狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<4>:神様への甘え、主の価値観、キリストの辱めを身に負う、インフルエンサーの隠遁者、世間の無神論者・ダーウィンの進化論・リベラリズム・マスコミ・タルムードの傲慢

2019-01-31 16:25:35 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<4>
    ~神様への甘え、主の価値観、キリストの辱めを身に負う、
     「インフルエンサー」としての隠遁者、
     世間の「無神論者」「ダーウィンの進化論」「リベラリズム」「マスコミ」「タルムーディック・ユダヤ教」の「傲慢」


 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 
 



 旧約聖書・詩篇16章1~2節
  神よ。私をお守りください。
  私は、あなたに身を避けます。
  私は、主に申し上げました。
  「あなたこそ、私の主。
  私の幸いは、あなたのほかにはありません。」

 The Old Testament・The Book of Psalms 16:1~2
  Preserve me, God,
  for I take refuge in you.
  My soul, you have said to Yahweh,
  “You are my Lord.
  Apart from you I have no good thing.”


 僕は、もっと神様に甘えた方が良いのではないのか……。

 僕は、今まで、特に社会に出てから暫くして以降は、自信を持ち、「独立自尊」の精神、つまり、自立・独立精神と自尊心を持ち、プライド(誇り)が強かった。例え、周囲、世間から可笑しく見られようとも、奇異の目で見られようとも、奇妙と見られようとも、また「不思議」に見られようとも、その「世間の目」に多少はその時々に於いて揺るがされる事はあろうとも、基本的にそれらが僕自身の「基軸」となって、約30年程の間、友達が全く居なかったにも関わらず、ここまで死なずに生きて来た。
 そして今に至っては、僕自身が自分自身をマイノリティである事を素直に認め、周囲、世間一般とは非常に異なり、違い、変わっている事を素直に受け入れている。そして、それらが悪い事とは全く思わず、それらの事、僕自身のアイデンティティ(独自性)、パーソナリティ(個性)にこそ値打ちが有り、誇りを感じ、その「価値」を大事に守っていこうとさえ思っている。
 振り返ると、高校時代までは、神様への信仰心からは離れて大きく逸れ出していたので心は実は悪化していたのであるが、表面的に極端にグレる事が示されず、傍から見ると真面目に見られていたものと思う。勿論、高校3年時に学校をしょっちゅうサボったり、大きく遅刻する状態となっていた事は、表面的にも真面目では失くなっていた。そして、単位制の高校であった事もあって、単位が取れずに卒業出来ず、そのまま中退した。その後、一日も早く一人暮らしをして独り立ちしたいと思う中、社会の事がまるで解らず、20歳前後には家出の経験も有る中で、「自分探し」をした後、親父(実父)と同じ鉄工の仕事を選択し、「自己実現」していった。また見習いに入った頃は、将来、独立して商売したいという「目標」も持っていた。
 しかし、仕事の上での成長や実績、新築マンション購入等と「自己実現化」していく中で、自分自身の「孤独」を感じる等、「虚しさ」を感じる様になった。
 また、独りで行う事がレベルが高いと感じ、そして、奇しくも、正に「不思議」にも、全く偶然な出来事として、2003年1月末、33歳8ヶ月の時、つまり、イエス・キリストが此の世に於いて十字架上で磔刑に遭われて全ての人の為に犠牲になられた時の年齢、33歳半とほぼ同じ歳で、仕事上で大きな怪我をした。普段、集中して気を入れて行っていれば起こる様な事故では無く、品物の大きさも然程大きくは無かった。心臓に近い部分の大動脈が3層有る内の内膜1枚が辛うじて繋がって残っていただけで、しかもその膜が風船の様に膨らみ、いつ破れてもおかしくない状況であった。もし破れていたならば、僕はその時、大動脈破裂による大出血で死んでいた。

 ※但し、イエス・キリストはB.C.4年(秋?、少なくとも冬の12月25日では無い)~A.D.30年4月(グレゴリオ暦、ユダヤ暦では「最初の月」(旧約聖書・出エジプト記12章2節)、「アビブの月」(出エジプト記13章4節))に在世されたので、西暦0年は存在しない為、正確には数えで33年半であり、丸32年半ではないだろうか?。

