官能的な音楽 (PART 1)
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デンマンさん。。。、最近 官能的な音楽 にハマッてるのですか?
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。。。ん? オマエは僕が官能的な音楽にハマッていると思うわけぇ~。。。
だってぇ、タイトルに、そう書いてあるじゃありませんかァ!
いや。。。 僕がハマッていると言うよりも、オマエが官能的な音楽 に目覚めたのだよ!
まさかァ~。。。
まさかァ~じゃないよ! オマエが次の記事に中で書いているのだよ!
3.1 Claudio Monteverdi (1567 – 1643)
C. Monteverdiの最初のオペラ<<Orfeo>>を聴いた。私は、イタリア語が殆んど解らない。ラテン語よりも苦手であるので、イタリア語のオペラは敬遠、いや、無視し続けてきた。この短い人生に、そう何もかも出来ない、と思ったのである。それに、G. PucciniやG. Verdiなどの所謂イタリア オペラをあまり好かない故でもあった。しかしながら、いくら何でも、Baroque初源の<<Orfeo>>に(草子地:音楽史上初めてのオペラということではないが)知らないふりはできかねた。
筋書きは、要するに、イザナギとイザナミの命の話である。旧約の<Genesis>にあるLotの説話にも似ていなくはない。不思議なのは、洋の東西を問わずに、振返るという行為が最愛の者を失わしめる、という古代人に共通した発想である。時折り、考えてみるが、私にはそれがよく解らない。
とにあれ、この作品の結末は、あっけらかんとして、happy endで終わっている。いい気なものだ、とすら言えよう。しかしながら、音楽は、新鮮で素晴しかった。また、楽しみが一つ増えたことも嬉しいことである。
という訳で、今度は<<L’ incoronazione di Poppea>>のLPを買ってきた。これは、Monteverdiの最後のオペラだそうである。そして、これもまた、形の上ではhappy endではあるが、一寸と待てよ、と言うところである。
先ず、すぐに気がつくことは、<<Orfeo>>に於いては、男は男声で、女は女声で唱われ、<<Poppea>>に較べて健康的とすら言えようが、後者に於いては、Neroneがソプラノ(カステラート?)、Arnalta(乳母)がテノールで唱われている。小姓がソプラノであるのは、近代になっても例があるが、女どうしでいちゃついているような気がしないでもない。要するに、一貫して男女の愛の退廃を表現しているように聴きとれる(草子地:無論、音楽が退廃している訳ではない)。
いや違う。このdramaでの真の悪役はAmoreではなかったか。感覚的に、私のボーイ ソプラノ嫌いが影響しているのかも知れないが、一方、神(々)の人間を支配する、そのしかたに何か納得できない、と感じとることは、Aeschylusの<Aias>などに観られる如く、ヨーロッパ人の潜在的な、ということはキリスト教以前からの伝統なのではないか、と私は思うのである。
Monteverdiがそれに対して意識的であったかどうかは私は知らない。しかしながら、七十五歳にして、これほどまでに官能的な音楽を書いた彼ではあったが、一面では、その彼方には彼の覚めた眼が見え隠れしている、と感じられるのである。
Ottone、NeroneそしてOttavia、主要な登場人物の全部が、他者の死を望んでいた。Drusillaでさえ、思い違いではあるが、他の死を願っていた。これは、よく考え抜かれた筋書きである。最も退廃からは遠く、健康的な彼女の愛も至上ではない、ということであろう。それら全てが<Amore>の故であったのである。唯一人、<愛>に何らの関係もなく描かれているSenecaのみが、自らの死を喜んでいた。
そういえば、L. Tolstoyも彼の小説<復活>のなかで、愛が、愛が、愛が、と繰り返す恋愛至上主義の女学生を喜劇的に描いていたが、当人にとってはとにあれ、恋愛感情などというものは、所詮、発情期の男女の心理現象にすぎない、ということか。
それを連想させる場面が、このオペラのなかにあるのである。<自ずから起きる愛>に対する皮肉な視線は、第一幕第五景のArnaltaとOttaviaや第二幕第五景の小娘と小姓の遣り取りに見て取れる。あたかも、退廃なしの<愛>などは、この世に存在しない、と言わんばかりである。なお、散逸した第二幕第四景には、非常にerotiqueな場面があった、と想像される。
