狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

My Testimony/僕の証<5-1/2>:僕はボロボロ……イザヤの預言、人間マリアの処女懐胎を通したキリストの御降誕と侮辱を負われた「イエス様の御姿」& 迫害の中の信仰で「キリストの似姿」を得る

2019-01-31 18:49:57 | エッセイ・コラム
 ※ 本シリーズの記事は、昨年(2018年、平成30年)の内に投稿する予定であった為、本文中の「本年」とは2018年(平成30年)の事であり、訂正するには膨大な数に対応する為の手間と時間が必要となる為、敢えてそのままにしている事を御容赦願います。

 My Testimony & Witness
  僕の証<5>
    ~僕は「ボロボロ」……
     Isaiah 52:13~53:12
     イザヤが預言した人間マリアの処女懐胎を通したキリストの御降誕と、
       侮辱を負われた「イエス様の御姿」
     & 迫害の中での信仰により「キリストの似姿」に変えられる事を想う


 僕は、この度の「My Testimony/僕の証」シリーズの記事を書くに当たって、最初から「証」をするつもりで書いた訳では無かった。書いている途中で、キリスト者(クリスチャン)がプロテスタントの教会等で一般的に行っておられる「証」をしている事に気付いた。このタイミングで、「偶々」、「証」を行う事は、正に「不思議」であり、「意味深」であり、そしてその事が、「神様の思し召し」によって促されて行った様に思われてならないのである。
 尚、キリスト者としての「証」についての説明は、次である。
 
 以下、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より、

 「証(あかし、testimony、witness)。キリスト教では、神様から頂いた恵みを人に伝えることを『証(あかし)をする』と言う。似た表現に、『分かち合う』という言葉があるが、これは少人数で深く話し合うような場合に使われる。大勢の人の前で、発表する場合は『分かち合い』ではなく『証』または『立証』というのが一般的。救世軍では『証言』(読み方は『あかし』)と表記する。
 神の恵みに感謝することはもとより、神を誉め讃える点がポイントである。まれに牧師や司祭による説教と同じく、高度な神学理論を用いたものとなることもある。プロテスタントにおいてはしばしば礼拝の中で時間を割いて信徒による立証が行われるが、牧師による説教が聖書の解き明かしであるのに対し、立証は自らの体験に基づいて神の恵みを参列者と共有することであるという相違がある。また、キリストを信じるに至っていない人に対して証をすることも大切なことだと考えられており、福音伝道の主要な手段の一つでもある。
 さらには、生活の多様な場面において信仰に基づいた選択および行動をとることも証と呼ばれる。クリスチャンは天国に迎え入れられることよりはむしろ、イエスが説教を通じて伝えたことを地上においてどのように生かしていくかということに主な関心を抱く。いわば、クリスチャンの生涯とはそれ自体が証である。」

 (以上、ウィキペディア「証 (キリスト教)」より)

 
 



 新約聖書・ヘブル人への手紙13章12~14節
  ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
  ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
  私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

 The New Testament・The Epistle to the Hebrews 13:12~14
  Therefore Jesus also, that he might sanctify the people through his own blood, suffered outside of the gate.
  Let’s therefore go out to him outside of the camp, bearing his reproach.
  For we don’t have here an enduring city, but we seek that which is to come.

 
 



 新約聖書・ローマ人への手紙8章28~30節
  神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
  なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
  神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

 The Epistle to the Romans 8:28~30
  We know that all things work together for good for those who love God, for those who are called according to his purpose.
  For whom he foreknew, he also predestined to be conformed to the image of his Son, that he might be the firstborn among many brothers.
  Whom he predestined, those he also called. Whom he called, those he also justified. Whom he justified, those he also glorified.