 その年齢のタイミングで偶然に起こったその出来事は、多分、神様が僕の信仰心のリバイバル(再興)を御計画されてのものであった様に思う。その年齢で、僕自身が意図的に痛い思いをする為に怪我をした訳が無く、また「虚しさ」を感じていたからと言って自殺する為にその事を自分の意志で行った訳でも無い。飽くまでも、「偶然」に起こった出来事である。「偶然」の出来事は、「神様の計らい」である。そしてその事をきっかけとして、先ず、再び神様の方へと向きを変え出し始めた。
 元々は、8歳でカトリックで受洗していたのであるが、その当時に住んでいた近くのプロテスタント(日本同盟基督教団)の教会に少し通った。そこで購入した「新改訳聖書」は、現在、僕の愛読書となっている。プロテスタント教会は、小中学校の同級生に牧師の息子が居た為に、夏休みの教会のキャンプに連れて行ってもらったりした事から、子供の頃から馴染みが有った。
 プロテスタントでは、人間であるマリアを崇拝しない事や、同じく人間でしかない牧師(カトリックでは神父)に対して罪を告白すると罪が赦されるという告解(ゆるしの秘跡)を行わない。元々、プロテスタント教会は、カトリックに対し「プロテスト」(抗議)する為に生まれたものである。よって、より聖書に近づいた教会であると言える。
 しかし当時の僕は、内面が変わりだしたとしても、未だまだ中途半端であった。「虚しさ」、「空虚感」を神様によって埋めてもらおうとするのでは無く、人によって埋めてもらおうとしていた。結婚願望や、その後に医療系の専門学校に通っていた頃、特に通いだした当初は、多くの人と繋がる事を求めていた。そして、周囲や世間、空気に合わせようと努め、世間一般から好かれたい、認められたい、と願い努めていた。しかしそれらによって、僕自身の元々持っていたアイデンティティや個性が中途半端になってしまい、僕が僕では無くなってしまい、自分らしさが失われてしまっていた。
 よって、その当時の僕を今現在の僕が客観的に見ると、間違っていた事が解る。また同時に、僕がその系列の学校を目指していた当時、前述の旧住所近くのプロテスタント教会の牧師が言っていた、「また戻る」という言葉を思い出す。職業の種類を変えたからといって、神様の捉え方や判断は変わらない。それまで続けて来た鉄工の仕事をしながらでも、神様の御心に適う事が出来るのである。
 そして結局、現在に至るまで未婚のままであるし、友達も居ないままである。そして、「過去のレッテル」を貼られたままであり、嫌われ、差別され、偏見を持たれている事は、以前からと同様に変わらない。僕の内面が変わって来たとしても、周囲の反応は変わらないのである。確かに内面が変わったとしても、外見上として、外で、パフォーマンスをするが如くに、行動で示していない事も理解されない原因であろうとも思う。しかし行動には、瞑想の様に、黙想し、隠れて「神様へのお祈り」をし、フリー・ライターの様に引きこもって書き物をする事をはじめとして、色々と種類が有る。そして、何も人に見せびらかしてする事が正しい訳でも無く、それにより人々からの報酬、周囲の承認、世間の褒め言葉を貰おうとする事は「偽善」であり、人の目に触れない様にして行う「陰徳」こそが神様に報いて下さるのである。

 
 



 

 新約聖書・マタイの福音書6章1~8節
  人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
   だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
  あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
  あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
   また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
  あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
  また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
  だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 6:1~8
  “Be careful that you don’t do your charitable giving before men, to be seen by them, or else you have no reward from your Father who is in heaven.
   Therefore, when you do merciful deeds, don’t sound a trumpet before yourself, as the hypocrites do in the synagogues and in the streets, that they may get glory from men. Most certainly I tell you, they have received their reward.
  But when you do merciful deeds, don’t let your left hand know what your right hand does,
  so that your merciful deeds may be in secret, then your Father who sees in secret will reward you openly.
   “When you pray, you shall not be as the hypocrites, for they love to stand and pray in the synagogues and in the corners of the streets, that they may be seen by men. Most certainly, I tell you, they have received their reward.
  But you, when you pray, enter into your inner room, and having shut your door, pray to your Father who is in secret; and your Father who sees in secret will reward you openly.
  In praying, don’t use vain repetitions as the Gentiles do; for they think that they will be heard for their much speaking.
  Therefore don’t be like them, for your Father knows what things you need before you ask him.