とにあれ、<<L’ incoronazione di Poppea>>の台本は、Giovanni Francesco Busenelloの手になることを記さねば、片手落ちで不公平ということになろう。そして、そのtextを選んだのは、他ならぬClaudio Monteverdiであったのである。
ところで、この二人の視点は、例の小姓に悪しざまに言われているSenecaのそれと、どの程度に重なるのであろうか、と気になるところではないか。
蛇足(コーダ):
H. Purcellの<<The Fairy Queen>>の第三幕では、<<Poppea>>とは逆に、男どうしがいちゃついている。Mopsaをカウンタ テノールが唱っているためである。日本の歌舞伎の女形をTVで大写ししたようで、見る、聴くに耐えない。
ついでに書けば、私自身は、少し慣れれば、アルトの声域まで発声が出来る。しかし、私はカウンタ テノールの声が嫌いなのである。J.S. BachのKirchenkantatenなどでも女性のアルトではなく男性のカウンタ テノールが唱う傾向になってきた。アルトが失業してしまうのではないか、という私の心配は、よけいなお世話か。
30-31ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
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あのさァ~、いつも思うのだけれど、オマエの文章はとっても読みづらいのだよ! 英語やドイツ語やラテン語が入り混じっている。。。
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デンマンさん! 人のことは言えませんよ! デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ。。。
それは、オマエの個人的な見解だと思うのだよ! 僕の記事は、日本語が解る世界のネット市民の 多くの皆様に読まれているのだよ!
134ヵ国のネット市民の皆様に読まれていることを自慢したいのですか?
いや。。。 自慢したいわけじゃない! オマエが「デンマンさんの文章だってぇ、長くて読み始めると、じきに飽きてしまうのですよ」と言ったから、僕の長い記事でも まめに読んでくれる常連さんが居る、と言いたかったまでだよ。。。 とにかく、オマエの文章は読みづらいので、多くの人が上の文章を読み飛ばしたと思うのだよ。。。
マジで。。。?
僕だってぇ、読みたくなかった。。。 でも、この記事を書く都合があるので、次のように読み易くして読んだのだよ。
3.1 クラウディオ・モンテヴェルディ
(1567 – 1643)
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モンテヴェルディの最初のオペラ《オルフェオ》を聴いた。
私は、イタリア語が殆んど解らない。
ラテン語よりも苦手であるので、イタリア語のオペラは敬遠、いや、無視し続けてきた。
この短い人生に、そう何もかも出来ない、と思ったのである。
それに、ジャコモ・プッチーニ や ジュゼッペ・ヴェルディなどの所謂イタリア オペラをあまり好かない故でもあった。
しかしながら、いくら何でも、バロック初源の《オルフェオ》に(草子地:音楽史上初めてのオペラということではないが)知らないふりはできかねた。
![](http://blog.livedoor.jp/barclay1720/orfeo2.jpg)
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筋書きは、要するに、イザナギとイザナミの命の話である。
旧約の<創世記>にあるロトの説話にも似ていなくはない。
不思議なのは、洋の東西を問わずに、振返るという行為が最愛の者を失わしめる、という古代人に共通した発想である。
時折り、考えてみるが、私にはそれがよく解らない。
とにあれ、この作品の結末は、あっけらかんとして、ハッピーエンドで終わっている。
いい気なものだ、とすら言えよう。
しかしながら、音楽は、新鮮で素晴しかった。
また、楽しみが一つ増えたことも嬉しいことである。
という訳で、今度は《ポッペーアの戴冠》のLPを買ってきた。
これは、モンテヴェルディの最後のオペラだそうである。
そして、これもまた、形の上ではハッピーエンドではあるが、一寸と待てよ、と言うところである。
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先ず、すぐに気がつくことは、《オルフェオ》に於いては、男は男声で、女は女声で唱われ、《ポッペーア》に較べて健康的とすら言えようが、後者に於いては、ネローネがソプラノ(カステラート?)、アルナルタ(乳母)がテノールで唱われている。
小姓がソプラノであるのは、近代になっても例があるが、女どうしでいちゃついているような気がしないでもない。
