狷介不羈の寄留者TNの日々、沈思黙考

多くの失敗と後悔から得た考え方・捉え方・共感を持つ私が、独り静かに黙想、祈り、悔い改め、常識に囚われず根拠を問う。

私は単独で聖書のみを信じる・・・宗教団体・組織・聖職者には依存せず。そして、独りで神に対して直接、悔い改める。

2017-04-16 10:52:18 | 宗教組織
 最近は、どこの寺も檀家が少なくなり、寺を維持する事が困難という事もあり、僧侶・寺や連携する会社が様々なサービスを新たに生み出し、生計や維持に繋げている様である。
 核家族化や、跡継ぎなし、墓地保有困難等で、墓を建てない例も多くなり、葬式も多様化している。家族葬、直葬、海洋葬等の散骨、樹木葬等の自然葬、手元供養、納骨堂、永代供養等、選択肢・サービスが多くなっている。
 その様な傾向の中で、通信販売のAmazonには「お坊さん便」なるものが有る。葬儀・法事・法要に僧侶を派遣し、戒名も授与するという。
 この世で生きていく限り、お金が必要となる。現在と未来を生きていく為のお金や、施し・奉仕の為のお金、家族の養いのお金は必要最小限のお金であると、私は考える。また、雇用を生み出し生産やサービスで社会に貢献する事の出来る事業を起こす為のお金も有益であると考える。しかし、単に欲望を基にする事や贅沢に相当する事は余分なものと考え、その為のお金は不必要であると考える。
 僧侶や神父、牧師等の聖職者は一般的な仕事をせず、収入は基本的に信者からの寄付・施し・布施に依っており、補足として出版や自給自足的生産を行っている方もいる様である。そして日本では、宗教組織・団体は非課税である。但し、一般的なお金を得る為の仕事だけが仕事である訳では無く、家庭の主婦の家事も仕事であり、報酬を得ないボランティア・奉仕活動も仕事である。そして、神からの使命・運命によって各個人にそれぞれ与えられている任務を行う事も仕事である。宣教師は、神の御言葉を伝導するという役割を果たす仕事をしている。
 しかし私は、基本的に宗教組織や団体というものは間違っていると考えている
 私はキリスト者(クリスチャン)であるが、教会には通っていない。そして、聖書のみを信じている
 聖書が「一次資料」であり、教会や宗教団体、ミッションスクール、関係団体、法王(教皇)、枢機卿、神父、牧師、長老、信徒等が配布し宣教しているのは「逐次資料」である。
 「逐次資料」は、時間を経る毎に人の手が加えられ、編集され加工され曲げられてしまっている。「一次資料」というものは、「そのまま引用」しなければならない。組織や権力者の都合によって、都合の良い部分のみを用いて、反対に都合の悪いものを隠蔽するという事も行われている。
 一方、仏教は釈迦の教えの言葉をその弟子達が経典化して生まれたものだが、その経典はインドから遠い日本の地に辿り着くまでに大きく書き換えられてしまっている。釈迦の言葉が「一次資料」であり、現在の日本の仏教はその「一次資料」からは大きくかけ離れてしまっている。故に、日本の仏教は、本当の仏教では無い。インド仏教は、墓も戒名もいらない。
 私はキリスト者である故、戒名は勿論必要ない。また、仏壇や神棚も必要ない。仏教においても、本来は何も必要なかったはずである。また、旧約聖書に書かれている「十戒」「偶像崇拝」が禁じられている為に、カトリック信者が拝んでいる「人間マリア」さんの偶像は勿論必要ない。「十字架」は、イエス・キリストが無実でありながらも全ての人の罪の身代わりとなられて犠牲になられた事を思う為の象徴として、偶像崇拝には相当せず、唯一掲げても良いと考える。しかし、ネックレスやイヤリング等と、アクセサリーとしてファッション等に利用する事は間違っている。また教会も、新約聖書の大部分の書簡を書いたパウロの頃の原始キリスト教会は、迫害される事や殺される事を恐れる事無く聖書に忠実であったが、現代までにルターの宗教改革等が在ったものの、派手で壮麗な教会、階級制度、クリスマスのお祭り、世間への迎合等と、本来の姿から遠のいている
 神父や牧師、僧侶等が、人の罪を勝手に赦す事は出来ない。また、供養も必要無い。一人ひとりの、一個人の神への信仰心と、そこから生まれる祈りと「悔い改め」によって、神に罪が赦される。人間が人間の罪を赦す事は出来ない。同様に、人間が聖人等と勝手に認める事も間違いである。また、故人が天に昇った後の幸福(冥福)についても、一人ひとりが単独で、神に祈れば良いのである。それを聖職者等に頼む必要は無い。
 墓については、聖書の中に登場している様に、昔のヘブル人(現在のユダヤ人)が墓を建てたという記述が在る。そしてキリスト者にとっての墓は、「追懐」(ついかい)する所である。墓を前にして故人を懐かしむ所であり、決して故人を神格化して拝む訳では無い。また、意味のない線香も上げない。そして「千の風になって」という歌と同様に、墓の中に故人はおらず、天の神の御許(みもと)に行っているのである。故に私個人の考えとしては、墓も必要ないと思っている。しかし父が亡くなった時には、私だけの問題では無い為、悩んだ末に墓を建てた。墓碑建立費用は一般相場よりも大分安く、カタログも含めてインターネット経由での契約であった。却って、市へ払う墓地永代使用料(当初使用料)の方が、墓碑建立費用よりも高かった。
 一個人の「信仰心」が有れば良い。たった一人の「単独者」として神と向き合う。僧侶、神父、牧師等、私は必要としない。「宗教」は、結局は、この世のものである。「聖書」は宗教の書物では無く、宗教の経典でも無い。

 新約聖書・ピリピ人への手紙3章18~21節
 「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。
 彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。
 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
 
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 引用文献
  ・新改訳聖書(発行:日本聖書刊行会)

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