 僕は今に至っては、「結婚しない」、「恋愛しない」、「友達は作らない」、「孤独を貫く」、そしてついでに「飯の種」、生きていく「手段」としての仕事として「医療・介護の仕事は行わない」とも掲げている。仕事の種類で値打ちが決まるのでは無い。職種それぞれに、貴賤の違いは無い。僕が過去、医療系の専門学校に通ったからと言って、失敗は失敗として、既に僕自身の中では「終わった事」なのである。しかし世間の多くの人々は、普段は「前向きに」等と言っておきながら、そういう事については「後ろ向きになれ」等と矛盾した事を言っている様なものである。
 「人の欲望」に報いたからといって、その人々が飯を食わしてくれるのか?。面倒を見てくれるのか?。独立意識の強い僕は、そんな「人の欲望」には従わず、「人の欲望」の奴隷にはならない。
 また、僕にとって外の仕事は「飯の種」としての「手段」としてしか捉えておらず、人生の上での「目的」とは異なる。僕の「目的」は、別に在る。
 此の世で生きていく上での「目的」は、一言で言うと、神様の御心に適った生き方をする事である。つまり、神様の御計画通りに、運命、宿命に従って生きていく事である。よって、周囲、世間、人々の欲望や希望に従う事では無く、人々に好かれようとする事でも無い。例え世間から除け者にされようとも、いじめられようとも、迫害を受けようとも、「居れない」様にハラスメントを受けようとも、本当の事、真実を述べていく事、神様の御言葉や御心を伝える事は、その「目的」に適ったものである。キリスト者は、此の世に国籍を持つのでは無く、後の天に国籍が在るのであるから、此の世に「居れない」でも構わないではないか。
 また、自分の個性、アイデンティティを「タラント」(才能)として活かす事が、「使命」を果たす事となる。よって、周囲と違っているから恥ずかしいと言って隠してしまうのでは無く、その違いを持って「目的」を行う事が、神様から与えられた「自分の務め」を行う事となる。そして、「過去のレッテル」や失敗、トラブル、トラウマ、障害、病気、怪我等の「試練」を、「自分の十字架」として忍耐、我慢するよりも、一歩進んだ「神様からの恵み」と捉える事が出来る様になる。

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙12章2節
  この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Romans 12:2
  Don’t be conformed to this world, but be transformed by the renewing of your mind, so that you may prove what is the good, well-pleasing, and perfect will of God.

 
 



 新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~21節
  というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
  彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
  けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
  キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 The New Testament・Epistle to the Philippians3:18~21
  For many walk, of whom I told you often, and now tell you even weeping, as the enemies of the cross of Christ,
  whose end is destruction, whose god is the belly, and whose glory is in their shame, who think about earthly things.
  For our citizenship is in heaven, from where we also wait for a Savior, the Lord Jesus Christ,
  who will change the body of our humiliation to be conformed to the body of his glory, according to the working by which he is able even to subject all things to himself.

 
 



 新約聖書・テモテへの手紙 第二4章5~7節
 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

 The New Testament・The Second Epistle to Timothy 4:5~7
  But you be sober in all things, suffer hardship, do the work of an evangelist, and fulfill your ministry.
  For I am already being offered, and the time of my departure has come.
  I have fought the good fight. I have finished the course. I have kept the faith.

 
 



 新約聖書・マタイの福音書5章10~12節
   義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
  わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
  喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。
 
 The New Testament・The Gospel of Matthew 5:10~12
   Blessed are those who have been persecuted for righteousness’ sake, for theirs is the Kingdom of Heaven.
  “Blessed are you when people reproach you, persecute you, and say all kinds of evil against you falsely, for my sake.
  Rejoice, and be exceedingly glad, for great is your reward in heaven. For that is how they persecuted the prophets who were before you.


