愛と怨霊
愛と怨霊 |
卑弥子さんと業平さんの話を
でっち上げた根拠は
何でしょうか?
卑弥子さんとレンゲさんの楽しい対話を読ませてもらいました。
しかし、当時の史料からは、業平が狩の使で伊勢に派遣された事実は認められない、と『ウィキペディア』にも書いてありますよね。
歴史的観点から見るならば、『伊勢物語』の斎宮と「狩の使」は恬子内親王と在原業平ではない、ということになります。
つまり、卑弥子さんと業平さんは一夜の契りを持たなかったことになります。
それにもかかわらず、上のような話をでっち上げた根拠は何でしょうか?
歴史バカにも分かりやすく説明してくれるとありがたいです。
よろしく。
by 歴史バカ
2008年2月17日午後7時21分
『女の秘め事 (2008年2月17日)』のコメント欄より
デンマンさん。。。この“歴史バカ”さんってウンコマンのことですか?うふふふふ。。。
どうして、レンゲさんは、そう思ったのですか?
だって。。。デンマンさんがウンチの画像を貼り付けましたわ。これは一昨日には無かったものですわア。
気づかないだろうと思ったのですが、レンゲさんにも分かりましたか?
分かりますわよゥ。誰だって、可笑しなモノが歴史バカさんの隣に付いていると思いますわよう。
そうですか。。。気づきましたか。。。
それで。。。歴史バカさんはウンコマンなのですか?
違うのですよう。
ち。。。ちがう。。。違うのですかア?。。。そ。。。それ。。。それなのに、どうしてウンチの画像など貼り付けたのですか?
ウンコマンも歴史バカも、どちらも同じ穴の狢(ムジナ)だからですよ。
ええっ。。。同じ穴のムジナ。。。?
そうですよ。ウンコマンも歴史バカも本質的に愚か者ですよ。うしししし。。。ウンコマンについて知りたい人も居るでしょうから、リンクを貼っておきます。
■ 『ウンコマンとDEMPA55 (2007年7月23日)』
この記事を読めば、僕が言う“ウンコマン”のことが詳しく分かりますよ。アニメや漫画のウンコマンの事ではありません。僕の言う“ウンコマン”と言うのは、かつてDEMPA55と名乗っていた愚かな男です。ネカマの気(け)が、かなりありますよう。
それで。。。ウンコマンと歴史バカさんは別人なのですか?
別人です。
どうして分かるのですか?
ウンコマン(DEMPA55) は歴史には全く関心がありません。学校の社会科ができなかったのですよ。いつも通信簿は1か2でしたよ。うへへへへ。。。それで、日本史も世界史も勉強しなかったのですよ。だから、歴史に関することは小学生並みの知識しかないのですよ。そう言う訳だから、僕の歴史の記事に、これまでコメントを書いたことがない。
。。。で、この歴史バカさんは、どうしてウンコマン(DEMPA55)と同じ穴のムジナなのですか?
つまりねぇ、この歴史バカも、歴史に興味があるわけじゃないのですよ。本当に僕の歴史の記事に関心があるのならば、僕がこれまでに懇切丁寧に反論を書いたのだから、返信を書いてもいいのですよ。でも、歴史に関心があるわけじゃない。表面的なことを取り上げて茶化したに過ぎないのですよ。この愚か者にとって、卑弥子さんと業平さんが一夜の契りを持ったか?持たなかったか?そんな事は、この愚か者には初めからどうでも良かった事ですよう。
それなのに、なぜコメントを書いたのですか?
だから、2ちゃんねるで遊んでいるつもりになったのですよ。いつもの癖で、茶化したくなったのですよ。つまり、退屈紛れに書いただけですよう。
そうでしょうか?。。。で、デンマンさんは不貞腐(ふてくさ)れて、もうこの話題について書かないのですか?
“バカとはさみの使いよう!”
こういう諺もあるでしょう?せっかく愚か者が時間を割(さ)いてコメントを書いてくれたのですよ。僕は初め、結構マジなコメントかと思ったのですよ。でもねぇ、今になって思えば、僕がマジになってこの愚か者のコメントに答えた事は半分馬鹿バカしい事でしたよ。
だから、もう、これ以上書かないのですか?
でもねぇ、書き出したらば、この愚か者のおかげで『伊勢物語』の本当の意味が見えてきましたよ。
ええっ。。。『伊勢物語』の本当の意味ですか?
そうですよ。。。だから、今日はその事について書こうと思うのですよ。
御霊(みたま)を
鎮(しず)めるために…
紀氏の中には珍子(よしこ)内親王や紀夏井を含めて、恨みを呑んで死んでいった者がたくさん居るのですよ。
つまり、そのような人たちが怨霊になって祟(たた)りを引き起こすと思われたのですね?