 
 



 新約聖書・コロサイ人への手紙3章9~12節
  互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
  新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
  そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
   それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 The New Testament・The Epistle to the Colossians 3:9~12
  Don’t lie to one another, seeing that you have put off the old man with his doings,
  and have put on the new man, who is being renewed in knowledge after the image of his Creator,
  where there can’t be Greek and Jew, circumcision and uncircumcision, barbarian, Scythian, bondservant, or free person; but Christ is all, and in all.
   Put on therefore, as God’s chosen ones, holy and beloved, a heart of compassion, kindness, lowliness, humility, and perseverance;


 
YouTube: The Passion of the Christ - Worthy Is The Lamb

 この2004年に公開されたアメリカ映画「パッション」(原題:The Passion of the Christ)は、イエス・キリストの受難と磔刑を描いているものであるが、その描かれている姿が凄惨であり、且つ、当時のユダヤのサンヘドリン(最高法院)等の指導者達やそれらに煽られた世間一般のユダヤ人達がイエス様を処刑に追い込んだ事実を含めて、ほぼ「“新約”聖書」に忠実に再現した事から、新約聖書を否定しイエス様をキリストとして認めていないユダヤ教関連組織やユダヤ人権団体等のユダヤ団体から、「反ユダヤ」等と批判が起こる大反響を、世界中に呼び起こした。またその中で、公開当時、ユダヤに支配されている欧米メディアや、同じくユダヤに迎合しているドイツの司教団等からも、多くのクレームを浴びた。更に、バチカンもユダヤから圧力を掛けられて、「発言撤回」に応じた。
 その映画を監督したメル・ギブソン氏は、現在も米映画界ハリウッドから干されたままでいる。同じくユダヤの支配下に在るハリウッドは、「反ユダヤ主義」というレッテルを貼られたメル・ギブソン氏を、除け者にし続けている。

 今から約2,000年前、イエス・キリストが天の御国から此の世に御降誕された。そして30歳の時、バプテスマのヨハネから洗礼を受け、荒野で悪魔の誘惑に勝利し、バプテスマのヨハネが捕らえられた後、公への伝道を行われた「公生涯」を始められた。「3年半」のその宣教の御公務の後、33歳半の時、完全な無実でありながら十字架の磔刑に遭われ、全ての人の罪の身代わりとなる犠牲になられて此の世での死に葬られた。その死から数えて3日目に、イエス・キリストは蘇って「復活」され、天に昇られた。

 ※但し、イエス・キリストはB.C.4年(秋?、少なくとも冬の12月25日では無い)~A.D.30年4月(グレゴリオ暦、ユダヤ暦では「最初の月」(旧約聖書・出エジプト記12章2節)、「アビブの月」(出エジプト記13章4節))に在世されたので、西暦0年は存在しない為、正確には数えで33年半であり、丸32年半ではないだろうか?。しかし、聖書の中でのキーとなる年月「3年半」が「公生涯」として間違いないとすると、「教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳」(ルカの福音書3章23節)であるからやはり33歳と半ばで受難に遭われたのであろうか?。
 
 



 旧約聖書・イザヤ書40章3節
   荒野に呼ばわる者の声がする。
   「主の道を整えよ。
   荒地で、私たちの神のために、
   大路を平らにせよ。

 The Old Testament・The Book of Isaiah 40:3
   The voice of one who calls out,
   “Prepare the way of Yahweh in the wilderness!
   Make a level highway in the desert for our God.

 
 



 新約聖書・マタイの福音書3章1~3節
  そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
  「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
  この人は預言者イザヤによって、
   「荒野で叫ぶ者の声がする。
   『主の道を用意し、
   主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
  と言われたその人である。

 The New Testament・The Gospel of Matthew 3:1~3
  In those days, John the Baptizer came, preaching in the wilderness of Judea, saying,
  “Repent, for the Kingdom of Heaven is at hand!”
  For this is he who was spoken of by Isaiah the prophet, saying,
   “The voice of one crying in the wilderness,
   make the way of the Lord ready!
   Make his paths straight!”

 
 



 マタイの福音書3章5~9節
  さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
  自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
  しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
  それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
  『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。

 The Gospel of Matthew 3:5~9
  Then people from Jerusalem, all of Judea, and all the region around the Jordan went out to him.
  They were baptized by him in the Jordan, confessing their sins.
  But when he saw many of the Pharisees and Sadducees coming for his baptism, he said to them, “You offspring of vipers, who warned you to flee from the wrath to come?
  Therefore produce fruit worthy of repentance!
  Don’t think to yourselves, ‘We have Abraham for our father,’ for I tell you that God is able to raise up children to Abraham from these stones.