 そういう事から、今に至って、僕は敢えて世間からはみ出したいと思い、隠遁生活したいとも思い、「飯の種」以外は引きこもる様にもなっている。僕自身に今や大した欲望も無く、休日に世間一般の人達が外でレジャーに勤しむ姿は、僕にとっては却って虚しく見え、意味が無い様に見える。そして、僕は世俗を嫌う事で、出来るだけその中に入らず、混じらず、外から客観的に見る。
 僕の洗礼名は、「神様の道化師」とも呼ばれた「アッシジのフランチェスコ」である。僕の現在の「ボロボロ」な姿と共通して、とても意味が深く感じる。アッシジのフランチェスコは「世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順」(「世を軽んじ、全てを捨て、清貧・純潔・謙遜・愛・従順・・・『アシジの聖フランシスコ』を読んで」 、2012年12月2日付の本ブログ記事)を体現した方であり、心が「純粋無垢」となり、全てを捨ててからは神様の為に捧げた方である。アッシジのフランチェスコが灰を被り、ボロを纏い、「隠遁」した事と同じく、日本の「良寛」も同様にして、全てを捨て、孤独に、山奥に「隠遁」した。更に、鴨長明は「方丈記」を、吉田兼好は「徒然草」を、同様に山奥での「隠遁」生活に於いて著し、山から世俗の町並みを見下ろしながら、世間を客観的に観察し、此の世の「無常」を想い、世を軽視して、批評、批判した。

 2018年10月16日付、神戸新聞夕刊「紹圭さんの作務日記 7 時代の変化は袂の中に」(著者:浄土真宗本願寺派光明寺の僧侶・松本紹圭氏)より、
  「出家は世捨て人とは違います。『出家とはなにか』(佐々木閑著)にもあるように、出家とは、ただ既存の社会の外に出るのではありません。俗世間の価値観を拒否した人たちが社会と緊密な関係を保ちながら外におり、なおかつ社会にもインパクトを与えてこそ、出家なのです。」

 仏教界の「出家」と同様、西方教会のカトリックや東方教会の正教会の「修道」生活も「隠遁」生活であり、前述の方々をはじめ、その他、仙人等の山奥に逃れた「隠遁者」達は、後々に語り継がれると共に文学や文化、芸術等をはじめとして後世に遺し、「インフルエンサー」(influencer)として、現代に於いてもその影響力を発揮している。
 また、その様な「修行」やイエス・キリストへの信仰心によって「純化」され清浄された心、座禅によって生まれる「無心」、それら「純粋無垢」な心が得られた後、自分自身と欲望に満ちた世間とのずれ・食い違いを感じる事となる。そして、純粋な心を世俗の塵で汚したくない、世俗の誘惑や挑発、攻撃によって心を傷つけたくない、隠遁生活を続けて純粋になった心を守りたいとも、僕の場合は思ったりする。

 しかしそうは言っても、「飯の種」、生活の糧を得る為にも、全く世間の中に出ない訳にもいかない。その上で、僕には元々、地位や名誉、学歴、肩書等は無いものの、その他、見栄や体裁、実績、財産、所有、能力、学力、体力、ファッション等と、自分を強く見せる「此の世の装飾」を手放し、自分の素の姿、個性やアイデンティティを活かし、欠点や短所、失敗をも曝け出し、自分の弱さを認めて神様の力が必要な事を認め、イエス・キリストに祈り願う事が必要である様に思う。そして僕自身の素の姿、多くの失敗やトラブル、迫害等で「ボロボロ」の姿になっている事を素直に認め、僕のその姿を、イエス・キリストが此の世に於ける死の直前、ユダヤの最高法院サンヘドリンにて裁かれ、ローマ帝国ユダヤ属州の総督ポンテオ・ピラトと、且つユダヤの指導者達に煽られたユダヤの世間の人達の下で十字架に掛けられる磔刑に遭い死に葬られた一連の姿を重ね合わせ、そのイエス・キリストの御姿と受難を思い浮かべながら生きていき、イエス・キリストは神様であるにも関わらず、あの様にボロボロにされ、除け者にされ、いじめられたにも関わらず、口を開かず天命のままに僕たちの為に犠牲になられた事を想い浮かべながら、「キリストの辱めを身に負う」覚悟が必要であろう。そして、「弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじ」た時、「イエス・キリストに在る強さ」を獲得出来るものと思われる。
 
