狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

下山・・・世間的なものの束縛からの解放で得られる幸せ・・・「下山の思想」を読んで

2012-12-01 01:51:42 | 世間・空気
 立ち止まり、心静かにして瞑想する様な気持ちで本書を読みました。
 「下山の思想」 (著者:五木寛之氏、出版社:幻冬舎、出版日:2011/12/10)
 現在日本を含めた世界の先進諸国は行き詰まり感が覆い、金融・産業等の経済、社会、環境等の各分野で破綻が生じています。世界的な利権構造が出来上がっており、此れを崩そうとしても難しい状態です。限界的な世界人口は70億を超え、食料飢饉・エネルギー不足が考えられます。世界の基軸通貨のドルは崩壊寸前で、ユーロも同様に危機に陥っています。正義のリビアのカダフィ大佐が金貨でアフリカ通貨を発行して紙切れのドルから切換え様としていた事を始め、中国も米国債をいつ売ろうかと考えています。日本においては今から22年程前のバブル経済崩壊から一向に以前の様な活気を取り戻す事が出来ず、デフレによる悪循環と長期の不景気により、世間全般的に鬱の様な状態で覆われてしまっています。一時的に良くなった様に言われていた時は、社員のリストラ非正規社員の活用、下請け町工場の切り捨てによる大企業の生き残り等、格差を作ってマスコミの取り上げる上層部の表面のイメージを良くしていただけです。日本だけでなく先進諸国は皆かつての経済的・産業的な成長は不可能で、限界を知る必要が有ります。確かに、原発を全廃して其の分の再生可能な代替自然エネルギーを行なう事に関する産業や、地球上に出してしまった放射性廃棄物の除染・処理に関する産業、原発解体に関する産業、有機リン・有機塩素等の石油由来合成化学物質の無害化処理に関する産業、又、合成化学物質に頼らない天然・自然由来の製品に関する産業、ゴミを出さずに全てを循環して利用するシステムの構築の為の産業、自然環境を保護し回復させる産業等においては国内において成長が見込まれます。しかし、全体的に見れば無くすものの穴埋めをしているだけで、総合的には成長はしません。但し今までの様に、お金の利益を得る為に自然環境や人間を破壊する事が無くなり、永遠に持続可能な生命の循環システムが作られます。自然の生態系の一部として人間が存在し、自然破壊は人間の破壊に繋がっています。様々な精神疾患、疫病、生活習慣病、道徳・倫理の荒廃等、ほんの70年程前の戦前と比べても大分壊れて来ています。成長には限界が有り、人間の能力には限界が有り、科学にも限界が有ります。此の事を悟って念頭に持った上で、一人ひとりが今後の自分の行く末を考える必要が有ります。
 私も若い頃は前ばかりを向いて勢いが有りましたが、怪我をしてつまずいてその勢いが止められ、過去を振り返る様になりました。過去を振り返ると、忙しさのあまりに、それまで多くの事を見逃して来た事に気付き、失敗や罪に当たる様な事も誤魔化して来ていた事が解り、後悔し反省しました。成長をしている頃はそういうもので、後ろを振り返って点検する事が無く、知らない間に思わぬ偏った方向へ逸れてしまっている、人間としての本来あるべき姿からかけ離れてしまっている事が有ります。過去は実際に在った事、良きも悪しきも自分の心の奥深くにしまわずタブーにせずにさらけ出して「悔い改め」をし、それによって未来への真の希望が湧いて来る事に繋がります。人間の根本は心であり、その根本が悪ければ、表面的に繕っても何時までも変わりません。その様な人間一人ひとりが国を、世界を構成しています。また最近、インターネット等でタブーが暴かれているのも過去を振り返る事によるのであり、その様に過去を振り返る事から真実が見えて来ます。
 色々な面で自分を高める努力は必要ですが、無理をせず、人と競わず、マイペースで生活する事が、殆どの世間の人々にとっては下山に当たると思います。学歴・肩書き・地位・富・名誉・世間の評価・評判・見栄・付き合い・しがらみ等の束縛から自分自身を解放し、今までと異なった見方・捉え方で情報を捉えたり物事と接し、自分は自分として世間とは少し違った道を歩む事が下山に当たると思います。そうする事で、行き詰まり感のある方々には新たに希望が湧いてくるのではないかと思います。情報の捉え方が異なると言う事は、世間的に常識とされる事を疑い、真実を探り目覚める事にもなります。
 最初に記した終末的な状態、今までにも日本においては末法思想と言うものが流行して、と呼ばれる粗末な衣服を身にまとった空也等の僧が布教して回りました。其の後に、本書に登場する法然親鸞が仏教界で改革を行ないました。法然と親鸞は、其れまで必要とされていた修行、教養、寄進等を必要とせずに、罪を犯した人も皆念仏を唱える事によって浄土へ行く事が出来ると言う教えを、山から下りて下層の民や武士・貴族の間に入って広めて行きました。因みに、法然の母は秦氏で、父も秦氏の血筋の辛島氏を先祖にもつ漆間時国で、岡山の秦氏の多く住んでいた美作国の生まれです。親鸞も源頼朝と源義経の甥ですが、源氏は秦氏の血筋です。武士と貴族にも受け入れられたのは、同じ血筋であったせいかもしれません。秦氏は古代ユダヤ人で景教徒(ネストりウス派のキリスト教(アッシリア東方教会))です。又、同様に本書に登場し其の二人と同時期に活動されていたアシジのフランシスコは、イタリアにおいて当時教皇権力が国の王よりも強くなって腐敗していたローマ・カトリックの下で、教皇に反抗せずに教皇から会則の認可を正式に得て活動しました。元々裕福な商人の家の生まれでしたが、学問を身に付けず、全てを捨て、粗末な衣を身にまとって托鉢的に布教したり、らい病の患者を癒したりしました。その清貧の姿から民衆や教皇・枢機卿・司教・司祭が学んで、教会側が正していく事に繋がりました。そして、聖書においては今後の世の終わりにイエス・キリスト(救世主)の再降臨と裁きが書かれています。かつて降臨された時には、戒律・形式主義に強まって偽善を行なっていたユダヤの指導者達と戦ってその改革に努め、そのキリストの教えが弟子達によって伝道されていきました。
 下山し、自分の能力で自己実現しようとするのでは無く、運命に委ねる、神様に委ねる事が人間の本当の姿に繋がるものと思います。成る様に成る。宇宙、自然、あらゆるものの存在について科学的に説明する事には限界が有り、説明出来ない「不思議」な事が現実に起こっています。人間の生命を始め、その奇跡的な事が、万物の創造主である神様によるものと言う事を悟り、其の方に委ねる事で全ての事からの解放が得られ、真の幸福へと繋がります。
 
下山の思想 (幻冬舎新書)下山の思想 (幻冬舎新書)価格:¥ 777(税込)発売日:2011-12-09