 
 



 マタイの福音書3章13~17節
   さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。
  しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」
  ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。
  こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
  また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 The Gospel of Matthew 3:13~17
   Then Jesus came from Galilee to the Jordan to John, to be baptized by him.
  But John would have hindered him, saying, “I need to be baptized by you, and you come to me?”
  But Jesus, answering, said to him, “Allow it now, for this is the fitting way for us to fulfill all righteousness.” Then he allowed him.
  Jesus, when he was baptized, went up directly from the water: and behold, the heavens were opened to him. He saw the Spirit of God descending as a dove, and coming on him.
  Behold, a voice out of the heavens said, “This is my beloved Son, with whom I am well pleased.”

 
 



 新約聖書・マルコの福音書1章12~15節
   そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
  イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
   ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
  「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 The New Testament・The Gospel of Mark 1:12~15
   Immediately the Spirit drove him out into the wilderness.
  He was there in the wilderness forty days, tempted by Satan. He was with the wild animals; and the angels were serving him.
   Now after John was taken into custody, Jesus came into Galilee, preaching the Good News of God’s Kingdom,
  and saying, “The time is fulfilled, and God’s Kingdom is at hand! Repent, and believe in the Good News.”

 
 








 新約聖書・ルカの福音書3章23~38節
   教えを始められたとき、イエスはおよそ三十歳で、人々からヨセフの子と思われていた。このヨセフは、ヘリの子、順次さかのぼって、
  マタテの子、レビの子、メルキの子、ヤンナイの子、ヨセフの子、
  マタテヤの子、アモスの子、ナホムの子、エスリの子、ナンガイの子、
  マハテの子、マタテヤの子、シメイの子、ヨセクの子、ヨダの子、
  ヨハナンの子、レサの子、ゾロバベルの子、サラテルの子、ネリの子、
  メルキの子、アデイの子、コサムの子、エルマダムの子、エルの子、
  ヨシュアの子、エリエゼルの子、ヨリムの子、マタテの子、レビの子、
  シメオンの子、ユダの子、ヨセフの子、ヨナムの子、エリヤキムの子、
  メレヤの子、メナの子、マタタの子、ナタンの子、ダビデの子、
  エッサイの子、オベデの子、ボアズの子、サラの子、ナアソンの子、
  アミナダブの子、アデミンの子、アルニの子、エスロンの子、パレスの子、ユダの子、  ・・・※ 「NU」には、アラム(Aram)の代わりにアデミン、アルニと書いてある。
  ヤコブの子、イサクの子、アブラハムの子、テラの子、ナホルの子、
  セルグの子、レウの子、ペレグの子、エベルの子、サラの子、
  カイナンの子、アルパクサデの子、セムの子、ノアの子、ラメクの子、
  メトセラの子、エノクの子、ヤレデの子、マハラレルの子、カイナンの子、
  エノスの子、セツの子、アダムの子、このアダムは神の子である。

 The New Testament・The Gospel of Luke 3:23~38
   Jesus himself, when he began to teach, was about thirty years old, being the son (as was supposed) of Joseph, the son of Heli,
  the son of Matthat, the son of Levi, the son of Melchi, the son of Jannai, the son of Joseph,
  the son of Mattathias, the son of Amos, the son of Nahum, the son of Esli, the son of Naggai,
  the son of Maath, the son of Mattathias, the son of Semein, the son of Joseph, the son of Judah,
  the son of Joanan, the son of Rhesa, the son of Zerubbabel, the son of Shealtiel, the son of Neri,
  the son of Melchi, the son of Addi, the son of Cosam, the son of Elmodam, the son of Er,
  the son of Jose, the son of Eliezer, the son of Jorim, the son of Matthat, the son of Levi,
  the son of Simeon, the son of Judah, the son of Joseph, the son of Jonan, the son of Eliakim,
  the son of Melea, the son of Menan, the son of Mattatha, the son of Nathan, the son of David,
  the son of Jesse, the son of Obed, the son of Boaz, the son of Salmon, the son of Nahshon,
  the son of Amminadab, the son of Aram, the son of Hezron, the son of Perez, the son of Judah,  ・・・※ “NU” reads “Admin, the son of Arni” instead of “Aram”
  the son of Jacob, the son of Isaac, the son of Abraham, the son of Terah, the son of Nahor,
  the son of Serug, the son of Reu, the son of Peleg, the son of Eber, the son of Shelah,
  the son of Cainan, the son of Arphaxad, the son of Shem, the son of Noah, the son of Lamech,
  the son of Methuselah, the son of Enoch, the son of Jared, the son of Mahalaleel, the son of Cainan,
  the son of Enos, the son of Seth, the son of Adam, the son of God.