 



 新約聖書・ヨハネの黙示録3章12節
  勝利を得る者を、わたしの神の聖所の柱としよう。彼はもはや決して外に出て行くことはない。わたしは彼の上にわたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、わたしの神のもとを出て天から下って来る新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを書きしるす。

 The New Testament・The Revelation of John 3:12
  He who overcomes, I will make him a pillar in the temple of my God, and he will go out from there no more. I will write on him the name of my God and the name of the city of my God, the new Jerusalem, which comes down out of heaven from my God, and my own new name.

 
 



 新約聖書・ヘブル人への手紙13章12~14節
  ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
  ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
  私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

 The New Testament・The Epistle to the Hebrews 13:12~14
  Therefore Jesus also, that he might sanctify the people through his own blood, suffered outside of the gate.
  Let’s therefore go out to him outside of the camp, bearing his reproach.
  For we don’t have here an enduring city, but we seek that which is to come.

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第二12章9~10節
  しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
  ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

 The New Testament・The Second Epistle to the Corinthians 12:9~10
  He has said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Most gladly therefore I will rather glory in my weaknesses, that the power of Christ may rest on me.
  Therefore I take pleasure in weaknesses, in injuries, in necessities, in persecutions, and in distresses, for Christ’s sake. For when I am weak, then am I strong.


 そして、「イエス・キリストに繋がった強さ」を獲得したならば、キリスト者としての対応と対策、「火の付き方」として、挑発に対する怒り、反論、弁明の仕方として、柔和と忍耐を持って、神様からの試練と捉えて、練られて磨かれ、より成熟していく事を信じながら、次の聖句の通りに行う必要があろう。

 
 



 新約聖書・ペテロの手紙 第一3章13~18節
   もし、あなたがたが善に熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
  いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。
  むしろ、心の中でキリストを主としてあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。
  ただし、優しく、慎み恐れて、また、正しい良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの正しい生き方をののしる人たちが、あなたがたをそしったことで恥じ入るでしょう。
  もし、神のみこころなら、善を行なって苦しみを受けるのが、悪を行なって苦しみを受けるよりよいのです。
  キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

 The New Testament・The First Epistle of Peter 3:13~18
   Now who will harm you if you become imitators of that which is good?
  But even if you should suffer for righteousness’ sake, you are blessed. “Don’t fear what they fear, neither be troubled.”
  But sanctify the Lord God in your hearts. Always be ready to give an answer to everyone who asks you a reason concerning the hope that is in you, with humility and fear,
  having a good conscience. Thus, while you are spoken against as evildoers, they may be disappointed who curse your good way of life in Christ.
  For it is better, if it is God’s will, that you suffer for doing well than for doing evil.
  Because Christ also suffered for sins once, the righteous for the unrighteous, that he might bring you to God, being put to death in the flesh, but made alive in the Spirit,


 イエス・キリストと同じく、またイエス様を手本として、例え自分が悪くなくとも、自分を犠牲にする覚悟も必要であろう。昔の日本の武士や、アジア諸国を解放した大東亜戦争後のアメリカとの太平洋戦争で敗れた後、東京裁判(極東国際軍事裁判)で本当は「無罪」であるにも関わらず戦勝国から有罪判決を受けた旧日本軍の指導者の方々、その他、責任をとって自害等された方々も、同様に理不尽で有りながらも犠牲になられたのである。

 
 



 新約聖書・コリント人への手紙 第一15章58節
  ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

 The New Testament・The First Epistle to the Corinthians 15:58
  Therefore, my beloved brothers, be steadfast, immovable, always abounding in the Lord’s work, because you know that your labor is not in vain in the Lord.


