禁忌の愛
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卑弥子さんと業平さんの話を
でっち上げた根拠は何でしょうか?
卑弥子さんとレンゲさんの楽しい対話を読ませてもらいました。
しかし、当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められない、と『ウィキペディア』にも書いてありますよね。
歴史的観点から見るならば、『伊勢物語』の斎宮と「狩の使」は恬子内親王と在原業平ではない、ということになります。
つまり、卑弥子さんと業平さんは一夜の契りを持たなかったことになります。
それにもかかわらず、上のような話をでっち上げた根拠は何でしょうか?
歴史バカにも分かりやすく説明してくれるとありがたいです。
よろしく。
by 歴史バカ
2008年2月17日午後7時21分
『女の秘め事 (2008年2月17日)』のコメント欄より
恬子(やすいこ)内親王の事は書いてある!
『伊勢物語』の第69段の最後には、「斎宮は水の尾の御時、文徳天皇の御むすめ、惟喬の親王の妹」と記されているのですよ。この斎宮になった妹は恬子内親王以外には居ないのです。
あらっ!ちゃんと書いてあるのですわね?
レンゲさん、とぼけないでくださいよ。この資料はレンゲさんが持ち出してきたのですよ。
そうだったかしら?
やだなあああぁ~。。。次の記事の中でレンゲさんと対話している時にレンゲさんが持ち出したのですよ。
■
『年上の女の情念 (2007年1月21日)』
もう1年以上も前の事ですわ。言われて思い出しましたけれど、すっかり忘れていましたわ。
とにかく、上の説明の中で最も重要な事は「藤原道長の時代に公けの場で語られ」たと言う事ですよ。
つまり、今風に言えば、国会、あるいは予算委員会の場で議論されたという事になるのですね?
その通りですよ。
公の場で語られるほどに、恬子(やすいこ)内親王が斎宮であった時に子供を身ごもった事実が公然の秘密になっていたと言う事ですよ。単なる御伽噺(おとぎばなし)やうわさを国会や予算委員会で取り上げたら、その国会議員は笑いものになってしまうでしょうね。その事を考えれば、「斎宮懐妊事件」は当時でも知る人ぞ知る「某重大事件」になっていた事が、このような資料から充分に理解できるのですよ。
つまり、デンマンさんは斎宮寮の記録は意図的に抹消された可能性があるとおっしゃるのですか?
そうですよ。だから当時の記録には、在原業平(ありわらのなりひら)が狩の使で伊勢に派遣された事が記載されてないのですよ。
そうでしょうか?
記録が抹消されたにもかかわらず、なぜ恬子(やすいこ)内親王と在原業平の関係が伊勢物語の中で語られているのか?
なぜですの?
語って世に伝えなければならないと考えた人が居たからですよ。
その人とは。。。?
『愛と真実 (2008年2月21日)』より
デンマンさん。。。おとといは、これから盛り上がるところで。。。ちょうど良いところで終わってしまったのですわア。
うん、うん、うん。。。今日は、その続きを語ろうと思うのですよ。
。。。で、『伊勢物語』の編者は一体誰なのですか?
レンゲさん。。。そう、あせらないでくださいよ。物事には順序と言うものがあるのですよ。
分かりますわ。でも、この際、順序なんかどうでもいいのですわ。あたしにだけ、こっそりと教えてくださいなぁ。
そう言う訳には行きませんよ。物事の順序どおりにやらないと、レンゲさんにだけ耳打ちしたところで、“まさかあああぁ~。。。それって、ないでしょう?”と言われてしまうのですよ。
デンマンさんのことですから、また、回りくどい説明になるのでしょう?
でも、そうしないと、また“歴史バカ”さんのようなせっかちな人がコメントを書くのですよ。僕の話を最後まで読めば納得できるのに、良く読まないで、そのときの思いつきでコメントを書いてしまう。
コメントってそう言うものでしょう?その時に感じた事を書くのでしょう?
そうですよ。しかし同じコメントでも、うっかりコメントと慎重コメントがありますよ。
“歴史バカ”さんのコメントはうっかりコメントなのですか?
