愛の歌、恋の歌
愛の歌 恋の歌 |
うた(短歌)で気持ちを伝えるなんて
学校の授業でしか やってません。
チョコも雪も溶かしてしまうほど、
熱を感じました。
寒い冬でこそ いい歌です。
それをまた デンマンさんが返して歌を送って、
いいバレンタインですね。
小百合より
『平成の平安 (2008年2月18日)』より
うん、うん、うん。。。
小百合さんに、このように思われたなんて、
メチャ感激ですよゥ!
バンザーィ!!
\(@_@)/ キャハハハ。。。
わたしはロマンチストでは
ないのだと思います。
2007-04-28
わたしのテーマは、あくまでも人生観,世界観であり、寓意的な言葉の中に、恋愛の陰喩はほとんどありません。
それは少女時代から今にいたるまで、性愛はわたしのテーマではないからなのです。
実生活での最大の関心事が、恋愛ではないからです。
例えば、どれほど好きな相手がいても、その気持ちを,詩にあらわすことはほとんどないのです。
自分の書いたものは、どのようにも解釈していただくことも、まったく読者のみなさまの自由です。
しかしながら、完全なる戯作が多い恋愛詩から、わたしの精神が、性愛への渇望に悩まされているかのように、解釈されてしまい、それを事実として認識なさっておられるのだとすれば、少々残念なことです。
人間とは、脳の発達しすぎた生物にすぎず、そのために生じる感情を、美しいものだとは思わないのです。
わたしが特に、追求したいものは、血なまぐさい生命の持つ、発達しすぎた頭脳が引き起こす醜い事件、戦争、葛藤などです。
わたしはロマンチストではないのだと思います。
恋愛を描くのは、あくまでも小説のための習作の延長なのです。
話がそれてしまって申し訳ありません。
デンマンさんを信じて、これからもおつきあいさせていただきたいことを、わかっていただきたくて、忌憚なく書かせていただきました。
どうか、この気持ちを察してください。
by merange
デンマンさんは、めれんげさんがこのように書いていたのを知っているのでござ~♪~ますか?
もちろん、知っていますよ。
つまり、めれんげさんが愛の詩や恋の短歌を書くのは、「あくまでも小説のための習作の延長です」、と言っているのでござ~♪~ますわ。
そうですよ。
。。。んで、デンマンさんは、そのことを知っていながら、メチャ喜んでしまったのでござ~♪~ますか?
うへへへへ。。。そうですゥ。
つまり、次の短歌も習作の延長としてめれんげさんが書いたものでござ~♪~ますわ。
そうですよ。めれんげさんが「あくまでも小説のための習作の延長で」書いている事を僕は充分に知っていますよ。
それなのに、デンマンさんはマジで有頂天になって次の短歌を書いたのでござ~♪~ますか?
そうですよう。うしししし。。。
妹のぬくもり
朽ちるとも
妹(いも)のぬくもり
この胸に
秘めて常世(とこよ)の
果ての果てまで
by 心の恋人 (デンマン)
2008年2月14日 午後7時21分
『即興の詩 (朽ちてなお)』のコメント欄より
僕が有頂天になって書いてはいけませんか?
だって。。。それでは、誰が見てもアホとしか言いようがありませんわ。デンマンさんの返歌を読めば、小百合さんでなくとも「チョコも雪も溶かしてしまうほど、熱を感じ」てしまうのでござ~♪~ますわ。
卑弥子さんも、そう感じたのですか?
メチャ、メチャに感じてしまいましたわア~♪~。久しぶりに在原業平(ありわらのなりひら)さまに寄せる熱い思いが胸にこみ上げてきて、あたくしは一人寝がとっても。。。とっても寂しく、寝苦しい夜を過ごしたのでござ~♪~ますわア。
ほォ~~ 卑弥子さんでも一人寝が寂しくなることがあるのですか?