要するに、一貫して男女の愛の退廃を表現しているように聴きとれる(草子地:無論、音楽が退廃している訳ではない)。
いや違う。
このドラマでの真の悪役はアモーレではなかったか。
感覚的に、私のボーイ ソプラノ嫌いが影響しているのかも知れないが、一方、神(々)の人間を支配する、そのしかたに何か納得できない、と感じとることは、アイスキュロスの<大アイアース(サラミース島の王テラモーンの子で、トロイア戦争にはサラミース人を率いて12隻の船と共に参加した)>などに観られる如く、ヨーロッパ人の潜在的な、ということはキリスト教以前からの伝統なのではないか、と私は思うのである。
モンテヴェルディがそれに対して意識的であったかどうかは私は知らない。
しかしながら、75歳にして、これほどまでに官能的な音楽を書いた彼ではあったが、一面では、その彼方には彼の覚めた眼が見え隠れしている、と感じられるのである。
オットーネ、ネローネそしてオッターヴィア、主要な登場人物の全部が、他者の死を望んでいた。
ドゥルジッラでさえ、思い違いではあるが、他の死を願っていた。
これは、よく考え抜かれた筋書きである。
最も退廃からは遠く、健康的な彼女の愛も至上ではない、ということであろう。
それら全てが<愛>の故であったのである。
唯一人、<愛>に何らの関係もなく描かれているセネカのみが、自らの死を喜んでいた。
そういえば、トルストイも彼の小説<復活>のなかで、愛が、愛が、愛が、と繰り返す恋愛至上主義の女学生を喜劇的に描いていたが、当人にとってはとにあれ、恋愛感情などというものは、所詮、発情期の男女の心理現象にすぎない、ということか。
それを連想させる場面が、このオペラのなかにあるのである。
<自ずから起きる愛>に対する皮肉な視線は、第一幕第五景のアルナルタとオッターヴィアや第二幕第五景の小娘と小姓の遣り取りに見て取れる。
あたかも、退廃なしの<愛>などは、この世に存在しない、と言わんばかりである。
なお、散逸した第二幕第四景には、非常にエロチックな場面があった、と想像される。
とにあれ、《ポッペーアの戴冠》の台本は、ジョヴァンニ・フランチェスコ・ブゼネッロの手になることを記さねば、片手落ちで不公平ということになろう。
そして、そのテキストを選んだのは、他ならぬモンテヴェルディであったのである。
ところで、この二人の視点は、例の小姓に悪しざまに言われているセネカのそれと、どの程度に重なるのであろうか、と気になるところではないか。
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/b/9/b9d5b1d9.png)
追記(コーダ):
ヘンリー・パーセルの《妖精の女王》の第三幕では、《ポッペーア》とは逆に、男どうしがいちゃついている。
モプサをカウンタ テノールが唱っているためである。
日本の歌舞伎の女形をテレビで大写ししたようで、見る、聴くに耐えない。
ついでに書けば、私自身は、少し慣れれば、アルトの声域まで発声が出来る。
しかし、私はカウンタ テノールの声が嫌いなのである。
バッハの 教会カンタータなどでも女性のアルトではなく男性のカウンタ テノールが唱う傾向になってきた。
アルトが失業してしまうのではないか、という私の心配は、よけいなお世話か。
(赤字はデンマンが強調)
30-31ページ
『間奏曲集―主題なき変奏-作品 2』より
デンマン注: 太田将宏が会費を滞納したようで上のリンク先は削除されてます!
![](http://livedoor.blogimg.jp/barclay1720/imgs/b/9/b9d5b1d9.png)
つまり、オイラが次のように言ったので、デンマンさんはムカついたのですか?
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恋愛感情などというものは、
所詮、発情期の男女の
心理現象にすぎない、ということか。
それを連想させる場面が、
このオペラのなかにあるのである。
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ムカついたと言うよりも、オマエの恋愛感情がよく表現されていると思ったのだよ。。。
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つまり、オイラの恋愛感情というのは発情期の男女の心理現象と変わらないとデンマンさんは信じ込んだのですか?
その通りだよ。。。 オマエが、そう信じているからこそ、上のような事を恥ずかしげもなく書いてしまうのだよ! それにオマエは同じような事を次の文章の中でも書いていた。
恋愛は、年頃の男女が肉体に
触発された心理現象?