だって、そうでしょう。。。GOOGLEで、ちょっと調べれば、『伊勢物語』に出てくる斎宮は恬子(やすいこ)内親王だと書いてあるのですよ。
でも、「狩の使」が在原業平(ありわらのなりひら)さんだとは書かれていませんわ。
確かにそうです。でもねぇ、僕の話を最後まで読めば分かるのですよ。最後まで読まずにコメントを書いたから、うっかりコメントなんですよ。
分かりましたわ。時間がありませんわ。回りくどい説明を始めてくださいな。。。で、どこから始めるのですか?
恬子(やすいこ)内親王がなぜ斎宮に選ばれたのか?。。。ここから話を始めようと思うのですよ。
それって。。。占いで選ぶのでしょう?
レンゲさんは良く知っていますねぇ~。そうなんですよう。では、そこのところを『ウィキペディア』で見てみますね。
恬子内親王(やすいこないしんのう)
生まれは848年頃
延喜13年6月18日(西暦913年7月24日)に亡くなる。
第31代伊勢斎宮。
父は文徳天皇、
母は更衣・紀静子。
同母兄に惟喬親王がいる。
貞観元年(859年)、清和天皇の即位にともなって
斎宮に卜定、
貞観3年(861年)に伊勢に下る。
『三代実録』によると、
発遣の儀は天皇自身ではなく、
右大臣の藤原良相が代理であたったという。
貞観8年(866年)2月、
母親の静子更衣が亡くなるも退下の宣勅は下りず。
貞観18年(876年)、清和天皇が陽成天皇に譲位したことにより、ようやく斎宮を退下。
翌元慶元年(877年)4月、
妹・珍子内親王を亡くす。
恬子内親王本人は比較的長命だったらしく、その後、陽成天皇以下三代の天皇が交代し、醍醐天皇の治世まで生きた。
古典『伊勢物語』において、一説には書名の由来ともされる人物。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「卜定(ぼくじょう)」と言うのは、亀の甲羅(こうら)を火であぶって、ヒビ割れのしかたを見て占うものです。これによって誰を斎宮にするか選んだ。
この卜定に何か問題があるのですか?
全く無いとは言えないのですよう。
どう言う事ですか?
右大臣の藤原良相(よしみ)は、早くから恬子内親王を“危険人物”だと見ていたようですよ。
“危険人物”って、どう言う事ですか?
この藤原良相の経歴を読むと分かりますよ。
藤原良相(よしみ)
弘仁4年(813年)に生まれる。
貞観9年10月10日(西暦867年11月9日)に亡くなる。
父は藤原冬嗣、母は藤原美都子。
兄弟に長良、良房らがある。
号は西三条大臣。
834年(承和元年)に蔵人になる。
承和の変に際して近衛兵を率いて兵仗を収める。
848年(嘉祥元年)に参議、右大弁などを経て、851年(仁寿元年)従三位中納言となり、857年(天安元年)右大臣となる。
清和天皇に娘の多美子を入内させ、また周囲からの人望も厚かったことから、政権の首座にあった兄良房からは常に警戒される存在であった。
866年(貞観8年)の応天門の変に際し、伴善男(とものよしお)の告発を受け一旦は左大臣源信(みなもとのまこと)の逮捕命令を下すが、信の無実を訴えた良房によってこれを阻止され、以降は影響力を失った。
翌867年(貞観9年)に死去。贈正一位。
今昔物語集に収録された説話の中では、一旦病を得て死去し地獄で閻魔大王の目前に引き据えらるが、小野篁(おののたかむら)の執り成しによって赦され冥界から帰還した、と記されている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤原良相は自分の娘を清和天皇に差し出したのですよ。つまり、娘が天皇の子供を身ごもって男の子が生まれれば、自分は外祖父として権力が握れる。そう言う考えを持っていた。だから、時の権力者だった兄の藤原良房からは常に警戒される存在だったのですよ。
でも、その事と恬子内親王と、どのような関係があるのですか?
やだなあああぁ~。。。惚(とぼ)けないでくださいよ。知能指数が140もあるレンゲさんに分からないはずが無いでしょう?藤原良相の目から見れば恬子内親王は自分の娘のライバルですよ。
つまり、藤原良相は自分の娘を天皇に嫁がせるために、できるだけ候補者を少なくしようとしたと。。。
そうですよ。そのためには美しくて聡明で将来娘のライバルとなるような娘は都から遠ざけるに限るのですよ。それで、藤原良相は恬子内親王を斎宮として伊勢へ閉じ込めてしまったのですよ。。。上の経歴を読むと、そう考えるのがごく自然ですよ。
それはデンマンさんの個人的な見解だと思いますわ。
分かりました。では、僕の個人的な見解ではない事を語りましょう。
どう言う事ですか?