もちろんでござ~♪~ますわ。あたくしの体には熱い血潮がみなぎっているのでござ~♪~ますわ。デンマンさんが書いたような萌え萌えの短歌を読むと、あたくしの血潮は沸きあがるのでござ~♪~ますわ。でも。。。でも。。。
でも、なんですか?
でも、そのデンマンさんの返歌が、めれんげさんが習作で書いた愛の短歌に対するものだと知ったとき、デンマンさんが、まるで操(あやつ)り人形のように踊らされているのを感じて、滑稽に思えたのでござ~♪~ますわア。さらに。。。、さらに、デンマンさんの短歌を初めて読んだとき、あたくしまでがメチャ感動してしまった事を、アホらしく思ったものですわア~♪~。
だからぁ~、僕はすでに何度も阿波踊りの画像を貼り付けて囃子(はやし)文句も書きましたよ。卑弥子さんも、もう一度じっくりと読んでみてくださいよ。
えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、
よいよいよいよいィ~♪~
踊るアホ~にィ♪、見るアホ~♪
同じアホなら踊りゃにゃソン損~♪~
えらいやっちゃ♪、えらいこっちゃ♪、
よいよいよいよいィ~♪~
つまり、デンマンさんは何もかも知っていて、“ぬか喜び”したのでござ~♪~ますか?
卑弥子さんは“ぬか喜び”と言うけれど、そう言ってしまえば、あの阿波踊りを踊っている人たちの喜びだって“ぬか喜び”とたいして変わりがないのですよ。テレビで阿波踊りを見ている人の多くは、“あんなことして何が面白いのォ~?”と思っている人だって、けっこう居るのですよう。
そうでござ~♪~ましょうか?
そうですよう。ちょうど、卑弥子さんが僕のことをアホかいなあああぁ~、と思っているようなものですよ。この事は、おとといも書きましたよ。
デンマンさんはアホかいなぁ!?
デンマンさんは、ネット市民の皆様が呆れながら短歌を読んでいると言うことをご存知なのでござ~♪~ますわねぇ?
うしししし。。。知っているのですよう。 卑弥子さんだって、内心では僕のことをアホかいなあああぁ~!。。。と思っているのでしょう?
やっぱりデンマンさんは、あたくしの心が分かるのでござ~♪~ますわねぇ~ おほほほほ。。。
分かりますよ。良~♪~く分かりますよゥ。
分かっていて、このように自慢げにネット市民の皆様の前で、ご自分の短歌とお相手の女性の短歌を公開するのでござ~♪~ますか?
そうですよ。。。いけませんか?
デンマンさんが口癖のようにおっしゃっているように、ネチケットを守ればネットで何をなさってもご自由でござ~♪~ますわア。
卑弥子さんだって、そう思うでしょう?だから僕はめれんげさんと僕の短歌をこうして記事の中に引用したのですよ。
でも、デンマンさんは次のように書いていますわ。
でもねぇ、人によったら、
デンマンと言う男は、こんな事までネットで書いて、
みんなに示して、いい気なもんだねええええ~
あいつ馬鹿じゃないのォ~?
そう思う人がほとんどだと思うのですよねぇ~♪~!?
うへへへへ。。。
このように、ほとんどの人がデンマンさんの短歌を読んで、“あいつ馬鹿じゃないのォ~?”と思うのでござ~♪~ますわよう。
『平成の平安 (2008年2月18日)』より
何もかも知っていて、どうしてそれほどまでにデンマンさんは素直に喜べるのでござ~♪~ますか?
その答えは、卑弥子さんが京都の女子大学で「源氏物語と日本文化」を講義した、その講義録の中に見い出す事ができますよ。
あたくしの講義でござ~♪~ますか?
