては、これより先に森鴎外の「舞姫」があったが、下層のドイツ人女性との恋愛の末妊娠させて捨てるという内容であり、女弟子に片想いをし、性欲の悶えを描くという花袋の手法ほどの衝撃は与えなかった。
小栗風葉は「中年の恋」という主題にのみ着目して、「蒲団」に続いて「恋ざめ」を書いたが、自然主義陣営の仲間入りはできなかった。
以後3年ほど、花袋は文壇に君臨したが、一般読者にはあまり受けなかった。
花袋の盟友ともいうべき島崎藤村は、その後、姪との情事を描いた『新生』を書いて花袋にも衝撃を与えたが、私小説の本格的な始まりは、大正2年の近松秋江「疑惑」と木村荘太「牽引」だとする説もある。
花袋や藤村はその後、むしろ平凡な日々を淡々と描く方向に向かった。
あらすじ (ネタバレ注意)
34歳くらいで、妻と三人の子供のある作家の竹中時雄のもとに、横山芳子という女学生が弟子入りを志願してくる。
始めは気の進まなかった時雄であったが、芳子と手紙をやりとりするうちにその将来性を見込み、師弟関係を結び芳子は上京してくる。
時雄と芳子の関係ははたから見ると仲のよい男女であったが、芳子の恋人である田中秀夫も芳子を追って上京してくる。
時雄は監視するために芳子を自らの家の2階に住まわせることにする。
だが芳子と秀夫の仲は時雄の想像以上に進んでいて、怒った時雄は芳子を破門し父親と共に帰らせる。
そして時雄は芳子のいない空虚感のために、芳子が寝ていた蒲団に顔をうずめ、泣くのであった。
岡田美知代(おかだ みちよ)
1940年アメリカ滞在中の美知代(55才)
1885(明治18)年4月15日 - 1968(昭和43)年1月19日
日本の文学者、雑誌記者。
田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン、横山芳子のモデルとして知られる。
広島県甲奴郡上下町(現・府中市上下町【じょうげちょう】)に豪商の長女として生まれる。
1898(明治31)年9月神戸女学院に入学するが、文学への志深く、1904(明治37)年2月退学して上京する。
1905(明治38)年、花袋に師事。
同年4月女子英学塾(現・津田塾大学)に入学する。
上京の途次、既知の永代静雄(ながよ しずお)と京都で会い親密な仲になる。
静雄との関係が花袋に知れて帰郷するが、その後『蒲団』が発表される。
再度上京して永代との間に長女千鶴子を儲け、1909年(明治42年)1月花袋の養女として永代と結婚。
3月長女を産んだのち11月いったん永代と別れるが、翌年4月再びともに富山へ行き1911年(明治44年)3月長男太刀男出産。
この間、いくつかの短篇を雑誌に発表する。
花袋の『妻』、『縁』にも登場する。
「ある女の手紙」は花袋への意趣返しの意味を持つ美知代の作品である。
1926年(大正15年)、永代と別れ、「主婦之友」記者として太刀男を連れてアメリカへ渡る。
アメリカで花田小太郎と再婚する。
しかし、花田は結核のため単身1927(昭和2)年に帰国。
1944年(昭和19年)、戦争のため帰国。実妹万寿代の嫁ぎ先の広島県庄原市に住んだ。
岡田美知代の生家は上下歴史文化資料館となっている。
永代 静雄(ながよ しずお)
1886(明治19)年2月12日 - 1944(昭和19)年8月10日)
日本の小説家、新聞記者。
田山花袋の小説『蒲団』のヒロイン横山芳子の恋人である田中のモデル。
兵庫県に生まれ、伯父の養子となり永代姓となる。
牧師となるため関西学院に入学、神戸教会に所属するが、同志社の神学部に移る。
花袋の弟子となっていた岡田美知代と恋仲になり上京するが仲を裂かれ、新聞記者をする。
1909年、美知代の妊娠により結婚。
同年離婚して関西に戻るが、再び上京して美知代と出奔、各地を転々とするが、最終的に美知代とは別れ、毎夕新聞に勤めたのち、新聞研究所を設立する。
この間、『不思議の国のアリス』の日本での初訳を行ったほか、主に湘南生のペンネームで大衆小説や少年向きSFを多く執筆した。
主な作品に、徳富蘆花の『小説 不如帰』のSFパロディである『小説 終篇不如帰』など。
1933年(昭和8年)ころより伝書鳩研究に専念し、雑誌『普鳩』を発行した。
『蒲団』での静雄像は歪められていると、後年美知代は書いている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どうですか、卑弥子さん。。。『ウィキペディア』で、これだけの事を調べて書き出したのだけれど、大体、小説の内容がつかめたでしょう?