上の経歴を読むと不自然な事が書いてあるのですよ。
不自然な事ですか?
そうですよ。
貞観8年(866年)2月、
母親の静子更衣が亡くなるも
退下の宣勅は下りず。
慣例では、母親が亡くなった場合には斎宮は勤めを辞める事ができたのですよ。それが慣(なら)わしだった。実際の例を次に書きますよ。
徽子女王(よしこじょおう)
延長7年(929年)に誕生。
寛和元年(985年)に亡くなる。
歌人。醍醐天皇皇孫。
承平6年(936年)、時の斎宮斉子内親王(醍醐天皇皇女)の急逝により、8歳で伊勢斎宮に選ばれる。
天慶元年(938年)、10歳で伊勢へ下向。
この時の発遣の儀(出発前の儀式)は朱雀天皇が物忌中のため、外祖父の摂政忠平が執り行い、また群行には長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)として伯父の中納言藤原師輔が同行した。
天慶8年(945年)、母の死により17歳で退下、帰京。
天暦2年(948年)、叔父村上天皇に請われて20歳で入内し、同3年(949年)女御の宣旨を受ける。
局を承香殿としたことから承香殿女御、また父重明親王の肩書から式部卿の女御などと称されたが、前斎宮であった故の「斎宮女御」の通称が最もよく知られている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天皇の娘ならば“内親王”と呼ばれるのだけれど、この女性は醍醐天皇の娘ではなく孫娘だった。それで女王と呼ばれているのです。この女性の経歴を見れば分かるように「母の死により17歳で退下」と書いてあります。これが慣(なら)わしだったのですよ。
なぜ、恬子内親王はお母さんが亡くなったのに斎宮を辞める事ができなかったのですか?
だから、藤原良相が辞めさせなかったのですよ。
なぜ。。。?
徽子女王の経歴を見てくださいよ。お母さんが亡くなったので17歳で斎宮を辞めて京に戻ったのですよ。すると、叔父の村上天皇に請われて20才で入内した、と書いてある。つまり、村上天皇の妻の一人になったのですよ。
お母さんが亡くなった時、恬子内親王は18才ですよね?。。。と言う事は、恬子内親王が斎宮を辞めた場合、天皇が内親王を妻の一人として招くかもしれない。藤原良相は、その事を心配して恬子内親王を斎宮のままにしておいたのですか?
その通りですよ。とにかく藤原氏以外の女性に天皇が子を産ませる事を藤原氏は極力避けていたのですよ。恬子内親王は紀氏出身ですからね。
つまり、紀氏は藤原氏のライバルだったのですか?
そうですよ。この当時、紀氏の中から優秀な人が出始めていたのですよ。
紀氏を退けようとする動きが実際にあったのですか?
あったのですよ。「応天門の変」と言う政治事件があったのですよ。
応天門の変
応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。
大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。
源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。
応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。
これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。
藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。
参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。
朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した
紀夏井らが処分された。
また、この処分から程無く
源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった
藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この事件は結局、藤原良房に“漁夫の利”をもたらす事になったのですよ。伴氏・紀氏ばかりか、ライバルの藤原良相を退(しりぞ)ける事もできた。また、そうなるように藤原基経(もとつね)が裏で動いていたのが見えてきますよ。結果として藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功したのですよ。
『伊勢物語』の中に登場する藤原高子(たかいこ)の兄がこの藤原基経ですか?
そうですよ。在原業平と藤原高子が駆け落ちするのですよ。その妹を連れ戻しに来るのが兄であるこの藤原基経ですよ。つまり、この基経は政略・陰謀に長(た)けていて裏で動き回るだけでなく、恋路(こいじ)の邪魔をする男としても伊勢物語の中に書かれてしまっているのですよ。
でも、この「応天門の変」と恬子内親王は関係があるのですか?
なさそうに見えるでしょう?。。。ところが、関係があるのですよ。この事件に連座して処分を受けた紀夏井(きのなつい)を調べると次のような事が分かるのですよ。