     ※ 「NU」:Nestle-Aland UBS

 ・「NA」:ネストレ・アーラント(Nestle-Aland)…「現代の聖書学の最高水準を示すギリシア語新約聖書テキスト。正式名称は『ギリシア語新約聖書』を意味するラテン語の『Novum Testamentum Graece』(ノーヴム・テスタメントゥム・グラエケ)である。ドイツの聖書学者エベルハルト・ネストレ, 1851年-1913年)が校訂し、同じくドイツの聖書学者クルト・アーラント, 1915年-1994年)が再校訂 …(中略)… 現在の学問水準から考えうる最高のテキストであるといっても過言でなく、現代日本語訳の『新共同訳聖書』や『新改訳聖書』など、ほとんどの新約聖書の翻訳元となっている。」(ウィキペディア「ネストレ・アーラント」より)
 ・「UBS」:米国聖書協会(The United Bible Societies)…日本聖書協会(Japan Bible Society)をはじめ、ドイツ、ギリシャ、ロシア、ウクライナ、韓国、インド、インドネシア、フィリピン、南アフリカ、コロンビア、ハンガリー、オランダ、スロベニア、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、英国外国、スコットランド等の聖書協会(Bible Society)を含む「146の会員協会があり、200以上の国や地域で活動しています。」(Wikipedia「United Bible Societies」より)
 ・「新共同訳聖書」…日本聖書協会
 ・「新改訳聖書」…いのちのことば社、新日本聖書刊行会(旧・日本聖書刊行会)

 
 



 マルコの福音書6章3~6節
  この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
  イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
  それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
  イエスは彼らの不信仰に驚かれた。
   それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

 The Gospel of Mark 6:3~6
  Isn’t this the carpenter, the son of Mary, and brother of James, Joses, Judah, and Simon? Aren’t his sisters here with us?” So they were offended at him.
  Jesus said to them, “A prophet is not without honor, except in his own country, and among his own relatives, and in his own house.”
  He could do no mighty work there, except that he laid his hands on a few sick people and healed them.
  He marveled because of their unbelief.
   He went around the villages teaching.


 イエス・キリストの御降誕より700年前(~800年前)に「バプテスマのヨハネ」の事を預言した大預言者イザヤは、イエス様が人間の女性の身体を通して、しかも「処女懐胎」を通して、100%神様でありながらも100%人間の姿形を取られて、此の世に御降誕される事も預言した。
 全知全能の絶対者、創造主に不可能な事は無く、人間の能力では不可能な事、「奇しい(くすしい)」事、「不思議」な事も、成し遂げられる。
 
 



 旧約聖書・イザヤ書7章14~16節
  それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。
  この子は、悪を退け、善を選ぶことを知るころまで、凝乳と蜂蜜を食べる。
  それは、まだその子が、悪を退け、善を選ぶことも知らないうちに、あなたが恐れているふたりの王の土地は、捨てられるからだ。

 The Old Testament・The Book of Isaiah 7:14~16
  Therefore the Lord himself will give you a sign. Behold, the virgin will conceive, and bear a son, and shall call his name Immanuel.
  He shall eat butter and honey when he knows to refuse the evil and choose the good.
  For before the child knows to refuse the evil and choose the good, the land whose two kings you abhor shall be forsaken.