。。。んで、小説を読むと、もっとエロい事が書いてあるのでござ~♪~ますか?
「
女弟子の使っていた蒲団の匂いをかぐ場面など、性を露悪的にまで描き出した内容」と書いてあるけれど、いわゆる現代的な意味でのエロい事は書いてありません。もちろん、「エロい」と言う定義は人によってまちまちだけれど、現在の男性週刊誌などに克明に書かれている性のテクニックなどは全く書いてありません。
。。。んで、デンマンさんは読んでみて、どうでござ~♪~ました。
田山花袋先生がこの小説を書いた明治時代に読めば確かにセンセーショナルな内容だったかもしれません。でもねぇ、僕は読んでちょっとがっかりしましたよう。
なぜでござ~♪~ますか?
僕は、描写力だとか、文章の美しさ、話の組み立ての見事さ。。。そういうものを期待していたのですよう。
そういう物はなかったのでござ~♪~ますか?
僕はねぇ、田山花袋先生は習作のつもりで「蒲団」を書いたのではないかと思ったほどですよう。
なぜでござ~♪~ますか?
『ウィキペディア』の説明にも次のように書いてある。
花袋はその後、むしろ平凡な日々を
淡々と描く方向に向かった。
つまり、田山花袋先生の目指していたものは私小説的な小説ではなかったと言うことでござ~♪~ますか?
僕は、そう思ったのですよう。
どう言う訳で。。。?
あのねぇ~、田山花袋先生は明治37(1904)年3月から日露戦争の私設写真班の一員として博文館から派遣されて従軍したのです。ところが、体を壊して9月に帰国した。たまたま建福寺に住職・太田玉茗(ぎょくめい)を訪ねた時に、墓地で「小林秀三之墓」という墓標を目にしたのですよう。
それで。。。?
だから、それが「田舎教師」を書くきっかけになったのですよう。小林秀三さんの墓を見ながら花袋先生は、「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」を書いてみようと思い立った。幸いに秀三さんの日記が中学生時代と小学校教師時代と死ぬ年の1年分とが住職の手許にあった。それを基にして旧友たちに取材し、5年の歳月をかけて小説を書き上げたのですよう。「田舎教師」の初版は明治42(1909)年10月25日に佐久良書房から出版されたのですよう。
デンマンさんの言おうとなさっている事があたくしには良くわかりませんわ。
あのねぇ~、「蒲団」は1907年8月号に掲載された。
つまり、「蒲団」を発表した時には田山先生は、すでに3年ほど「田舎教師」を書き進めていたのでござ~♪~ますわね?
そうですよう。つまりねぇ、田山先生は試行錯誤しながら日本の近代小説を生み出そうとしていた。
そうやって習作していた一つの作品が「蒲団」だとデンマンさんは見るのでござ~♪~ますか?
そうですよう。知っている事から書く、身近なところから書く。。。それが小説を書く基本だと思いますよう。それで、田山先生は女弟子の岡田美知代さんを取り上げて「蒲団」を書いた。
でも、それは田山先生の本命(ほんめい)の作品ではなかったのでござ~♪~ますか?
その後の田山先生の作品を見れば、はっきりしていますよう。田山先生の関心が「志を抱き乍(なが)ら空しく田舎に埋もれて行く青年の一生」に移っていたのですよう。
つまり、「蒲団」を発表する頃には、関心は「田舎教師」に移っていたと。。。?
そうですよう。だから、「蒲団」を読むと、完成された美しさが無い。
具体的には、どう言う事でござ~♪~ますか?
描写力だとか、文章の美しさ、話の組み立ての見事さ。。。そういうものが僕には感じ取れなかったのですよう。田山先生は、主人公に起こった出来事を直線的に並べて書いているに過ぎない。推理小説のような構成には全く無頓着(むとんちゃく)。もちろん、推理小説ではないのだから、それほど構成にこだわる必要はない。でも、主人公の視点で書かれてると思ったら、いきなり妻の視点に切り替わったり、女弟子の視点に切り替わったりする。いかにも、習作を書きながら、どのような近代小説を書き上げたら良いのか?試行錯誤している様子が文章の書き方に表れている。
要するに「蒲団」を書き上げる頃には、本命の「田舎教師」の方に関心がすっかり移っていたのでござ~♪~ますか?
僕は、そう思いますよう。実際、「田舎教師」の方が読み応(ごた)えがありますからね。。。
たとえば、どう言う所が読み応えがあるのでござ~♪~ますか?
(すぐ下のページへ続く)