そうですよう。卑弥子さんが京都の女子大学で講義している講義録を僕は密かに取り寄せて読んでみたのですよ。あなたは、『伊勢物語』と『源氏物語』について、美しい女子大生の前で十二単を着ながら次のように講義していたのですよ。
恋愛において女性は、
男性の誘いを作法として拒否する
『伊勢物語』に登場する在原業平や、『源氏物語』の光源氏などから導き出される“色男”の条件は次のようなものでござ~♪~ますわ。
(1)美貌
(2)和歌の才能
(3)皇統に繋がりのある貴種
(1)はひとそれぞれの価値判断によって異なりますから、
この際、あなた方一人一人の価値判断の基準に任せるとして、
(2)に注目すると、当時の“色男”は、歌の贈答において和歌の才能を発揮しなければならなかったのでござ~♪~ます。
この和歌の才能と申しますのは、男が相手の女の魂深くに作用して、やがてその心を魅了する能力のことなのでござ~♪~ますわ。
また、女性にとっても、和歌の素養は美徳とされていたのでござ~♪~ます。
ただし、恋愛においては、男性の誘いを作法として拒否するための、批評性をもった歌が要求されたのです。
そのような訳で、“色女”とは、歌を切り返す才能をもった女という評価だと考えることもできるのでござ~♪~ます。
また、“色女”が、相手を翻弄するかのように誤解されてきたのは、
「女歌」特有の拒否の表現が、
人物の性格そのもののように読みとられたから、
という仮説が立てられるのではないでしょうか。
(3)の貴種でござ~♪~ますが、具体的には、在原業平が史実において平城帝の子の阿保親王を父とする二世源氏であることや、光源氏が桐壺帝の子であることを指すのでござ~♪~ますわ。
しかし、“色女”の場合には、『伊勢物語』の用例をみるかぎり、
皇統には繋がりがなさそうでござ~♪~ます。
というよりは記されていないのでござ~♪~ますわ。
同じ“色好み”でも男性と女性には、身分差があるように思えてならないのでござ~♪~ます。
とりわけ注目すべきは、業平と光源氏が、世が世なら皇位に即いたかもしれず、“色男”としての資質をもった人物として造型されていることでござ~♪~ます。
しかし、物語内に他の正当な帝が存在する以上、二人にとって“色好み”とは、帝の妻や斎宮(いつきのみや)との恋愛関係、つまり皇権への侵犯をもたらすものでしかなかったのでござ~♪~ます。
では、なぜ、これが女性の“色好み”には適応されないのでござ~♪~ましょうか?
例えば、『伊勢物語』第三~六段の二条后関連章段において、
「男」の相手は後に清和帝の妻となり陽成帝の母となる藤原高子(たかいこ)とされております。
業平よりも身分が高いのでござ~♪~ます。
二人は身分違いの恋に落ち男が女をさらって逃げるのでござ~♪~ますが、
女の親兄弟(特に、藤原基経)に強引に引き裂かれてしまうのでござ~♪~ますわ。
物語には男性の和歌のみが採られ、男性の心情を中心に話が展開いたします。
では、『伊勢物語』第六十九段はどうでござ~♪~ましょうか?
文徳皇女恬子(やすいこ)と伝えられる「斎宮(いつきのみや)なりける人」が、
朝廷の使者である「男(業平と言われている)」の求めに応じて寝所にやって来るものの、満足に語らえない。
伊勢神宮に仕える斎宮として、
身体の清浄を保たなければならない女が、
禁忌を破って男性のもとに逢いにくる。
二人の間には、一夜限りの逢瀬の後と別れの晩の二度歌が交されますが、
両方とも女性の方から詠みかけているのでござ~♪~ます。
二条后関連章段も伊勢斎宮章段も、
業平の“色好み”を証明するエピソードのように言われているのでござ~♪~ます。
しかしながら、特に第六十九段など、女の方が身分が高く、
自ら進んで禁忌を犯すための行動に出ております。
つまり、条件だけをみれば、“色男”に極めて近いのでござ~♪~ます。
むしろ、“色男”にまさるような“色女”が居たのでござ~♪~ます。
その“色女”こそ、斎宮であった恬子内親王だと申し上げる事ができると思います。