 主の内(家)に在るならば(主に繋がっているならば)、何事も無駄にはならず、有益な事となる。「主のわざ」とは、イエス・キリストへの信仰心を持った上で、個性、アイデンティティとして与えられているタラントを活かす事、「神様からの恵み」を活かす事によって伴うものである。特に、神様に委ね切って行われる事、信仰生活の中に於いて偶然に起こる事、自分の意志で行った事では無く「神実現」して頂いた事、奇しい(くすしい)「不思議」な事等は、正に、人間の能力で行われた事では無く、「主のわざ」で行われた事である。

 そして、かつての僕は、他人を信じる「他信」では無く自分を信じる「自信」を強く持っていたものの、それを上回る、神様を信じる「神信」が必要であり、大事である事を悟っている。
 また同時に、他人によって解決してもらう「他己実現」を否定し、自分で達成しようと努めて出来るだけ「自己実現」を行おうとして来たが、より成熟する事で、自分の弱さを悟る事によって神様に成し遂げてもらおうとする「神実現」を必要とする。
 更に、他人の顔色や反応に合わせる「他人第一」を拒否し、僕自身の意志を尊重する「自分第一」で行う事を良しとして来たが(但し、エゴイズムや迷惑をかける事、余計なお節介、介入・干渉は、僕の場合には余り含まない)、今や、神様の御心に適う様に願い「神第一」を祈る。
 そして、世間の目や批評、世論、悪口、バッシングといった「他人の価値観」を疑いながらそれに惑わされず、僕自身で捉え考えて判断する結果としての「自分の価値観」を守り大事にして来たが、聖書の御言葉から読み取れる「神様の価値観」を全面的に受け入れる必要性を感じている。

 しかし、前述通り此の世に生きなければならず、創造主である唯一の神様によって僕は此の世に生かされているのであって、その生きる事から逃げる訳にはいかない。その「生きる」という事も与えられた「使命」である。天の神様を絶対者として仰ぎながらも此の世の世俗の中で生活しなければならないのであるから、一見すると矛盾する様な事柄に遭遇する事が多々在る。よって、「唯一の創造主に従いながら、此の世に在っては『独立自尊』の精神を」(本ブログ2013年4月8日付記事)持つ事を、僕はポリシーとして持ち生きていく。
 成長、成熟していく上で、「自分」で留まってしまえば「傲慢」となる。「他人」では無く「自分」に基準を置く事は、「自立」や「自律」が出来るという意味に於いては基本的に良い事であるが、明確な規範・規準を持たず、それが偏り、節度を無くしてしまえば、単なるエゴ、利己主義となってしまう。その様な場合は得てして、法律や規則、そして世間の目といった、自分の外のもの、人の作ったものを歯止めにしている。しかし、世間は全く当てにならない事は勿論の事、それらの様なものは完璧では無い。勿論、現在の日本国憲法も欠陥だらけであるので、見直し、検証し、改正しなければならない。また、神様、創造主なんて居ないと言う「無神論者」達は、「人間第一」である為、「傲慢」である。自らの身体も心も生命も、そして自然界も宇宙も、全てが全知全能の創造主である唯一の神様によって創られたと考え信じるならば、人は自ずと謙遜、謙虚となる。
 また「自分」で成長が止まると、自分の希望や欲望ばかりを願う様にもなる。日本人は無神論者が多く、初詣をはじめとした神社への参拝に於いては「何々が叶いますように」といったお願い事をしている。これは裏を返すと、自分の欲望を神として拝んでいるだけなのである。この事は前に掲げた聖句、

 「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。 けれども、私たちの国籍は天にあります。」
  (ピリピ人への手紙3章18~20節)

 に当てはまる事である。要するに、「自分」で成熟する事が止まってしまうと、「自分が神様」となってしまうのである。自分の思い、自分の考え、自分の判断、自分の価値観、自分の好き嫌いによって、人を裁いているのである。しかし本当は、人を裁く事が出来るのは、神様しかいないのである。

 
 



 旧約聖書・箴言29章25~26節
  人を恐れるとわなにかかる。
  しかし主に信頼する者は守られる。
  支配者の顔色をうかがう者は多い。
  しかし人をさばくのは主である。

 The Old Testament・The Book of Proverbs 29:25~26
  The fear of man proves to be a snare,
  but whoever puts his trust in Yahweh is kept safe.
  Many seek the ruler’s favor,
  but a man’s justice comes from Yahweh.