 
 



 新約聖書・マタイの福音書1章23節
  「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
 
 The New Testament・The Gospel of Matthew 1:23
  “Behold, the virgin shall be with child, and shall give birth to a son. They shall call his name Immanuel;” which is, being interpreted, “God with us.”


 そして、イエス様は今後、「此の世の終末」に於いて「再臨」される事が聖書に於いて預言されているのであるが、約2,000年前の前回に御降臨された時、此の世に於ける「公生涯」を送られた終わりに於いて、天の父なる神様の御計画として、キリスト(メシア、救世主)として、子なるイエス様は受難を受け入れられ犠牲になられた。
 ユダヤの最高法院サンヘドリンに於ける尋問と裁き、ローマ帝国ユダヤ属州の総督ポンティオ・ピラトと共にユダヤの指導者達に煽動されたユダヤの世間一般大衆達からの侮辱と裁き、そして十字架上での残虐苛酷な磔刑にて死に葬られた事も、イザヤは預言した。

 僕は、現在「ボロボロ」である。元々から地位や名誉、肩書、学歴、人脈等は持っていなかったが、ここまで失敗を重ね、トラブルを重ね、財産も捨て、欲望も捨て、レジャーも捨て、結婚や恋愛願望も捨て、繋がり願望も捨て、一時目指した医療系も捨て、少なくとも世間一般と比べると、知識や教養はともかくとして、それらを所有する事から距離を置いている様に思う。「目標」と言えば聞こえは良いが、その実、その基盤になっているのは、大抵の場合、自分の欲望でしかない。神様の御計画と自分の目標の方向が正反対であれば、一生かけても達成する事は有り得ず、「絶望」に至るのみである。
 そして、その様な現状を見た、理解に乏しい周囲の人達の中には、「貧しい」、「寂しい」、「みすぼらしい」、「可哀想(かわいそう)」、「不憫だ」等と思っている人が少なく無い。
 僕自身は、「孤独」である事を寂しいとは全く思わない。英語で言えば、「単独、独力、独立」を意味する“alone”であり、心細さや寂しさを意味する“lonely“では無い。よって僕にとってみれば、「可哀想」等と言いながら単なる介入、干渉行為でしかない「有り難迷惑」や「余計なお節介」は、ストーカー行為に相当するとしてしか思わない。
 そして実際、僕はその様なストーカー行為を受けているのであるが、その原因となっているのがプライバシーの侵害である。そのプライバシー侵害の被害を原因として、悪口、誹謗中傷、バッシング、ハラスメント、いじめ等を受ける事に繋がっている。よって、プライバシーの侵害という根本原因が失くならない限りは、幾ら対症療法をしても状況が変わる事は無く、生涯、それらを背負って生きていかなければならない。
 この僕が受け続けている事と同じ事を、今から約3,000年前のユダヤの王ダビデも、「姦淫の罪」を犯した後、生涯背負ったのである。ダビデも、生涯、ストーカーとプライバシー侵害の被害に悩まされ、その分、常に、神様にお祈りをして救いを願った。
 そして、僕の周囲に居る人達、世間の人達の中には、「ボロボロ」とか言ったり、無用性を意味する「ゴミ」、サゾ(S)の反対のマゾの意味で「M」、そして「人前で、こっけいな振る舞いをする人。笑いものになるだけの人。」(goo辞書(デジタル大辞泉(小学館))より)という意味で「ピエロ」等と言って茶化したり、嘲笑し、侮辱し、差別し、迫害している。