怨霊信仰
非業の死を遂げたものの霊を畏怖し、
これを融和してその崇りを免れ安穏を確保しようとする信仰。
原始的な信仰では死霊はすべて畏怖の対象となったが、わけても怨みをのんで死んだものの霊、その子孫によって祀(まつ)られることのない霊は人々に崇りをなすと信じられ、疫病や飢饉その他の天災があると、その原因は多くそれら怨霊や祀られざる亡霊の崇りとされた。
『日本書紀』崇神天皇七年・・天皇が疫病流行の所由を卜して、神託により大物主神の児大田田根子を捜し求めて、かれをして大物主神を祀らしめたところ、よく天下大平を得たとあるのは厳密な意味ではただちに御霊信仰と同一視し難いとはいえ、その心意には共通するものがあり、御霊信仰の起源がきわめて古きにあったことを思わしめる。
しかし一般にその信仰の盛んになったのは平安時代以後のことで、特に御霊の主体として特定の個人、多くは政治的失脚者の名が挙げられてその霊が盛んに祭られるようになる。
その文献上の初見は『三代実録』貞観五年(863)「所謂御霊者 崇道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(吉子)及観察使(藤原仲成か)、橘逸勢文室宮田麻呂等是也。・・・」ものと注せられているが、この六所の名については異説もあり、後世さらに吉備大臣(真備)ならびに火雷神(菅原道真)を加えてこれを八所御霊と呼ぶようになった。・・・」
SOURCE: 国史大辞典
その通りですよ。だから、怨みをのんで死んだ者の霊をその子孫が祀って御霊(みたま)を鎮(しず)めてあげなければならないのですよ。
つまり。。。つまり。。。そのようにして紀氏の怨霊の御霊(みたま)を鎮(しず)めた人が『伊勢物語』を編集したとデンマンさんはおっしゃるのですか?
そうですよ。『伊勢物語』には紀氏との関わりの多い人物が多く登場していますよ。在原業平(ありわらのなりひら)は紀有常(実名で登場)の娘を妻としています。その有常の父・紀名虎の娘(紀静子)が惟喬親王と恬子内親王と珍子(よしこ)内親王を産んでいます。作中での彼らは古記録から考えられる以上に零落した境遇が強調されているのですよ。
なぜですか?
つまり、藤原氏との政争に敗れた事を強調しているのですよ。それにもかかわらず、優美であったという紀氏の有り様を美しく描いているのです。それが『伊勢物語』ですよ。
つまり、編者は紀氏の一員なのですね?
そうですよ。紀氏の子孫が怨みをのんで死んだ一族の霊を祀ったのが『伊勢物語』だと僕は考えているのですよ。ここまで言えば、その編者が誰だかレンゲさんにも分かるでしょう?
もしかして。。。もしかして。。。紀氏の一員で有名な人と言えば。。。あのォ~。。。紀貫之(きのつらゆき)ですか?
さすが、レンゲさんですねぇ~。。。僕もそのつもりで話を進めてきたのですよう。
『禁忌の愛 (2008年2月23日)』より
恨みを呑んで死んでいった紀氏の人たちの御霊(みたま)を鎮(しず)めるために紀貫之が『伊勢物語』を編集したのでしょう?
そうですよ。おそらく、そのために紀貫之は、今、我々に伝えられているような形の物語に纏(まと)め上げたのだと思いますよ。
でも、他にも目的があったという事ですか?
そうですよ。間違いなく他にも目的があったのですよ。
その他の目的とは。。。?
応天門の変
応天門の変(おうてんもんのへん)は、平安時代前期の貞観8年(866年)に起こった政治事件である。
大納言・伴善男(とものよしお)は左大臣・源信(みなもとのまこと)と不仲であった。
源信を失脚させて空席になった左大臣に右大臣の藤原良相がなり、自らは右大臣になることを望んでいたともされる。
応天門が放火され、大納言・伴善男は左大臣源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言で無罪となった。
その後、密告があり伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となり流刑に処された。
これにより、古代からの名族伴氏(大伴氏)は没落した。
藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされている。
藤原良相は源信の逮捕を命じて兵を出し、邸を包囲する。放火の罪を着せられた左大臣・源信家の人々は絶望して大いに嘆き悲しんだ。
参議・藤原基経(もとつね)がこれを父の太政大臣・藤原良房に告げると、驚いた良房は清和天皇に奏上して源信を弁護した。
源信は無実となり、邸を包囲していた兵は引き上げた。
朝廷は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪して死罪、罪一等を許されて流罪と決した。
伴善男は伊豆国、伴中庸は隠岐国、紀豊城は安房国、伴秋実は壱岐国、伴清縄は佐渡国に流され、連座した紀夏井らが処分された。
また、この処分から程無く源信・藤原良相の左右両大臣が急死したために藤原良房が朝廷の全権を把握する事になった。
この事件の処理に当たった藤原良房は、伴氏・紀氏の有力官人を排斥し、事件後には清和天皇の摂政となり藤原氏の勢力を拡大することに成功した。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
一昨日も引用したけれど、大納言・伴善男(とものよしお)は源信(みなもとのまこと)と不仲であった、と書いてありますよ。でもね、藤原氏もこの伴善男を含めた大伴氏を“うるさい奴等だ!”と思っていたようですよ。結局、この事件は藤原氏に利用されて、大伴氏ばかりか紀氏までも巻き添えを喰って、この2つの名族は、この事件によって没落する事になったのですよ。このとき以来、大伴氏も紀氏も政治の舞台から姿を消してしまったのです。藤原基経(もとつね)が影で動き回っていた事が分かるのですよ。
どうして分かるのですか?
『伊勢物語』の中に書いてありますよ。
五、むかし、をとこありけり。東の五条わたりに・・・
東の五条あたりに、忍んで行っていました。
土塀の穴からこっそり通っていましたが、度重なったのであるじが聞きつけ、通い道に毎夜人をおいたので行っても会えなくなりました。
歌を送ったらその女性が悲しんだので、あるじは通うのを許しました。
二条の后に忍んでいったのを、世間の聞こえがあるので兄人たちが守らせたのだということです。
この「二条の后」と言うのは藤原高子(たかいこ)のことです。清和天皇の女御になるのですが、通称「二条の后」と呼ばれていました。まだ、高子が清和天皇の后(きさき)になる前の話です。この高子の住んでいた家に夜毎通っていたのが紀氏と関係が深い在原業平(ありわらのなりひら)ですよ。
それで、「兄人たち」の一人が藤原基経ですか?