 「人を恐れる」とは、周囲の目や顔色を気にしたり、世間の陰口、悪口を恐れる事である。その世間を恐れる事によって、世間に取り入れられようとし、迎合し、媚びへつらい、雑音に屈してその相手の欲望を受け入れ、承認欲求が高まってしまい、結局は、「偽善」を行ってしまう「わな」に陥ってしまう事を言っているのである。そして、次の「支配者」とは、恐れの対象としている世間の事である。世間の多くの人達にとって「支配者」とは、周囲の世間の人達の事であり、その世間の「空気」や「ブーム」、「世論」を形成し、煽り、洗脳している「マスコミ」の事でもある。しかし、飽くまでも人を裁く事が出来るのは唯一の主、神様しかおらず、例え人からの間違った裁きによって迫害を受けようとも、その主に甘えて頼るならば、守られるのである。また、人から嫌われようが、此の世に「居れない」状況であろうが、神様に素直になって主に好かれ、後の天に「居れる」事が出来れば良いのである。

 また日本人の「無神論者」達と同様に、「ユダヤ教」はその名前の通り、ユダヤ人自身を神様として拝んでいるのである。それ故に、「神の選民」だと自惚れると共に「ユダヤ第一」を掲げ、ユダヤ人自身の欲望を願っているばかりなのである。「ユダヤ教」に対しては、イエス・キリストが糾弾し、使徒パウロや改革者マルティン・ルターが改宗や悔い改めを説いた程に、今から約2,600年前の「バビロン捕囚」以降、「バビロニア・タルムード」を規範とし、旧約聖書は殆ど読まないのである。その「バビロニア・タルムード」に書かれてある事は、「ユダヤ人だけが人間であり、異民族は皆獣であるからどの様に扱っても良い」という様な、正に「選民思想」による傲慢そのものなのである。バビロン捕囚時の絶望感と、選民思想を持つが故の誇り高さからの反発心から、その奴隷の身分に置かれていた間に書かれたのである。よって、「バビロニア・タルムード」は当時のユダヤの指導者たち人間の感情からの言葉であって、神様から預かった言葉では無い。

 更に、「選民思想」に通じる「優生学」としての、人間チャールズ・ダーウィンが考え出した「進化論」も、「傲慢」である。今からたった150年程前に、ダーウィンによって「進化論」について書かれて出版された「種の起源」。そして、ダーウィンの従兄であるフランシス・ゴルトンが、その進化論に影響を受けて「優生学」を発表した。「進化論」は「科学」の顔をして装っているものの、その実「出鱈目」であり、「滅茶苦茶」な「屁理屈」であり、聖書を冒涜したものである。学校の教科書にも掲載されているが、その反対を正確に理論付け、「分離の法則、独立の法則、優性の法則」を示し「遺伝学」に貢献した「メンデルの法則」も、両論併記として掲載されている。子供たちは学校の試験で点数を稼ぐ必要が有る為に、「進化論」の様な無駄な知識も記憶しなければならなくなっている。この事も、「学校教育」で行われている「洗脳」の内の一つである。同様に、日本の「マスコミ」の代表「NHK」(日本放送協会)も、大河ドラマの直前の最も注目の集まりそうな時間帯の番組として、日曜日午後7時半から「ダーウィンが来た! 〜生きもの新伝説〜」というタイトルを付けて「洗脳」している。
 「進化論」も、それから派生した「優生学」も、共に、ユダヤ、イルミナティ、フリーメーソンによる「世界共産化グローバリズム」の一環で行われている「教育」であり、極僅かな支配層のみを「人間」として、残りの世界中の世間一般大衆を「獣(ゴイム)」としようとする政策なのである。ジョージ・オーウェルが著した「動物農場」は、かつてのその雛形、旧ソビエト連邦をモデルとすると共に、現在進められている「世界共産化グローバリズム」の様子が描かれている。 「進化論」も「優生学」も、共に聖書を否定したサタニズム(悪魔主義)の思想から作られた「屁理屈」なのであり、ダーウィンは「無神論者」であり、進歩主義であり、急進的リベラリズム、サタニスト(悪魔主義者)である「傲慢」者である。

 
 