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音楽は、けっして、世界共通の言語などではない。
異なる時代にも亘る言語ですらなかった。
それでは、ヨーロッパ音楽の伝統とは、
そもそも、いったい何であったのだろうか。
小澤征爾が言っていたことであるが、彼が若い頃、
東洋人がヨーロッパの音楽をする意味、
可能性について問われたとき
(そういうことを聞く田舎者が
世界のどこにもいるものである。)、
音楽は、世界の共通の言語であるからと、
(当たり障り無く)返事をしていたところが、近頃では、
何か自分が壮大な実験をしているのではないか、と思うようになってきたそうである。
壮大な実験、これは、彼だけのことではないであろう。
ようやく我々が西洋音楽を扱うことに関して
欧米(を超える)水準に達した今日の、この倦怠は何であろう。
かといっても、我々が邦楽に戻るなどとは、
一般的にいって、非現実的であり、できない相談である。
バスク語を話せ、と言われた方が、まだしも抵抗が少ないのではないか。
(中略)
いつだったか、小澤征爾と H.V.Karajanの指揮する M.Ravel の
“Bolero” を聞き比べたことがあった。
小澤の演奏は、英語で言う too square であったが、
Karajanのそれは、なんとも sexyで妖艶ですらあった。
フランス人でもないのに。
やはり、小澤のような指揮者でさえ日本人では及びがたいところが今なおある。
(中略)
わたしは、何々至上主義、といったものが嫌いである。
例えば、恋愛至上主義。
大体、恋愛感情などというものは、ある年頃の男女が肉体に触発された心理現象にすぎないのではないか。
そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。
長い間、生活を共にしていて、まだ互いにsexualityを感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか。
J.S.Bach は、
前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、
私はここを書いていて、少し、困っているが。
芸術至上主義も同じ。
人生は芸術を演出する時空ではない。
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pages 5 & 6 間奏曲集 (主題なき変奏) その2
著者: 太田将宏
初版: 1994年1月 改定: 2006年6月
『老人の性と太田将宏』より
(2016年8月20日)
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この上の文章も、デンマンさんがしばしば引用しますよねぇ~。。。!?
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オマエは上の文章を引用されるのがいやなのォ~? 嫌なら書かなければいいのだよ! ネットで公開したからには、出所を明示して引用されても文句は言えないのだよ!
でも。。。、でも。。。、デンマンさんは同じ文章を何度も何度も引用するのですよ。。。
だってぇ~、オマエが書いた文章は、それほど僕にとって異常で衝撃的なのだよ!
それほど異常で衝撃的でしょうか?
あのさァ~、オマエも書いているじゃないか! 「バッハは、前妻、後妻と共に仲が良かった様子であるので、私はここを書いていて、少し、困っているが」
それが、デンマンさんにとって異常で衝撃的なのですか?
だってぇ~、「バッハは、前妻、後妻と共に仲が良かった」のであれば、普通の人は祝福するのだよ。。。 それをオマエは「困っているが」と書いている。。。 どうしてオマエが困らなけらばならないのォ~?
だから、書いたでしょう!? そもそも、成熟した夫婦が、夫婦であるのにもかかわらずに仲が良い、などというのは、どこか異常ではないか。 長い間、生活を共にしていて、まだ互いに性的欲望を感じたとしたならば、それは近親相姦に近くはないか?
オマエのように、そう考える方が異常だろう!?
そうでしょうか?
そうなのだよ! オマエは奥さんに対して性的欲望を感じなくなったから、仲が悪くなったと思っているけれど、それはオマエの一方的な独断と偏見なのだよ! 性的欲望を感じなくなっても、バッハのように仲のよい夫婦というのはいるのだよ。。。
そうでしょうか?
だってぇ、オマエが困るほど仲のよいバッハ夫婦がその証拠じゃないかァ!
でも。。。、でも。。。、バッハは年取ってからも老妻に対して性的欲望を感じていたかもしれません!
あのさァ~、オマエはこれまでにクラシック音楽を飽きるほど聴いてきた。。。 そうだろう!?
そうです。。。
だったら、もう一度バッハの上の曲をじっくりと聴いてごらんよ!
上の≪G線上のアリア≫ですか?
そうだよ。。。 この曲を聴いてバッハが老妻に対して性的欲望を感じながら作曲した官能的な音楽だと思えるかァ~?
思えません。。。
。。。だろう!? だから、性的欲望を感じなくなっても、バッハのように仲のよい老夫婦というのはいるのだよ。。。
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