 僕の洗礼名は、「アッシジのフランチェスコ」である。修道士アッシジのフランチェスコは、「神様の道化師」と呼ばれた様に、「人を笑わせるようなこっけいな身ぶりや言葉。また、それをする人。おどけ。」(goo辞書(デジタル大辞泉(小学館))「道化」より)を表現された方である。しかし、その様な見え方は、理解に乏しい者達の捉え方である。実際は、後の天の御国での命を重視して、此の世に於ける生を軽んじ、それ故に知識を持つ事をも否定する程に此の世で所有する事を拒否して全てを捨て、自分を「無」にして全てを神様の為に捧げる「犠牲」になられ、「清貧」、「純潔」、「謙遜」、「愛」、「神様に従順」を体現されたのである。此の世に従順では無く、人に従順では無く、飽くまでも「神様に従順」なのである。よって、人からの承認や報奨、褒め言葉等を必要とはしないのである。そしてアッシジのフランチェスコは、その「ボロボロ」の姿と行いから、当時既に腐敗し権力も肥大していたカトリック界に改革の必要性の気付きを与えた。「アッシジのフランチェスコ」が僕の洗礼名となっているのは、とても意味が深い様に思う。
 また、「アッシジのフランチェスコ」と同様な日本の人物として、僧侶「良寛」が居られる。歌人、漢詩人、書家として多くの作品を後世に遺され、現在に至ってはその評価も高い。その遺されたものからも解る様に、世俗に於ける様々な所有物が実は「空」であるのに対し、所有しない方が却って精神的に、また心が豊かになる事を示している。また、「色即是空」、様々なものはいずれ消えて無くなる、また死によって手放す事になるので、それらに執着する事の愚かさをも示された。良寛もアッシジのフランチェスコが灰を被って修行した事と同様に、ボロを纏い、地位も身分もお寺も全て捨て、山奥の粗末で質素な草庵に隠遁生活した。反応や動作が鈍く、口が重く、また世間ずれし、何時も子供達と遊んでばかりいた事から、「薄鈍(うすのろ)」とか「愚鈍」、「無用」等と、当時は陰口を叩かれていた。しかし、「無い」事によって、そのストレスが溜まる事の無い、世間一般とは反対のスローライフは、豊かであった。
 旧約聖書「ヨブ記」のヨブは、神様に対して全く正しい生活を送っていたにも関わらず、サタン(悪魔)がヨブを打とうとしている事を天の神様が承諾した事から、サタンに取り付かれて癩病(らい病)に罹った。その様な身に置かれる中で、また訪問者からの言葉によって、神様への全き心が揺さぶられ、次第に神様に文句を言う程に心がぐらつくが、その試練と神様の御心を神様に対する素直な心で全面的に受け入れた後、神様によって身体は回復され、生活も再興された。

 アッシジのフランチェスコにしても、良寛にしても、またヨブにしても、その他、世間から逃れて山奥へ逃げた隠遁者達に対して、当時は偏見の目で見られ、差別され、迫害の対象になっていたものの、後世になってから評価されたりファンが増えたりしている。その事は、イエス・キリストの昇天後、原始キリスト教界を背負って先導し、新約聖書の大部分を書いてそれらを遺された、使徒パウロにも当てはまる。
 大抵の人々は、年を重ねると欲望が減っていくものである。「終活」や「断捨離」等と、所有するものを捨てていくものである。それは、諦観の念もあろうが、俗世間の虚しさに気付く事による者もあろう。欲望の対象となるものの全てが、実は「空っぽ」である事を理解するから、それら無駄なものは所有しない、意味の無い事は行わないと、悟るのである。そして、その所有を手放した時、心は自由になる。また、心を此の世、俗世間から距離を取る事と共に、神様への信仰を据える事によっても、心が解放される。

 僕は現在、「ボロボロ」である。また、「ゴミ」や「M」等と思われても構わない。そして、見栄や体裁を繕うのでは無く、敢えて自分の能力の無さ、「弱さ」を素直に認め、それによって「イエス・キリストと繋がる強さ」を身に付けていきたい。
 そして例え迫害を受けようとも、その都度、イエス・キリストの受難を思い浮かべ、「神様であるイエス様でも『ボロボロ』になられたのだ」と励みにし、またそのイエス様の姿勢と態度を手本にして生きていきたい。
 更に、そうして僕が迫害を受ける中で、イエス様への信仰を基とした、御心に適った、悔い改めをして聖霊が宿った中で生きるならば、「イエス・キリストの『似姿』」、イエス様に似た姿へと変えて近付いていく事であろう。
 ……(「My Testimony/僕の証<5-2/2>」へ続く)

 「 My Testimony/僕の証<5> 」<1/2> ~ <2/2> ↓
  【1】 【2】


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