 旧約聖書・創世記1章24~28節
  ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ」と仰せられた。するとそのようになった。
  神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
  そして神は、「われわれに似る様に、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
  神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
  神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 The Old Testament・The Book of Genesis 1:24~28
  God said, “Let the earth produce living creatures after their kind, livestock, creeping things, and animals of the earth after their kind;” and it was so.
  God made the animals of the earth after their kind, and the livestock after their kind, and everything that creeps on the ground after its kind. God saw that it was good.
  God said, “Let’s make man in our image, after our likeness. Let them have dominion over the fish of the sea, and over the birds of the sky, and over the livestock, and over all the earth, and over every creeping thing that creeps on the earth.”
  God created man in his own image. In God’s image he created him; male and female he created them.
  God blessed them. God said to them, “Be fruitful, multiply, fill the earth, and subdue it. Have dominion over the fish of the sea, over the birds of the sky, and over every living thing that moves on the earth.”


 その様に、旧約聖書の第一の書、「創世記」の冒頭には、「その種類にしたがって」と、執拗にも述べている。それは、後に「サタニズム」や進歩主義、リベラリズムによって「進化論」が生み出される事を予測して、重要な事であるからという事から念を押している様に思える。
 「権利」と同時に「義務」が存在すべきであり、「自由」には「責任」が伴って然るべきである。「責任」を伴わない「自由」は放埒、放縦であり、秩序や道徳は乱れ、此の世の退廃化はより一層進んでいく。「リベラリズム」(自由主義)の名の下、聖書の御言葉をはじめとして、真実や正しい事が破壊されていき、本当の歴史や伝統、文化も排されてしまう。漸進的な「保守」に反する急進的な「進歩主義」、「リベラリズム」は、全てをお創りになられた創造主である唯一の神様の創造物をも否定する「傲慢」主義である。自由の履き違えは、「傲慢」である。

 神様、イエス・キリストに甘える事によって、「傲慢」とはならず、「謙遜」、「謙虚」となる。自力で解決してしまうと、自分の能力に酔いしれ、自惚れて、「傲慢」となる。また、自力で何でも達成してしまうと、神様を不要と考える「無神論者」に陥ってしまう。振り返ると、僕にもその辺り当てはまる事が多々有る。
 「飯の種」を得るため、「手段」として、自分に与えられたタラントを活かしつつ、多少の折り合いを付けて生きざるを得ないが、出来るだけ精神面の独立を維持すると共に、神様への依存、甘えとなる信仰心をも持ち続けて行きたい。その「神様への甘え」を「抑止力」として、大して自分の能力を持ち合わせていないので、失敗しない様に神様の力で補い支えて下さい、と祈り続けたい。その祈りによって、僕の個性やアイデンティティ、タラントだけでは無く、欠点や短所をも益とされるのであろう。また同時に、自分の弱さを素直に認める事によって、「イエス・キリストと繋がる強さ」を頂く。
 そして「僕」は、「神様の僕(しもべ)」である事を誓いながら……。

 
 



 詩篇18章2~3節
  主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
  身を避けるわが岩、わが神。
  わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
  ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
  私は、敵から救われる。

 The Book of Psalms 18:2~3
  Yahweh is my rock, my fortress, and my deliverer;
  my God, my rock, in whom I take refuge;
  my shield, and the horn of my salvation, my high tower.
  I call on Yahweh, who is worthy to be praised;
  and I am saved from my enemies.


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 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)
  ・新改訳新約聖書(1965年版)(発行:日本聖書刊行会)
  ・World English Bible(eBible.org)

 参考文献
  ・2018/10/16付・神戸新聞夕刊:「紹圭さんの作務日記 7 時代の変化は袂の中に」

 参考・関連動画




YouTube: クリスチャンの価値 進藤龍也牧師@罪友教会(2018/09/30)

YouTube: 聖書の預言No.56(吹替)『黙示録⑨』ークリスチャンの胸に火をつけるー 講師ソン・ケムン牧師





YouTube: 日本CGNTV `本の旅` 448編 - キリストのうちにある生活 (高橋 秀典) -

YouTube: 日本CGNTV `ゴスペルステーション 第18回 - 教会と日常生活とのギャップに悩んだことはありますか? `

 


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